早坂泰次郎 「フロムライヒマンにおける「役割」の問題−精神療法とTグループ−」(1978)立教社会福祉研究2.1−11の要約

 

1、はじめに

 フロムライヒマンの「人間関係の病理学」(後に精神医学者の阪本が「積極的心理療法」として翻訳)の翻訳を進めていた頃、個人的精神療法に強い関心を抱いていた。しかし十年ほど前からの私の関心事はセンシティヴィティ・トレーニング(ST)になった。トレーナーの経験を通して私はそれが「積極的心理療法」の中でのセラピストの経験と多くの点で共通していることに気づかされた。ライヒマンの精神療法の相手は分裂病者を主とした精神科の患者たちであり、STは健常者である。また精神療法は個人だけを相手にしていて、STは集団を相手にしている。そうした違いにも関わらず両者の間にはたくさんの共通点が感じられる。タイトルの中の「役割」の語はその点の主題化に他ならないのだが、精神療法に「役割」という主題を(肯定的に)設定することは、カウンセラーや精神科医の一部から強い批判や反発を招く可能性が予想される。従ってフロムライヒマン自体について論を進めるに先立って、まずそうした批判や反発の可能性の根拠について簡単に触れておくことにしたい。具体的に言えばロジャースとクーパーの役割否定の論理を概観することになる。

 

2、精神療法におけるセラピストの役割

 ロジャースはその著「エンカウンター・グループ」の中で次のように記している。「それぞれの人間は、人生の初期に自分の感情をありのままに表すよりもシグニフィカント・アザーズ(個人の人格形成に重要な意味を持つ人々)から認められるような仕方で行動する方が愛されるらしいことを学ぶ。そこで彼は、その見せかけの行動でもって外界と関係を保つような殻を身につけ始める。この殻は比較的薄い時もあれば、それが厚い装甲のようになっていて、彼はそれを自分と思い、内にある真の人間をまったく忘れ去っていることもある。

 さて個人が防衛の殻を脱いだ時が、真の孤独に対して最も傷つきやすい時である。彼の内的な、私的な自己がいくぶんかさらけ出される−子供っぽく、感情豊かで、欠乏感と満足感、創造的衝動と破壊的衝動を伴った自己。不完全で傷つきやすい自己が。彼はこの隠された自己を理解したり受け容れたりできる人は絶対にいないと感じている−彼が必死で隠そうとしているこの奇妙で矛盾した自己を好んだり愛する人なんていないと確信している。それゆえに他人からの深い疎外感をいだき、「もし誰かが私のほんとうにあるがまま、内面を知り尽くすならば、もう私を尊敬したり愛したりできないだろう」と思う。この孤独に彼は痛いほど気づいている。人生の意味は自分の仮面で外的現実と関わるところには存在しないし、することもできない、と悟る時、孤独は絶望に近づいていく。」

 一読して明らかなように、ここでは「内にある真の人間」としての自己自身と役割とは完全に別のものとみなされている。役割とは、つまるところ仮面であり、防衛の殻であるに過ぎない。エンカウンター・グループの目的は、何よりもまずこうした仮面と防衛の殻を取り去り「孤独な自己」に直面させることである、とロジャースは主張する。逆に言えばロジャースにとって役割とは疎外の、あるいは<我—それ>という人間関係の道具化の厳選に他ならないとされる。従ってファシリテーターやカウンセラーは役割的にふるまってはならないわけである。

 役割を型にはまったうわべだけの行動の仕方と理解して否定的に捉えるという感覚は、日常生活にもかなり浸透している。しかし特に精神療法場面におけるセラピストの役割(的ふるまい)を、特に鋭く否定し、告発するのは反精神医学の立場をとる人々である。その一人、クーパーによれば患者は家族の中で「犠牲者の役割」を負わされている。患者を病気へと追いやる。「家族は“病者”という一片の概念を操って、患者を手品のように素早く家族から排除してしまう。従って患者を犠牲者の役割から救い出すためには病院が「従来の精神医学が押し付けてきた非常に人為的なスタッフと患者の役割を超えて、活動の自由というものがかなりの程度まで許容されうる」治療的共同社会になることが必要である。そのために「スタッフは自分たちの役割から身を引いてしまう実験」が試みられ、その成果が評価されることになる。すなわち反精神医学の主張は「反役割」の理論に他ならないと言って良いであろう。

 反精神医学の人々と反対に、フロムライヒマンは精神療法における精神科医の役割を重視している。次にその点について吟味してみよう。

 

3、フロムライヒマンの役割理解

彼女がセラピストの役割の重要性を説くのは、あくまでも彼女自身の臨床家としての体験からである。「積極的心理療法」の中の「医師−患者関係における精神科医の役割」と題する章は、次のように始められている。

 「それでは精神科医に要求されるのはなんであろうか。それは少なくとも他人の言うことに心から耳を傾けうる人間でなければならないと言うことになる。自分の問題や体験の線にそった方法で反応し得ないようにすることは、特殊な訓練を受けていない場合、ほとんど行いえない対人交渉のアートなのである。治療者が患者のデーターに対し自己の生活体験によって反応するのを防がねばならないと言うことを考えると、治療者が自分の非職業生活に十分な満足と心理的安定の源泉を持っていなければならないことがわかる。これによって個人的満足と心理的安定のために患者のデーターを利用としようとする誘惑を捨てさらねばならないのである。治療者は自分が望み必要だと感じていた生活上の個人的なことを実現できなかった場合には、少なくとも自分自身でこれを識っていなければならない。そしてその生活上の不満と不幸の根源を明らかにし、それを統合させようとする態度を取らねばならないこれが精神科医に対して個人的精神分析の訓練が要請される第二の理由である。」

 これが精神療法家の役割についてのフロムライヒマンの基本的視座である。彼女の言う精神療法家の役割とは、第一義には患者との関係の中での身のこなし方であるが、それには結局精神療法家の生活全体、生き方全体が関わりを持っている。役割において、精神療法家は生そのものへの態度を問われるのである。精神療法家は精神療法の家庭における参加観察者だ、と言うサリヴァンに発する主張が、何度も繰り返され、概念だけでなく具体的振る舞い方が提言される。(これはTグループにおけるトレーナーの体験ともピッタリ符合する。Tグループはその意味で健常者を対象とする精神療法だとさえ言えると我々は考えている。Tグループは健常者の中に隠れ潜む、不健康な部分への働きかけの形における精神療法なのだと言うこともできよう。)

 次節で論じるように、役割とは通常、既成の社会あるいは組織によって設定され、期待された行動の型という意味で理解されている。従って役割的行動とは普通、型にはまった行動を意味している。しかしフロムライヒマンの役割理解はいかなる意味でも型にはまった行動を峻拒する。精神療法家は因習から自由でなければならないという主張が繰り返されるのはそのためである。

 「精神障害者の回復に役立ちたいと望む精神療法家なら、誰でも考慮しなければならない絶対的な前提がある。それは、こういった人々の特定なパーソナリティの特別な欲求に関して十分な洞察と尊敬を抱き、自分が、彼らをある文化の持つ因習性に同調する適応状態に導くために呼び出されたのではないことを知ることである。精神療法家たちは、精神分裂病者が、我々の文化や社会の容認した基準への固着がなくても回復しうることを学ばなければならない。」

 以上の引用から明らかなようにフロムライヒマンにおいては、精神疾患の治療とは、最終的には単なる適応や単なる症状の除去ではない。フロムライヒマンは「多くの精神分裂病質のパーソナリティの回復は、精神療法かが因習や偏見から自由であるかどうかにかかっている」とさえ言っている。

 「理想を言えば、その治療目標は、患者の成長成熟と内的独立によって達成されるのである。・・このような目標を実現するためには自己実現の能力、成熟した愛を与え受け入れる能力を増大させる必要がある。」

 精神疾患を持つ人々が、因習から自由にすることは、自らの生き方の因習に囚われた部分を持ち、順応と適応から基本的に自由になっていない精神療法にとっては、脅威であるかもしれない。

 「心理的安全がかけているところには不安があり、不安があれば他者の不安に対する恐怖が存在する。だから心理的に不安定な精神科医は患者の不安を気に病みやすく、このため患者の不安や、不安を呼び起こすような患者の体験を聞こうとしないことがある。」

 このような医師は、精神療法の過程における精神療法家の役割として認められ、正当にも要請さえされてきた行動様式に従って行動しながら、それが実は密かな自己防衛になってしまっている、ということが起きるのである。医師や精神療法の中の密かな自己防衛は必然的に、治療者と患者の関係から「尊厳の感覚と平等の感覚」を喪失させる。結果、権威主義が君臨することになる。

 「心理的に不安定な医師は、患者に犠牲を払わせてでも自己を主張しようとする要求に囚われているので、他の場合でも不幸な結果を引き起こすことがある。自分自身のイメージに従ってこれを型にはめることができるという妄想に囚われる。その結果、このような治療者は自分の人生で解決として受け入れ体得させようとするようになるので、患者は自分自身の解答を追求するために必要だった助けを得ることができなくなる。こうした不合理的権威行動は、患者の成長と成熟への傾向を妨げ、心的外傷の原因となる両親からの権威的行動を反復することになる。もちろん「合理的権威」を持った専門家としての態度をとることに反対しようというのではない。しかし不幸に怯えている過度に依存的な傾向がある患者は、医師その人を権威者として認めがちなものであるが、これを利用するというようなことがあってはならない。」

 今や、フロムライヒマンがいう精神療法家の役割とは何かが明らかになった。一言で言えばそれは専門家としての合理的権威の実践ということであるということができよう。しかし合理的権威の実践をなぜなお役割と呼ばなければならないのだろうか。役割とは普通外的社会的に設定されたーその意味では不合理な権威によって強制された型通りの行動をいうのではないだろうか。はっきりと役割の重要性を打ち出しながらフロムライヒマンはこうした点については明確に語っていない。この点で注目されるのは、最近社会学や社会心理学の分野で展開されてきた社会的役割の概念に関する諸論である。次にそれを一瞥しよう。

 

4、役割の社会心理学—role playing と role taking-

 役割の概念は、ふつう二つの異なる起源に由来する、と見なされる。一つは文化人類学者リントンに由来するものである。リントンによれば各個人は、集団(社会)の中でそれぞれの位置をあらかじめ与えられている。この位置をリントンは「地位」と名付ける。地位は、完全に個人の意志とは無関係な「課せられた地位」と、本人の意志と行為によって「獲得された地位」とに区別される。しかし後者といえども、地位そのものを個人が作り出すわけではなく、それはその社会に内属する秩序自体に由来している。それぞれの地位にはさまざまな形の権利と義務が帰属し、ある地位にある人には、その地位に帰属すると認められたように行動することが期待される。役割とは個々人がそれぞれ自己の占有する地位に対して寄せられる社会的期待を、行動によって実現することに他ならない。彼らの行為は全て地位−役割セットの<流出物>に過ぎず行為者の主観的意思や創意がそこに入り込む余地はない。役割のこうした捉え方を山口節郎は「規範的パラダイム」と名付けている。この規範的パラダイムはパーソンズに代表される構造−機能主義の基本的パラダイムとして数十年に渡ってアメリカ社会学会に君臨してきた。

 役割概念のもう一つの起源は社会心理学者ミードである。ミードの役割理論はリントンのそれと基本的視点が逆である。それゆえ学会において最近まで傍流に属してきた観がある。ミードは人間の相互作用の基本的特徴を、意味あるシンボル〜具体的にはことば、身ぶり、記号など〜による媒介の働きにおく。「他者はその動作に表現された行為者の主観的意図を読み取り、これに応じた反応を示す。相互作用はこのように他者の意図を読み取ることによって成立する。・・それは一定の状況の下で他者のありうる行為を知るために、一時的かつ想像的に自分を他者の立場におき、他者の眼を通して自らを見るということである。それは他者の意図を知ることによってその行動を自らがとるためである。」ミードはこのことを「役割採用」(role taking)と名付ける。この概念はリントンに由来する役割概念、並びにその帰結として出てくる役割演技(role playing)の概念とは全く異なっている。前者の基本的関心が「社会体系の維持はいかにして可能か」であるのに対し、後者のそれは、「社会的現実を人間性の実現とすることはいかにして可能か」である。所与の社会的期待を演技するだけのこととしての役割は、人間を規制し束縛するが、そうした規制や束縛から自由になるところにこそ役割採用の意義がある。役割に生きるか(role playing)役割を生きるか(role taking)の違いということもできよう。

 主題に戻ろう。フロムライヒマンの否定する非合理的権威の役割とはrole playingのことであり、反対に極めて重視する合理的権威の役割とはrole takingのことであるのは今や明らかであると言って良いであろう。このことの意味は極めて重要である。役割を肯定するかどうかは管理を肯定するかどうかに関わるからである。最後にその点を明らかにしておこう。

 

5、role taking と患者管理

 

 通常管理というmanagementの原義は「馬を意のままに支配すること」であった。その原義がつきまとう限り、管理される人々が管理を否定するのは当然である。しかし同じく管理を意味するadministerは「奉仕する」を原義としている。管理が奉仕でありうるならば、それは否定の必要なないどころか、むしろ積極的に実現されるべきであるのは当然である。支配としてのmanagementrole playingを要求するのに対して、奉仕としてのadministrationrole takingによって可能になるのだということができるであろう。

 フロムライヒマンが「革新的な精神療法は本質的に共同事業であり、その成功は結局患者にかかっている。精神療法家は本来、専門家的な助手としてつかえるのである」という時、精神療法における医師の役割の認識がrole playingからrole takingへと転換したことが語られていると言って良いであろう。精神療法かが役割をplayする時、患者は支配される。しかし役割をtakeする時、患者は自分自身の果たすべき役割をtakeすることができるようになる。

 役割は人間関係そのものに根ざしていることを発見したのはミードであった。role takingとは主体としての人間の−自己自身−のありようそのものに他ならない。role takingを含めて役割の一切を原理的に否定することは、人間関係の中における自己自身を否定し、抹殺することに他ならない。反精神医学が、その優れた、そして鋭い問題意識にもかかわらず、次第に自らのアイデンティティを失い、結局一種のないものねだりのような方向をたどっていくようになることの原因の、少なくとも一つはここにあるということはできはしないであろうか。

 

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