「自己の現象学~禅の十牛図を手引きとして」要約 上田閑照

「自己の現象学~禅の十牛図を手引きとして」要約 上田閑照

 

一、

 十牛図と呼ばれるのは、求められている「真の自己」が自己実現の途上において牛の姿で表されているからで、心牛とも言われる。牛と牧人(これは真の自己を求める自己を表す)との関わり方の親密化の具体的過程によって、自己の自己への関わり方の深化、本来化が示されている。自己が真の自己になる自覚的な過程が、野牛をつかまえてかいならしていく具体的な経験の動的過程によって示される牛が真の自己を象徴するというより、牧人と牛との動的関わりが、自己の自己への関わりのリアルな類比になっているただ最後の4図では牛は出てこない。そこに真の自己の自覚の特徴がある

(十牛図の図版と説明のサイト)

https://biz.trans-suite.jp/27101

 

第一図 尋牛 見失われた心牛を尋ね求める初発の境位

 

 真の自己を求めるというまさにそのあり方が真の自己の始まりである。最も大切なもの、「なくてはならぬ唯一のもの」を見失っていることに気づき、驚いて探し求め始めるが、どこに求むべきか、それは何かまだわからない。

 真の自己は「自己とは何か」という問いとして現実にはじまる。我々は通常自意識は過剰であるが、自己理解はさしあたっては自己誤解という変様態にあり、自覚はさしあたっては無自覚という欠如態にある。無自覚が自覚される自覚として、自己の存在が問となる。それは次の2つの問いで現れる。

1、現にある自己は果たして真の自己か

2、真の自己とは何か

 

 自己において見出される所有、能力、個性、理性、叡智的直感、純粋意志などは一時は答えのように思えても、この二重の問いに砕かれる。この問いにおいては自己自身が問題である故に「一人生まれ一人死す」と同じ意味での孤なる独りとして問いの道を歩まざるを得ない。彼は問としての自己を一人で引き受けつつ、自己自身を尋ね求めるが、問題化した当の彼一人の力は尽き、自己に行き詰まって途方に暮れる。

 自己でありながら、自己が自己を見失うことが根本的顛倒である。自己を、何ものかとして「有るもの」のごとくに求めていく故に、それは求めるものが見出され得ない仕方で求めることになる。求めれば求めるほど遠くなる。力つきるまでそう求めざるを得ない。力尽き果てて求めようとしないことが、尋牛の驚異の眼目である。行き詰まって動けなくなった時、自己が真の問いそのものに化す。自己という問題に目覚める。

 

第二図 見跡 牛の足跡を見つける

 

 経典を学び、教えを聞いて、法理の上で真の自己のあり方の見当がついた一切の経と祖師の言葉は全て真の自己の蹤である。真の自己である人の自覚の言葉は、真の自己を求める人に対して、その真の自己というあり方への指示になる。

 ただ行き詰った彼が「真の自己」の足跡としてどのような教えの言葉に出会うかは決まっていない。歎異抄の言葉か、新約聖書のイエスの言葉か。それは因縁。自分で決め得る生き方の問題ではない。自分でということが一切不可能になったところで機縁に応じて与え示されてくる言葉だからである。別の道を歩んでいても、禅の言葉が彼に語りかけることもあり得るかもしれない。

 自力の行き詰まりが、教えを信受し先輩の模範を模範として受容し得る前提としてある。彼は教えによって「真の自己は無我であり、その故に、自己自身であるところに置いて同時に万物と不二であり、自他一如である」という道理を知る。また先人の生ける模範によって、その道理の真実性を確信する。ただ彼は道理を知解したに止まり、教えの言葉にとらわれて自由を得ない真の自己というあり方が、彼自身として現実にならなければならない。自己自身への道は、今や道理を身の上に実験・実証する行でなければならない。

 

第三 見牛 行に置いてその牛を身の上に実地に見た境位

 

 見たものをしっかり離さず(第四 得牛)、そして牧いならす(第五 牧牛)。日常工夫のうちに自己が自己になっていく。狭義の「行」が主題となる。教えの言葉が自らの身体に置いて生きたものとして自己化されてくる。「これだ!」に集中する。

 「行」とは問いの具体的遂行(「自己とは何か」という問いの身体化と身体的反復)であり、それと一つに、身体による答えの具体的な先取りがある。行の持続のうちに答えが現在化してくる。坐禅という身体(心身全体)のあり方は、一方自己全身で「自己とは何か」と事実具体的に問うているあり方である。

 しかしどこまでも「自己とは何か」の追究に行き詰まり、自己と世界の一切がこの自己自身の身体として一つの問いの塊、手も足も出ない問いの塊になったということであり、他方その答えがその同じ坐禅に具体化されることでもある。坐禅という身体のあり方が、何ものにも対立せず自己を無限の開けの中に見出すような本来の自己の具体化である。身体が問いになりきっているが故に答えをその体で受け止め得るただ本来の自己が答えとして真に身体化されるためには、行の持続がなければならない。持続せしめるものは己事究明である。ただ行とは坐禅だけではない。「せぬ時の坐禅」がある。

 

第四 得牛図 ぴーんと張り詰めた綱

 

 本来の自己とそれを求める自己との統一の具体化が起こる。しかし厳しい統一のあり方で、分裂を統一する苦修が必要となる。再分裂を未然に引き締める持続的緊張がある。

 この中で人と牛は統一のうちに和み、行が「安楽の法門」という本来の質を表してくる。先立って進む彼に牛は自ずから従って進む、そして次の「帰家」へ至る。分裂の力を経験している人は手綱を話さないが、それは緩んでいる。この図では彼が牛を引っ張るのか、牛が彼を引っ張るのか。両者を表す。

 本来の自己である牛は実はどこにも逃げていない。逃げていたのはかえって彼である。彼が牛を求めていたのは、実は牛に求められていたのだ。本来の自己とは実現されるべき対象や理想というものではない。牛は足跡を残し、半身を表し、全身を現し、彼を引き戻し、今や彼を離すまいと懸命である。彼の苦しい修行は同時に「法の強為」(人間が神から求められていることにパラレル)である。「彼が牛を」「牛が彼を」の双方向性はそのまま統一が次第に自然になる第五 牧牛の境位へと動いていく(ただ十牛図では「彼が牛を」の視点で書かれている)。

 

第六 騎牛帰家

 

 牧人と牛はすでに一体、自己の自己への関わりにおける分裂葛藤が止み、一体の自然さは自ずから天地の自然に交響して笛の音になる(一体性という曲)。それまで牛にのみ注意を集中していた彼のまなこは、今やはるかに大空を望み見る。

 

第七 忘牛存人

 

 牛が完全に自己化されて、牛として別に見られることが全くない(牛のことはすっかり忘れた)。牛が人になった。真の自己が現実の人となった。牛の姿は一人の人のうちへ消えている。牛は真の自己を求めているあり方に対して、自己と自己が分裂しているようなあり方のうちに現れてきた「真の自己の姿」であり、真の自己になっていない自己によって「真の自己」として捉えられていた。それ自身は真の自己ではない。牛の姿という有相の表象性自体が自己分裂の表現でもあった。家郷に帰着して「真の自己」という問題が亡くなった時、牛も消え、牛を求めていたあり方も消える。

 牛の姿だからでなく総じて一切の有形有相の自己像、あらゆる概念的ないし、実存範疇的自己把握は(「本有の仏性」でも「神の前に立つ単独者」でも「超越によって贈与された自由なる実存」であっても)その有形性、有意味性のゆえに、当の自己自身であるところでは消える。このような仕方で今や自己自身、我は我なり、真の自己が現成した(金鉱から取り出された純金)ように見える。これまでの図のように先を予示する不十分性はないただこれは第七、この自己は究極とされず踏み越えられなければならない。

 

第八 人牛倶忘 

 

 牛のみならず、人そのものも忘れられた境位であり、空なる円相、絶対の無である。第七の自己が全面的に捨てられなければならないことを厳然と示す捨てる捨てないを絶しているが、第七に対しては絶対の否定となる。第七から第八は成るのではなく、還滅する。真の大死であり、決定的な非連続の跳躍である。自己の自覚が繰り広げられるのが十牛図である。質的飛躍が何か「有るところ」でなく、絶対の無へと至る。完成した自己自身が有るということそのものに問題がある。

 第一から第六までそれぞれの仕方で動きがある。自己の自己自身への実存運動と言える。第七では動きは終わり落ち着き座っている。動きが止まるところに大きな危険が隠されている。「我は我なり」が有的自己同一に変質し、消えたはずの牛が「真如の月」に変相して現れる。

 悟りという迷いに堕する。信仰者が自らを信仰者と捉えた時と同じで、段階は転落の段階もある。自己から迷い出していく。例えば自己喪失を無我とすり替える、自己主張を「独尊」とすり替えるなどである。

 転落堕落はあらざるを得ない(神秘的合一からの脱落と同じ)。行には退転の危険がある。反復が行のリアリティで、堕落によって鍛えられた精進が必要である。これで至る第七に最も大きな危険がある。

 「従来失せず、何ぞ追尋を用いん」とは、行によって獲得されるのでなく、本来は本来あるということであり、「家山に至れり」とは、どこかに到達した、何かを得られたということがある限り、すなわち「真の自己」がある限り、真の自己ではないということである。

 第七から一歩を進めると、もう先はないという無の中に自己を捨てることになる。真の自己は無我であることを知っている、行で体感している。その際、自己がそのような自己になるという自己関心が中心で、「自己の自己への関係」が主軸であった。停まると同時に自己に収められる、我意我執のエレメントである有的自己同一の枠内であった。

 万物と一体、自他一如と言われても、それがリアルに成立する究極の場の開けへと自己は真に切り開かれていない。自己のうちに沈殿するのは真の自覚でない自覚とは「自己が自己に」ということではなく、自己の置かれている場所から自己が照らされることである。真の自覚は究極的な場の開けに切り開かれてその開けに照明されつつ成立する。

 

二、

 

第八 人牛倶忘 

 

 何も書かれていない空なる円相である。迷いも抜け落ち、悟りも空ぜられるところ。否定も肯定も絶した絶対無である。忘れたというより、元々人も牛もない。求めて得たということも、求めて得たものを捨てることも、元々ない。冒頭で「従来失せず、何ぞ追尋を用いん」はこの所から見られていた。第一の尋牛「以前」の元々に飛躍的に、漸修を一挙に消しえて頓悟によって至る。第七の「一」に対して第八は「無」、「悟」に対して「迷悟なし」、「聖位の一境」に対して「凡聖跡形なき」である。

 ここにおける絶対無は本来非本来という実存哲学的な、主客という認識論的な、有無という存在論的な、善悪美醜という価値論的な二元とそれに基づく区別対立が空ぜられるところである。一元論でもない。「一」は「二」と二をなしている。根源的な自己なしの場である。自己が絶対になるという意味ではなく、「自己の無」ということが絶対的である。自己による自己の自己否定ではなく、端的に絶対無である。

 何もないということではない。何もないは有の立場で実体から類推した無であって、あたかもマイナスの実体のごとくに無を考える絶対無は有に対する無にとっても等しくその無の否定になる。「無の無と転ずる」、「空もまた空」、「色即是空、空即是色」であり、「自己ならざる自己に甦る」(第九、第十の境位において示される)。

 第一から第までの自己の全経歴が一挙に空滅し、絶対無が絶対の始原となる真に新しく「無」から始める(一から始まる以前に)無から始まる根源力は、第一から第七までの歩みの所得を奪い得た無の力である。

 

第九 返本還源 

 

 図には川の流れとその岸辺に花咲く木のみ描かれているが、風景の描写ではない。「水は自ら茫々、花は自ら紅」がそのまま本源に還った自己の姿である。第八から第九は「絶後に甦る」ところであり、絶対無から甦り、無窮の否定から端的な肯定への大転換が起こる。

 この甦る時、絶対無から現前する山水が直ちに「自己ならざる自己」の「自己ならざる」ところであり、無我の身体、無我の具体となる。この「自ら」が大切で、人間にとっての対象や環境ではない。見る通りではなく、自然がもともと自然であるところ、現前した本来の「おのずから」である。

 「自己ならざる自己」は絶対無によって、ものがその「自ずから」において現ずるような開けに、真に切り開かれており、その開けに現ずるものを自らの具体となす。自然の原経験であり、自己の根源的現成である。

 第八から第九は段階的高まりでなく、相互透入相即互転の動きである。連関のうち絶対否定が第八、絶対肯定の方向に分節されたのが第九である。真実は全連関の相即する動性であり、論理の妥当しない領域である。「一字も説かず」。

 

第十 入鄽垂手

 

 街に入ってぶらりと手を下げ利他を行ずる。「自己ならざる自己」が自己として現れると、人間世界に自己展開し、自ずから他己をして真の自己に目覚ましめる道となる。他者が自ら目覚める仕方によってである。真の自己は「涅槃に住せず」、ちまたに出て他者と交わる。絶対無から出ながら、絶対無を離れるわけではない。第八との相即相入として現起する。

 利他の行とは、「~しなければならない」意識でなく、それも含みつつおのずからの交わりが、自然に、事実他のためになる。出会いと交わりにおいて、相手が彼自身になる道を歩むようになる。聖者の相貌でなく、語ることも宗教的テーマでない。自他の出会いと交わりが主題化される。老若の二人はたまたま出会ったのでなく、出会いへと出てきた。真の自己が「向かい合った二人」になっている。

 絶後に甦った自己は、絶対無によって切り開かれていて、自他という二倍になっている。自己は自他の「間」に真に切り開かれている。「間」が自己の「自己ならざる自己」の固有の内面になっている。間が真の自己であり、自他一如である。これが他者に真に出会うということである。自分のペースではなく、無のペースで他と交わる。こうした交わりが甦りの第二の身体(それまでは他者は自己と自己の関係のかげにあった)である。

 老は「自己ならざる」ところにおいて自己として無事でありつつ、相手である若のことを自己のこととする。故に老は若にその存在の如何を問う与える何かを持つわけでもなく、説教せず、教示せず、ただ問う(日常的な問い)。問う人の故に、無限の射程が開かれる。全存在をリアルにあたる問い、自明な基底を掘りくずす問い(あなたはどこから来たのか)である。

 若にとっては彼の第一の境位への始まりとなる。自己から他己への真の自己の伝燈となる。人から人へという無限の歴史である。この伝燈は自己というあり方に関わる故に、人から人へと教えによって連続的に手渡され継承されうるごときものではない。若は改めて自分一人の孤性を通らねばならない。

 

三、

 

 第八から第十は、第七で実現された自己が最後に放下されたところに現成する本来の「自己ならざる自己」の3つの様相である。三様に相を改めつつ転調し、しかしその都度全機現するような3つの様相である。自己なるものが在るということと違って、その都度の機縁に応じつつ脱自的に無〜自然〜人「間」と順逆自由に円環を描くその動きが真の自己をなす。本来の「自己ならざる自己」の動的三一性である。

 三様相はなお図として対象化されているが、様相を転ずる動きそのものはいかなる仕方においても、対象的に形象化され得ない(これが真の自己)。円運動だが、円環を描く運動は、同時にそれを消し去る運動で在る必要がある。描かれたものに捕らえられてしまう。自己ならざる自己の動きの起こす風が風格である。

 真の自己、「自己ならざる自己」は「自己ならざるところ」において徹底的に普遍的である。一方「自己」で在るところにおいてあくまで独自の「個」性でもある。動きが形象化されないのと同じく、行によって真の自己が獲得されるのでない。行を尽くして、自己を行ずることが忘れられたところに現前する。

 

 3つの様相が、自己がそこにおいてある究極の場の開けという性格を持っていることに注目したい。「自己ならざる」とは、自己が切り開かれた開け(これが運動の場になる)をも意味する。これは西田哲学の真の「場所的自己」である。第一から第七 関わりは自然風景の中で行われ、その風景は円相の中に描かれる。ただまだ自己の自己への関わりが主題となり、風景や円相は背景(自己のペース)である。

 第八から第十は、絶対無によって完全に切り開かれている(究極の開け)。無のペースになっている。第八での円相は、絶対無の主題化である。第一から第まで全て円相の元に描かれている事、空円相が全自己の究極の場であることが顕わになる。第九で自然が主題化される。第一から第十まで実は全て自然のうちに描かれている。絶対無によって自己が自然という場に完全に切り開かれる。第十で自他の交わりが主題化される。実は全経歴が第十の交わりから展開した。絶対無によって自己が交わり(自他の「間」)という場に完全に切り開かれた。

 自然という場は、未分の「自己ならざる」自己のおのずからなる具体の成立する場である。「間」という場は、自他に分節された自己ならざる「自己」のみずからの具体が成立する場である。おのずからと自らを相互に透入せしめあう最根源的な場(場の場)が絶対無の場所であり、自執のエレメントとしての有的自己同一が解消されうる。我は我ならずして、我なりと定式化される場所的自己である。

 

 第八~第十の境位の持つ場所性の意義を具体的に理解するため「場所的自己」を見る。自己というあり方そのものが本質的に場所的である。ある場の開けのうちに自らが置かれているのを見出す、そのように見出すことが自らをその場に置くことという仕方で自己を見る。これが「自覚」である。

 自己の外に出て自己に再帰する運動、脱自、還自の運動そのものが自己であり、その運動の場が自己性に本質的であり、その運動が自覚をなす。例えば「父親としての自覚」は、自分の外に出て家族という場に自分を見出すことと相即している。自覚とは、その場における自己の位置の自覚であり、その場においていかにあるべきかの課題性に目覚めることを含む。

 決定的なことは家族という場が本当にわかっているかどうか、自己がその場の開けに真に開かれているかである。自分から離れて自分を見ることができるかどうかである。自覚は自己がそこに置かれている場の開けという、ある明るさが照入して初めて可能になる。様々な場を包括する場所の開けを「世界」と呼ぶと、自己というあり方そのものが世界内存在と言われる。

 場の開けとは、自己がそこで他者と交わり、物と関わる場であり、その交わり、関わりのあり方がその場の開けの質を具体的に表現する。自己というあり方自体が、「場所的自己」、いかなる自己かはどのような世界に住んでいるかと相関している。

 

 問題の第一は、その都度の具体場に自己が真に開かれているかにある。自己に閉じられ真に開かれているとは言えない場合、場のうちにはあるが、自己を閉じたまま自己を場に押し込み、自己をその場の中心とする。自己の置かれている場に中心になった自己の影を落として、その影の範囲を自己の場とするのは「自分のペース」であり、真に他者に出会うことはできず、真の自己であることもできない。場から見れば「自己のペース」は場違いであり、交わりや関わりにひずみと歪みをもたらす。その歪みやひずみは自己がその場に真に開かれるべき課題の自覚を迫っている。自己閉鎖を破る場として開けている。

 親子の問題もそれだけでは解決できない問題を含む(人間の問題)。自覚の場は家族という場をもう一つ越えて家族をも底から支え包むような、より開かれた開けでなければならない。そこでは親でなく一人の人間になる。突き詰めると孤なる唯一人に徹する方向に行く。孤独であるほどより深いところから結びつくという孤独である。死すべきものと死すべきものが親子として因縁を結ぶ。問題がなくなるわけでなく、交わりが質を変える。場の開けは、自己が問題にぶつかることによってより開かれた場へと破られながら、これによって包み返される。家族の場がなくなるのでなく、その妥当性を保持しつつ、より開かれた開けに「於いてある」。

 

 第二の問題は、自己というあり方そのものの究極の場の開けである。自己の様々な具体的な場がいずれも「有る場」とすれば、それを最後に破り包む開けは「絶対無の場所」である。有の場所には対立分裂がある。自己中心と自己中心が限られた場所の有を奪い合う。そこで自己中心が抜かれるような究極の場の開けが問題になる。これは同時に自己存在の究極の意味の問題でもある。

 家庭という意味の場<社会という意味の場<・・ 意味連関の中の自己、というようにあらゆる意味連関そのものの意味、最後の意味が問われる。究極の開けは、意味空間ではあるが、究極なるが故にもはや「なぜ」「なんのため」と問うことのできないところ、「無」意味空間にある。「なぜ」に関して言えば「なぜ無し」であり、意味が尽きた無意味即充実となる。無意味の究極の開けは第八図で示され、無意味即充実が第九、第十で示される。

 その場の開けに自己がどのように開かれているかが境涯である。同じ場にあっても境涯はピンからキリまである。自己がその場にどのように、どこまで開かれているか。有の場所がある。そして究極的に「絶対無の場所」に「於いて有る」「有の場所」に開かれて有るそのことが、本来はすでに無限開に貫通されているということである(ただどこまで絶対無の浸透に貫かれているかは様々)。

 自己がそこに於いて自己で有る場の開には、その都度の具体的場と、その場の開けに開かれている自己が、その開けに於いて無限開によってどこまで貫かれているかという境涯との2つの性格が重なり合う(詩になる)。深い境涯にある自己には、その境涯が見えない光背のごとく伴う。彼が具体的な「有の場」に入ると、彼の境涯の開がその有の場所を包み浸透し、彼がそこに居るというだけで、その場に共にいる人々のその場でのあり方におのずから変化が生じる。

 第八から第十は、具体的な場の開けがそのまま無限に貫通された境涯とぴったり重なっていることを示している第七の自己に対し、「自己ならざる自己」の最根本条件としての「自己なし」が覚証される絶対無がまずぶつけられる。第八は第七にとっての絶対死である。第八の大死に沿って、「死して甦る」という順序が第九であり、人間の表れない無我の実証となる。これが我性への逆戻りの歯止めとなって「自己ならざる自己」として現ずる。これが第十であり、自己が二倍になる。自己に応じ自己に対して同時にリアルになってくる他者、それに対しそれに応じて自己がリアルに自己になる他者、この自他の交わりがある。自己ならざる自己の動的構造を予描して向かうべき方向を指し示すのが、修行者への手引きとしての十牛図である。

 

 第七の境位にある当の本人において絶対死による第七からの飛躍は事実いかにして生起するかは、十牛図の事実上の最大の問題である。第七までは行の相続という道がある。第七に対しては、自己をもう一度捨てよという要求にならざるを得ない。いかにして可能か。すでに自己としては至り尽くしているので、自己否定では超え得ない。修行の尽くされたところは、行によっては破り得ない。自己からは超えようがない。完成が行き詰まる。

 こちらからは破れぬが、破ろうと張り詰めていないと破られ得ない超越的他者なるものに破られるものでもない。自他ならざるところの現前が破り現れる修行では破り得ないが、それが本来であり、自ずからであるがゆえに脚下に現れる。それは本来なるものの自己実現ではなく、自己は「自己ならざる自己」の現にぶつかって、現に「自己ならざる自己」になる。

 具体的には自然(第九=第八)にぶつかる場合と、人「間」(第十=第八)にぶつかる場合がある(直面する相手への絶対否定)。答えを奪いえるのは再び「問い」の力である。基本的には物に触れ、人に会うところではいつでも起こり得る。

 こうした事柄は実際には単純至極であり「川流れ花咲く」日常のうちに充全にある。「無窮の向上とともに、絶えず脚下をみよ」である。お辞儀は、自他を底から包む、底なき深みの中へ頭を下げる。我を折って互いに我を深く無にしつつ、我もなく汝もないところに一回帰って、底から改めて向かい合う、新たに出会う一旦無底の開けに自己を無化して底から甦る。

 我と汝的な向かい合いにとどまらず、その中に「自なく他なし」が透入し、その向かい合い全体が自己となる。自他を包む場にすっかり開かれていて底に現前する自然が私なき交わりの共同具体になる。通常は形式化され、日常に頽落している。第八が抜けていて、真のお辞儀になっていない。非宗教に含まれる危険がある。「無から」があって初めて花が咲き川が流れる。そのことが奇蹟的なことでありつつしかも自然そのものとなる。

 道で出会い、お辞儀をして「いいお天気ですね」が本当にできれば、「一生参学の事畢る」。ただそれが真の現実になっていない。迷い出てうわの空になる。我々は迷い、その中で歩み、迷いからの脱却を求めて歩み直し、迷悟の歩みが消えて初めて復原的に現実になり得る。人間存在が希薄化していく中で、自己の開放性と充実性が成立するような、自分の身体を通した端的な事実に還り得るかどうか、そこから再び全存在をはじめうるかどうかが死活問題になる。ただ普通は「自もなく他もない」ところは注目されない。

 

四、

 

 ブーバーの「我と汝」の考えの出発点は「人間存在の原本的事実は人間と共にある人間」というところにある。「と共に」は個人にも全体にも還元され得ない独特の領域である「間」にある。向かい合っている双方のみに開かれる主体的な場として我と汝はある。

 ここに人間存在の根源的リアリティを求めるのは、「主観客観」の枠を破って動く新しい立場であり、人間存在への問い(虚無、孤独、機械化)への解決となる。我とそれは我からの一方的な対象化であり、このあり方において我も抽象化する。我と汝では双方の存在の全体が直接、具体的に触れ合い、それが存在の充実であり、真の現在になる。

 我から決して「それ」化することができないような絶対的汝が与えられなければ、「我と汝」は成立し得ない。これが永遠の汝(神)である。「間」性そのものについては、神の問題へ立ち消えている。絶対無との相即相入における人「間」を見るあり方は、我と汝を間から見、我と汝の成り立つ究極の根底を「間」そのものの無底性に見る(我もなく汝もない無限無底)その深みからそれぞれが対を絶して自主独立に、同時に相対しつつ成立する。これは無の場所に相互に我を還滅し、底から甦りつつ相対する運動である。ブーバーでは祈り、こちらは「禅定」である。

 「我と汝」を支える絶対性としてブーバーは汝に重ねて「永遠の汝」を見、他方は「と」の底に無底無辺の深みを見る。ブーバーにおいては、人格が向かい合って直接全存在的に触れ合うところに「我と汝」の核心がある。自なく他なき無に滅し、甦って向かい合う動性においては、全体が自己(自他一如)となる。

 

 エックハルトは神性の無を言う。救済は一人一人が神のひとり子として生み直されることによってキリストと同等になることで起こる。一人一人の上に直接的・根源的に生起する生ける神との生ける一体性である。この運動はかくして神に還るところでとどまらず、神を突破して神の根底に徹しようとする。

 被造物に対し神として顕れる神(外相)は、人間からいえば神を神として表象したものである。神性とは、人間からの一切の対象化を超脱する。父、子、聖霊の自己内関係も絶する。これが神の根底であり、無名無形、不可識の絶対の無である。「何かであるもの(光、真善美・・)」と捉えない。これは否定神学の極限であり、神を放下することである。

 神との合一ではなく「一」である。「此処に於いて、神の根底は私の根底であり、私の根底は神の根底である。此処に於いて神が神の自己から固有に生きると同じく、私は私の自己から固有に生きる」。「我あり」という大自在である。否定性(神は無である)は、神の有そのものではなく、神の有を規定しようとする人間のあり方を打撃する。無といわれる背後には実体が厳存している禅の絶対無とは違う。

 

 極端な無が「神がある」ことを否定する。ニーチェの「神は死せり」である。実体が空白になったその深遠な虚無が全てを統べるというのが、徹底的ニヒリズムである。無が一切の有を虚無化するようなものとして問題になる。

 ニーチェは、神は死せりの実存的帰結を自らの実存において徹底的に追求した。いかなる代用もせず、神の死に生きることは至難である。それだけで終わりであるような第八は終局的空虚であり、全てが無意味である。日常のニヒリズムが克服する道が歩まれた上でそれが全て無意味化、虚無化される。

 空にはニヒリズムに陥る危険性があり、その克服を含んで初めて「空」のあり方が成就する。十牛図では無が無で終わることなく、無の無という仕方で無を超える。第九、第十において、無窮の否定性と相即的に絶対肯定が現成し、「自己ならざる自己」の現が起きる。

 ニヒリズムがそれを生き抜くことによってのみ超克できる。「何故という問いに対する答えの欠如」としての徹底的ニヒリズムの空虚な「無意味」が、無の運動によって端的に肯定的な「無」意味に転じ得るという仕方である。「何故なし」こそが単純にして根源的な新しい答えとなり得る。バラは「何故なしにあるの経験」をもたらす。何故への答えがないところで、その問いが出る以前が原事実的に与えられた無の転換の現証となる。

 ニーチェは実際には無を意志するという意志のうちに転換の梃子を求める。「意志への意志」という生の純粋な根源性の発現において自らを「力への意志」として自覚し、これがニヒリズムの超克者となる。これにはなお有るものという性格を脱し得ないという批判がある。

 

 自由という観点には、自己からの自由と自己への自由との相即が真の自己であるといことがある。自己の実存の病には、自己固執と自己喪失の2つの形態がある。

 自己が打破され、自己へと打成する二重の突破によって可能になる円転がある。自己は自己という枠を持つから障害にぶつかる。それで自己の枠が破られつつ枠を破り超えて新たに枠づけるはたらきとして自己がある。繰り返し破られ、繰り返し自己化する「経歴」が自己には属している。十牛図も自己経歴の1つである。自己がものを避けて自己の枠に固執するなら、自閉的な自己内空転へ至る。自己固執の病である。自己が自己の枠を破られたまま、自らこえ出つつ自己に還ることができないと自己喪失へ破綻する。自己喪失の病である。

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