カール・ロジャース「エンカウンター・グループ」~人間信頼の原点を求めて~(1982)の要約

 

著者のまえがき

 

本書は、全く個人的記録である。集中的グループ経験という、現代のすばらしい発展についての「私の」見方を伝える。

 

第1章 <グループ>の起りとこれまでの動向の概観

 

 グループとは計画的に作られた集中的グループ体験のことである。今世紀もっとも急速に拡大している社会的発明で、Tグループ、エンカウンター、感受性訓練などがある。このグループは全く<体制>の外側で発展してきた。多くの大学や体制内の専門家は冷淡である。本書の目的は、グループが驚異的な速さで自然に発展した理由を検討することである。

 

 グループの起りはレヴィンにある。人間関係技法の訓練は現代社会で重要であるが見落とされている教育であった。47年ベッセルでTグループが開かれNTLが発展した。当初はTグループの呼称がぴったりであった。それは人間関係技法の訓練グループだからである。同時期にシカゴ大学で、復員局で働くカウンセラーを養成するために短期間で強力に訓練するため集中的グループ経験が行われた。個人にとってセラピー的価値を持ち、経験的学習と認知学習を結び付ける試みであった。

 シカゴグループは個人の成長、個人間のコミュニケーション、および対人関係の発展を第一の目的にしており、Tグループよりも治療的なものを志向していた。その2つは合流していく。この動向の概念的支柱は、レヴィン派の考えとゲシュタルト心理学、他方は来談者中心療法であった。その後いろいろなグループが発展していく。

 

 グループが共通に持つように思われる実践的仮説は以下の通りである。ファシリテーターは自由な表現と防衛の減少が徐々に起こるような安全な心理的雰囲気を発展させられる。こうした心理的風土では、他のメンバーや自己に対する即時的感情が表現される傾向が生まれる。相互信頼の風土は肯定・否定を問わず真実の感情を表現する自由から発展し、メンバーは潜在力を含め、自分の情緒、知性、身体よりなる全人をあるがままに受容する方向へ動く。

 個々人に防衛的固さからくる抑圧が少なくなると、個人の態度や行動、仕事のやり方、管理上の手続きなどの変化をあまり恐れなくなる。防衛的固さの減少に伴い、個々人は相互に耳を傾けあい、お互いから学びとることが大変よくできるようになる。個々人が自分は他人にどう映り、対人関係にどのように影響をもたらしているかを学ぶフィードバックが次から次の人へと発展していく。このように自由が拡大され、コミュニケーションが改善されると、新しい考え、概念、方向付けが起こってくる。革新は恐ろしい可能性でなく望ましいものになる。

 グループ経験でのこのような学習は、その後の家族・同僚などとの関係にさえも、一時的・永続的に持ち込まれる傾向がある。これらはリーダーの操作性が大きいゲシュタルトセラピーには妥当しない。

 

 グループにおいてメンバーは相手や自分に対する感情と態度を、徐々に探り出す。そして彼らが最初に示していたのはみせかけ、仮面であったことが明白になる。つまり個人の外面の殻と内面の対照が時間の経過とともに明白になる。そこには自分の本当の気持ちは受け入れられないだろうと思っていたのに、真実に徹するほど受容される驚きがあり、信頼感、他のメンバーへの暖かさと好意がゆっくり形成されていく。

 

 急速に普及したのはなぜか。それは大衆の自発的要求であり、文化の非人間化の進展の中、心理的欲求に注意を払えるほど裕福になったことでもある。職場や教会では見出すことができない何ものか、親密で真実な関係への飢餓もある。この動向が作り出した脅威としてエンカウンターは人格的独立、感情抑圧の減少、革新意欲の高揚、制度的硬直への反対を生み出すので、変革を恐れる人たちは反対する。

 

第2章 エンカウンター・グループの過程

 

 グループ経験に共通の要素、グループ進行のパターン・段階を述べる。

 

1、模索 社会的空白を埋めるために一貫性のない会話

2、個人的表現または探求に対する抵抗

 恐れ、動揺しつつ私的な自己を表明しはじめる。ただ自分を皆の前で表明する恐れ、グループへの信頼感の欠如がある。

3、過去感情の述懐

 感情の表明が話し合いの大きな部分を占める。ただそれはあの時、あそこで起こった感情である。

4、否定的感情の表明

 本当に重要な<いま・ここで>起こっている感情が率直に表明される。メンバー、リーダーへの否定的態度の形をとりやすい。例えば自己紹介の拒否と非難、リーダーが援助を与えないと非難するなどである。最初の直接的感情が否定の形で表明される理由は、それがグループの自由さと信頼度を試す一番良い方法だからである。深い肯定的感情は、否定的感情より表現しにくいし、危険が伴う。好きというと弱みを持ち、もっとも恐れる拒否にあうかもしれないからである。

5、個人的に意味のある事柄の表明と探求

 あるメンバーが、自分を意味深い形でグループに示すと自分のグループと認識するようになる。自分の望むグループにしていける自由を感じる。そして自分の内面を知らせるかけが行われる。グループは必ずしもこの自己表明を受け入れるわけではない。

6、グループ内における瞬時的対人感情の表明

 メンバーが他のメンバーにその時経験した感情を表明する。信頼しあう空気が増してはじめて探求されうる。

7、グループ内の治癒力の発展

 苦痛と悩みを持っている人に対し、援助的、促進的、治療的態度で接する自然の自発的態度がある。治療的能力は多くの人間にある。グループ経験によって現れ出でる。

8、自己受容と変化の芽生え

 グループ経験においてもサイコセラピーと同じく、自己受容は変化の始まりとなる。愛したことがないのではという自己への気づきが起きる。他のメンバーによる仮面の下で生きてきたという表明を聞き考える中で自己受容へと導かれる。殻に引きこもる自己を深く受容し、真実さ、偽りのなさを今まで以上に感じる。これは共通した経験であり、自分自身を受け容れ、自分自身であることを学び、感情に密接になり、変化へより開かれる。

9、仮面のはく奪

 グループの進行に伴い多くの事が同時に起こってくる。段階は交差し重複する。メンバーは仮面や見せかけに隠れていられなくなる。知的理解、如才なさ、当たらず障らずでは満足できない。メンバーの自己表明により、より深い基本的出会いが可能だと言うことが非常にはっきりする。この目的に直観的、無意識的に進み始める。グループは個人が自分自身であること、感情を隠さないこと、日常の社交的な仮面を脱ぐことを要求する。

10、フィードバック

 自由なやり取りの中で、自分が他人にどう映っているかを知る手掛かりを多く得る。動揺を起こすが、グループでは本当に自分のことを考えて言ってくれていると受け取れるので、建設的に作用する。

11、対決

 フィードバックという言葉では穏やか過ぎる関係が生まれる。個人が他の人と対決し、直接「ぶつかっている」。

12、グループ・セッション外での援助的関係の出現

 自分のいやな面に気づいて傷ついたりしている人を、他のメンバーが支援することが、グループ外でも起こる。メンバーが自分の理解・支持・思いやりをうまく使い、人のために役立てる。

13、基本的出会い

 日常生活よりもはるかに密接で直接的な関係を結ぶ。これがグループ経験の中核となる。人の苦しみが身体を伝わってくるような痛みを覚える。ブーバーのいう、われ−汝の関係がグループで頻繁に起こる。参加者の眼に涙が浮かぶ。「否定的感情が徹底的に吐き出された時、2人の関係が成長して、否定的感情が相手に対する深い受容に変わる」。

14、肯定的感情と親密さの表明

 非常に深い親密さと肯定的感情を持ち合うようになる。暖かさ、グループ意識、信頼が、肯定的だけではなく、肯定・否定の両感情を含む真実さから生まれる。我々がともに人間であることができる時、なんらかの肯定的展開が起こりうる確信が生まれる。

15、グループ内での行動の変化

 技巧が少なく、自発的で感情がこもる。互いに援助し合う。

 

 このグループの失敗、マイナス面、危険としては次の点がある。

1、弱点は行動変化がもしあっても長続きしない点である。

2、個人が深い問題をさらけ出し、それが十分解決されないままグループが終わる。未解決に終わった問題を処理するため、心理治療者を訪れなければならないとの報告、ごく稀に精神病を発病したとの報告もある。臨床的見解としては、グループ・プロセスが肯定的であるほど、個人が心理的損傷を受けることは少ない。

3、夫婦の片方だけに意味深い変化が起きると結婚生活に大きな危機が起こる。それまで蓋がされていた結婚生活の葛藤があからさまに検討される。

4、グループ参加経験を持つ一部の人が、次のワークショップに破壊的影響を与える。ゲームのルールを知っていると新参加者に押し付け、真実の表現と自発性を促進する代わりに古いものにとってかわる新しい規則を打ち立てる。例えば自分を表明できない時罪悪感を感じさせる。それは古い慣習的規則に代わって対人関係の新しい独裁を打ち立てる企てであり、真実のグループ・プロセスの曲解である。

 

第3章 私はグループを促進するような人間でありうるか

 

 自分がグループの中で促進的な人間であろうとする努力をできるだけ包み隠さず書き、対人関係という誠実な芸術に有効に参加しようとする時の自分の強さ、弱さ、頼りなさについて出来るだけ述べたい。背景にある哲学と態度は次のようなものである。

 

 グループは、グループの潜在力とメンバーの潜在力を発展させる促進的な風土を自ら持っている。それは畏敬に値する。グループ・プロセスへの絶大な信頼がある。これは個人の心理療法の過程で、指示を与えるより促進的である方が個人を信頼するようになるのと同じである。グループは1つの有機体であり、それ自身の発展方向を持つ。いろいろなグループの動きがあるが、それぞれを平等に信頼する。

 

 グループに特定の目的をもちこまない。グループ自身の方向が発展するのを心から願う。個人的偏向や不安から特定の目的をもちこむ場合、グループは注意深くその目的をつぶすか、ロジャースの問題に長時間を使う。もちろん、起こりうる一般的進行方向は予測できるし、グループは動いていく。しかし私が特定の目標に向けていける、行くべきだは行き過ぎとなる。

 

 基本哲学では個人治療となんら変わらない。しかし行動は全く異なる。希望は促進者であるとともに、参加者になっていくことである。ある時は他のメンバーの成長を支援するため、自分の感情、態度、考えを表明し、またある時は成長という賭けへ自らを開くという目的で同じことをする。私も同じ。各側面が私の真実の姿であり、役割をとっているのではない。

 

 促進者としての動きは大事である。しかしグループ・プロセスの方がはるかに重要である。介入なしでも展開する。エンカウンター・グループには、感情および認知両面を伴う全人間が参加してほしい。自分も思考と感情を同じように持ち、感情に思考が沁みとおり、思考に感情が沁みとおるように全人間が十分に現れることが可能になるよう努力したい。

 

 グループでリラックスしていたい。グループを信頼し「何が起こるか分からないぞ。でも何が起こっても大丈夫さ」とリラックスしていること、指導していこうと思わないことは他人を自由にする。そして自分を表明する人に対して注意深く聴く。話している個人こそ重要で理解に値する。内容ではなく、語っているメンバーに関心を集中し、それらの経験が彼にどういう意味を持つのか、どういう感情を引き起こしているかに関心を持つ。そういう意味や感情に反応しようとする。

 

 グループの風土が心理的に安全であるように願う。最低1人は彼の言うことを尊重しつつ正確に聴こうとする、言葉に耳を傾ける人がいると感じてほしい。成長の苦痛、フィードバックを受ける苦痛を味わう時、心理的にどこまでも彼とともにいることをその個人に感じてほしい。参加者が恐れたり、傷ついたりしている時、感じ取り、言葉か何かで、私がそのことを認めており、彼がそのいたみや恐怖の中にいる時の道連れであることを知らせる。

 

 グループとグループ内の個人に対して大きな忍耐度を持ち、グループをそのままに受け容れることが究極において非常に報いが大きい。ある種の演習の導入は、いま・ここへ、または感情レベルに近づけることができるのを知っている。しかし追跡調査では、そういう手段によって得られた効果がその時の満足で終わることが多い。「わたしを開いてくれたすばらしいリーダー」のように門弟を作ること(ただし、否定も。二度とひらきたくない!となることもある)はしたくない。

 

ありのままのグループとともに歩む報いが大きい。彼らには雑談する権利があり、私にはそれを我慢しなくてもよい権利がある。そういう時は席を立つ。自分ができる限り意識して、私の行動を私の矛盾した感情に一致させようとする。それぞれの感じ方を持つ権利がある。

 

 個人がグループに参加していてもいなくても、心理的に引っ込んでいても、それを許す。引っこんでいることができる、それが居心地のいいこともある。強制されないでいられる学びがある。沈黙、発言しない人の場合、それが苦痛や抵抗を表わしているのではないと確信できれば受けいれることができる。

 話されたことを額面通り受け容れがちである。そしてファシリテーター(治療者)としてだまされてもよいと思う。「彼が本当に言おうとしていることは」などと思いめぐらせることで時間を浪費しない。

 過去経験より現在の感情の方に良く反応する。しかし両方があってほしい。<いま・ここ>だけの規則を好まない。グループで起こることは、何でもグループの選んだことから起こっていることを明確にしていこうと努める(明確であれ、模索中であれ、意識のあるなしにかかわらず)。自分がグループの一員になっていくにつれ、自分から影響を与えることを分担しようとする。だが、そこに起こることをコントロールしようとしない。8時間あれば8時間の値打ち、40時間あれば40時間の値打ちのものができる。

 

 個人が伝えようとする正しい意味を理解することが、グループにおける私の行動で一番重要で最も多くみられる(共感的理解)。もつれあったことを探り出し、それがその人に対して持つ意味を追って確かめようとするのもその理解の一部である。話が一般的・抽象的である時、全体の流れに照らして自己関与的意味合いを選び出す。「それはあなたがそのように感じるということでしょうか?」 

 自分自身の感情を誰かに代弁させようとするのは、非常によくあるパターンである。異なる感情が表明されつつある場合、私の理解をその両面に及ぼしたい。異なった見方を自分の言葉で伝えることで相違点を際立たせ明確にする。

 

 自分の感情が起こった時点で、それを利用するということにだんだん自由になることを学んだ。メンバーひとりひとり、グループに対して、純粋な現時点での関心を持つ。永久に続くものでないからこそよけいはっきり感じる。ある人が苦しみ、悲しみ、怒りなどを感じかけている瞬間に大変敏感になる。特に傷ついた人に対して共感的理解を持ち、理解し共に歩みたい。

 ある個人やグループに対して何らかの持続的感情を経験した際は、それを口に出すよう努める(そしてその瞬間不適切だと思うものは表明しない)。自分の内部で起こる感情、言葉、衝動、空想を<信頼する>。意識化した自己以上のものを利用し、私の有機体全体の能力のあるものを引き出している。「あなたは被告であるとともに判事でもあると思う。あなたは自分に罪人だと厳しく宣告しておられるように感じます」。直観はもう少し複雑である。例えば重役の中に少年の面影を見た時、空想を真実ではなく、空想として表明する。否定、不満、怒りなどとともに、肯定的で愛情のこもった感情も表明したい。ただし初期にあまりにこれをすると、否定的なものを出しにくくなる。その時起こる感情を、意識過剰にならず表明できるのがよいことである。私は自分の<所有している>感情が、肯定的なものであれ、否定的なものであれ、参加者の持つ感情と直接の相互交渉をもつ時、グループの中で最上の機能をしていると思う。私が到達できる<われ―汝>の関係に一番近い。

 

 質問を向けられた時、真実質問以外の何物でもないと感じるなら誠実に答える。でも質問という形をとっているがゆえに答えなければならないという社会的束縛は感じない。「私自身という玉ねぎの皮をむく」。グループの中で一段一段より深い感情に気づいていくにつれ、次々と表現していく。

 

 個人の行動のある種のものには対決する。自分の気持ちを積極的にさらけ出すことによってのみ、相手と対決することを好む。例えば、「このグループほど反感をもったことはない。あなたに会いたくないなと感じた。」など。

 個人の自己防衛に攻撃を仕掛けるに当たって「あなたは敵意を隠しているようだ。」など断定的態度や診断は促進的ではないと感じる。その人の冷たさに不満を持ち、知的割り切り方にイライラを感じ、横柄な態度に腹が立つ、この私の中に起こっている不満、いらだたしさ、怒りを彼に直面させたい。このことは非常に重要なことである。

 対決する時、その人が以前持ち出した特定の事柄を用いることがある。例えば「私には、あなたは同じことをしているように思われるんです。何としてでも承認を得たい子どもと全く同じことを」など。他の人に対決されて困っていると思われる場合は、枷から逃れるのを援助する。例えば「あなたは得たいものはだいたいみな得てしまったように見えます。そっとしておいてほしいのではないですか?」と相手の考えを確かめながら進む必要がある。

 

 自分が日ごろの生活で何かに悩んでいる場合、グループの中で表明することをいとわない。ただし、専門家として報酬を受ける以上、自分の問題で時間をとりすぎない。ただ、混乱している時それを話さないでいるとグループに悪影響がある時がある。

 自分の問題を表明しない場合の不幸な結果として以下がある。

 1、私が他の人のいうことを十分に聞けない

 2、グループが、私が混乱していることを感じ取り、自分たちが気づいていない過ちを犯しているのではと感じる

 

 グループでは、計画されたいかなる手だても使わないよう心がける。それはメンバーが選択すべきである。人が実際にその時感じていることを表現するように思われる時(真に自発性がある時)、ロールプレイ、身体接触、心理劇・・を使ってよいと思う。

 

 グループ・プロセスの注釈は極力控える。グループに自意識をもたらしがちとなり、吟味されているような気持を起こす。メンバーを人間としてではなくひとまとまりとしてみる感じになり、メンバーとともにいたいというあり方に反する。グループ・プロセスに対する注釈の最善のものはメンバーの間から自然にでてきたものである。個人に関するプロセスの注釈もしない。背後のあるものを探ったり、原因を推量しない。例えば「あなたが男として不十分であると感じているので、空威張りをする・・」など。それは権威者の行動となる。

 

 精神病的ふるまい、奇怪な行動など非常に重大な状況が生じた時はグループメンバーを信頼するのがよい。彼らは治療的(自分よりは)である。専門家は診断名にとらわれる。自分を引っ込め、その人を対象としてとらえる。素朴なメンバーは、この扱いにくい人に人間としてかかわり続ける。これははるかに治療的である。メンバーが明らかに病的行動をしてもグループの示す知恵を信頼(援助者としての力がある)する。

 またできるかぎり自発的な身体の動きを表現する。例えば落ち着かなかったら立って身体を伸ばし歩き回る、場所を変わってもらう。身体接触で応答することを少しずつ学んできた。例えば誰も自分を愛してくれないという人の肩を抱き、キスをする。

 

 私の欠点として、私は感情が表出されるグループの方がやりやすい。ただ何人かのファシリテーターのように、真実の意味ある関係をたやすく造り上げられない。自分の怒りを感じ、それを表現する点で鈍いことが多い。1テンポ遅れて表明してしまう。その時の感情をすばやく意識に上らせるほど自分の防衛を緩めることができる人に心から感嘆する。

 

 経験からの私の信じる非促進的行動として次のようなものがある。

1、時流に乗って名を売ろうとする人

2、ファシリテーターがグループを無理に押し進めたり、操作したり、規則を課したり、自分の暗黙の目的に向けようとする。ファシリテーターへのグループの信頼は減少する。もっと悪いのはメンバーを信心深い追随者にしてしまうこと

3、グループの成功・失敗を劇的であったかどうかで判断する。 例 泣いた人は何人?

4、ある一面的方法をグループ・プロセスにおける唯一の基本要素と信じるファシリテーターは推奨できない。例えば<防衛を打破すること><基本的怒りを引き出すこと>などである。また真実であれ、偽りの感情であれ、仮借のない攻撃こそグループの成功・不成功を判断する基準とすることに縛られていることなどに不快感を覚える。敵意がある時はそれが表明されることを望む。でも多くの別の感情もある。同等の重要性を持つ。

5、自分の問題が大きい人はファシリテーターになると不幸である

6、グループ・メンバーの行動の動機や原因の解釈をしばしば与える人をファシリテーターとして歓迎しない。解釈が不正確なら役に立たない。的を射てても極度の防衛を引き起こしたり、防衛をはぎ取り、終了後傷ついたままにしてしまう。例えば、「あなたは隠された敵意を持っている」などは数か月その人を苦しめ、自己理解の能力に多大の自信欠如を与えてしまう。

7、ファシリテーターが「さあみんなでこれから・・」といって演習や活動を導入するのを好まない。個人が抵抗しにくい。何かの課題を導入する時は、メンバーがその活動を選択するかどうかを決める機会が与えられるべきである。

8、グループに個人的、情緒的に参加しないファシリテーターを好まない。熟練者といわんばかりに超然としていて、グループ・プロセスやメンバーの反応を優れた知識で分析する。生計をグループで立てている人によくみられる。自分自身を防衛し、自分の自発的感情を否定し、グループにモデルを与える。参加者に対する尊敬が全く欠如している。こうしたメンバーはいるがグループは決してこうしたメンバーの行動を許さない。ファシリテーターがそれをすると、ファシリテーターに対決できるとわかる前に規範を作ってしまう。

 

第4章 エンカウンター・グループ後の変化

―個人・人間関係・組織における―

 

 集中的グループ経験はどのような意味のある行動変化を起こすのか、とくにその行動変化は持続的か、ロジャース自身の経験から追求する。まず結論を述べ、その後この暫定的結論に対する根拠となる個人的、現象学的資料に対し感じることを伝える。この報告はロジャースたちが強調する以下の点を守るファシリテーターによるグループ経験に基づく。

―操作的よりも受容的・理解的、リーダーの非凡な力よりもグループ・プロセスを信頼

―言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションの両方を大切にする

―目的を設定せず、メンバーひとりひとりが独自の目的を展開させる

―成長は満足をもたらすと同時に、動揺と困難さを経験させることを理解している

―グループ経験はどんなに熱がこもっているものでもそれが目的ではなく、グループ後の行動に影響を与えることが基本的に重要である

 

・個人の変化

 個人が受容的風土の中で自己の感情を探求し、思いやりのあるグループメンバーから厳しく、やさしいフィードバックを受ける時、自分自身の自己概念をかなり変えていく。多くの人が自分の可能性に気づき、実現させ始める。結果として哲学的、職業的、知識的にまったく新しい生き方を選んだ人がいる。

 ある人たちはグループ中でも、その後も変化がない。ある人たちはグループの中で変化がなく、後から興味深い変化がある。数百のグループの中で、2名にマイナスが生じた。一過性の精神病などである。心理療法を求める人もかなりいる。成長への積極的歩みの場合はよいが、さらに援助を求めねばならないほど、急激で苦しい変化をもたらしたことは疑問である。

 

・人間関係の変化

 配偶者、子どもとのコミュニケーションの深さが奇跡的に変化している。初めて真実の感情が交流する。メンバーが芽生えてきた洞察をともに分かち合い、愛情も否定的感情もそれに気づいた時すぐ真実の感情を表明する勇気を持つことができるからである。

 思いやりと信頼に満ちた学習集団への変革や職場を建設的に変革することが起きた。夫婦の片方がエンカウンター・グループで洞察と自由を得ると相互の溝が増大した。夫婦の潜在していた相違点に直面し真の和解に達することもあるが、越え難い溝を認識することもある。変化はたいてい建設的であると個人的にはそう言えても社会的観点からは否定的面もある。

 

・組織の変化

 個人は変わったが組織は変わらない例、また変わった例もある。人間相互のコミュニケーションが企業精神の核になっていったものもあり、組織から離れる人もいる。変革や成長はしばしば個人の人生に嵐をおこす一方、必ずと言っていいくらい組織にも嵐を起こす。伝統的管理者には最も脅威的経験となる。組織変化の一例として男子学校がより良くなったものがある。一番注目すべきは、従来学校にただ従わされていた者の圧倒的多数が、自由・開放・活気・熱意・責任のある学習経験を持ったことである。感情が開かれたコミュニケーション、人間は基本的に平等であるという認識、組織の本当の問題をめぐっての相互の出会いが真の変化をもたらす。

 

第5章 個人の変化―その経験のプロセス―

 

 前章では起こりうる変化を見た。その後の変化はどうなっていくのか。変化が展開する変動的段階を微視的にみる。

 エレンにとってグループは治療的な人々との至高体験であり、母親から独立し、その罪悪感に耐え、彼女自身の生活を見出すことができた。

 

第6章 孤独な人―そのエンカウンター・グループ体験―

 

 現代は歴史のどの時代よりも内面的孤独を自覚している。真実に思える2つの側面 が孤立性と分離性である。私であるとはどういうことか、あなたにはわからない。あなたであるということはどういうことか私にはわからない。誰もが1人で生き、1人で死ぬ必要があり、それとどう折り合うか。自分の分離性を受け入れ、喜び、自己を創造的に表現する基盤として利用できるか。それともこれを恐れ、そこから逃避しようとするか。人が他人と真の接触がないと感じる時存在する孤独が、人との断絶を感じさせる要因となる。

 

 もっと深くもっと共通な孤独の原因は、世間に見せる顔を脱いだ時、一番孤独であることだ。あからさまに示した自己の内部を理解し受け容れ、構ってくれる人はいないと感じる。人生の初期に、自分の感情をありのまま表わすより、重要な他者から認められるような仕方で行動するほうが、愛されるらしいことを学ぶ。そのためみせかけの行動でもって外界と関係を保つ殻を身につける。薄い殻である時も、装甲のようになり内にある真の人間を忘れ去っている時もある。

 自分を見つめようと、または攻撃で防衛が砕かれ、自分の仮面を(一部)取り去る。それによって例えば、子供っぽく、感情豊かで、欠乏感と満足感、創造的衝動と破壊的衝動を伴った自己、不完全で傷つきやすい自己があらわになる。この隠された自己を理解したり受け容れたりできる人は絶対にいないと感じる。そして人生の意味が自分の仮面で外的現実とかかわるところに存在しないと悟る。孤独は絶望に変わる。

 孤独にはいろいろな水準、いろいろな程度がある。しかし孤独が一番こたえるのは、個人が何らかの理由で防衛なしに、評価的世界では拒否されるような傷つきやすく、おびえた、孤独な、しかし真実の自己を見出した時である。

 

 エンカウンター・グループでは、個人がしばしば自分の孤立、他人との関係の欠如をいやす。第一段階では自分にさえ隠している孤独感を腹の底から経験する。例えば友達がいないが欲しいと思わないと思っていたが、深く通じあう関係をどれほど求めているか気づく。

 自分の孤独をひそかに隠す要因として、真実の自己、内的自己、他人から隠している自己はだれからも愛されないと確信していることがある。それは子どもの真実な態度が大人から叱責されたことから生まれる。例えばあらゆる人が魅力ある愛すべき少女だと思う本人が、こころの中で自分を全く愛されない者とみている。多くの人生の一部になってしまっている深い個人の孤独は、他人に真実の自己を示す勇気を持たない限り改善されない。真実の出会い、冒険することによってのみ得られる。

 恐れるものは何もないことを学び、武装を解いて防衛せず、ただの私としてあらわれる。弱点・欠点を持ち、過ちを繰り返し、無知であり、偏見を持つ、状況に合わない感情を持つ事実を受け容れることで、はるかによく真実でありうる。そしてこの時多くを学び、非常に近い関係になる。

 傷つきやすいことを受け容れる。勇気をふるって内的自己になることで、グループの全員が仮面より真実の自己に容易に好意を持つことを発見する。これは本人、メンバーに感動の体験となる。尊敬と愛に値する人間であると実感できるのは、ありのままの自分が愛されるということを人間として発見する時だけである。自他の真実の自己がお互いに触れ合うことで、ブーバーのわれと汝の関係が生じる。これによって疎外が解消される。

 エンカウンター・グループは現代文化の多数が持つ孤独・疎外の感情を解決する現代的発見であると言える。

 

第7章 研究からわかっていること

 

 この本は実証研究の論評ではない。それはギブ(1970)が行っている。この領域の研究が少ないと言う指摘は全く誤っている。心理学実験室での研究に比べるときめは粗いが多数の研究の質は高い。ギブの結論から多くの記述を引用し、自分の観点から短い論評を付け加えたい。

 集中的グループ経験は治療的効果を持つことが実証されている。グループは心理学的な成長促進効果を持つ。感受性、感情処理能力、動機づけの方向(自己実現・決定・コミットメント・内的志向)、自己に対する態度(自己受容・尊重、理想の自己と知覚されている自己の一致)、他者に対する態度(権威主義の減少、他者受容の増大、組織と統制の強調の減少)、相互依存などに変化が生じる。研究結果はグループメンバーになるための何らかの制限を設ける理由がないことを示す。

 リーダーのいないグループは訓練手段として有効である。グループ訓練が最も効果的であるためには、その個人が属している組織・家族・生活環境に関係するものでなければならない。効果的な助言関係を継続的基盤で持つことは、参加者に与えるインパクトを決定的なものにする点で少なくともグループ・セッションで起こることと同様の重要性を持つ。グループと状況の性質にあった継続的フォローアップは最も重要である。訓練効果が最大になるのは、間隔をおかない継続的セッションで、集中的に行われた時で、20~40時間の継続セッションの方が1週一度で同じ時間したよりも効果的である。より長いグループの方が大きな成果がある。

 グループ訓練に害があるのではという懸念はほとんど根拠がない。素人だけでなく、心理学者、精神医までグループが有害な結果をもたらすという恐怖物語を作りあげている。このうわさ現象は多くの人が変化に脅威を感じ、グループ経験のおもな結果は変化であると漠然と気づいているからだ。

 

第8章 応用分野

 

 エンカウンター・グループは数多くの状況に適用しうる。集中的グループ経験が効果的に利用される可能性のある現代生活のさまざまな分野に次のようなものがある。

 

・産業

・教会

・官界

・人種問題

・国際緊張

・家族

・世代の断絶

・教育機関~大きな可能性がある

 

第9章 促進技能の養成

 

 数多くの熟練したファシリテーターを確保するのにどうするか。人間研究センターのラホイヤ・プログラムでもっとも基本的なものは人間と人間の関係を巡る見解である。このプログラムに浸透しているのは、人間中心のグループ・リーダーシップという哲学であり、熟練者としてではなく、1人の人間として参加する時、メンバーとファシリテーターは双方に最大限の成長があることを強調する。

 訓練という言葉を避ける。人は個人を<人間>に訓練することはできない。トレーナーという呼称は不幸である。ファシリテーターの人間らしさ、他人との相互作用の中で真実であるほど効果的となる。際立った特徴は形式的認定を避けることで、参加者が<熟練者>になったことを証明する免状、証明書、その他の書式は発行しない。

 長さは3週間がもっとも満足できる長さであり、参加資格にはほとんど注意がはらわれていない。プログラムの要点として150時間のうち半分がエンカウンターの体験である。2度目の小グループ体験は、最初の体験が魔術的でない証明になる。また、インスタントな親密さはないこと、別離の辛さも知ることができる。

 

 多くのリーダーシッププログラムでは操作的、解釈的で専門技術の色合いが顕著で、トリックを知っている。そうではなく対人関係がいっそう効果的になるよう個人の成長を助けることに重点がある。

 

第10章 グループの未来

 

 グループの未来にはいくつかの可能性が考えられる。

①グループに個人的利益のために参加した搾取者の手に掌握される可能性

 こうなるとエンカウンター・グループ運動は災難にぶつかる

②ファシリテーターの過度の熱意、行き過ぎの技法で一般の人から非難を受ける

 男女の接触が過度になり進歩主義教育が大衆から嫌われ者になったようになる。しかし例えエンカウンター、Tグループが消え去ってもすべての基本要素は装いを変え働き続ける可能性もある。デューイの考えがそうであるように。

③極右勢力によって締め出される可能性

④エンカウンターの本質的特性を保持するグループがもっと増加し、麻薬の手を借りなくても人生を満喫できる。

 

 エンカウンター・グループ精神と風土の一層の無形の広がりを信じる。人間中心の組織はいつも矛盾に陥るか?そうではないと信じる。

 

 個人にとっての意義としてエンカウンター・グループ運動は、非人間化に悩む我々文化に対抗する力になる。個人が自分をかけがえのない個性を持つ個人として経験し、人間尊重へつながる。現代生活における個人の孤立と疎外を克服する試みであり、個人の充実と成長への道を開く。男女関係の問題に対する新しい解決法となる。

 

 われわれの文化に対する意味としてエンカウンターのもっとも重要な意義の1つは、個人が変化に適応するのを援助することである。科学技術の大きな変化のなかで、グループが個人に変化に対する自分の感情に気づかせ、変化を建設的な可能性にしていっている。これは大きな援助となる。変化の必要性に気づき、組織、制度の絶えざる更新のための手段になる。また個人間、集団間の緊張を処理する手段となる。

 

 科学への挑戦でもある。エンカウンター・グループのダイナミクスから起こる真実で微妙な問題を適切に探求できる人間科学を発展させることができるか?この人間の活動分野に対する現実的・啓発的な現象学的人間科学を発展させることが重要である。そのためにはすべての被験者に研究者としての協力を依頼する。被験者全員に共同研究者として協力してもらうことが求められる。

 

 哲学的価値としては人間の感情と生き方について<いま、ここで>を強調する実存的意義を持つ。マズロー、メイ、キルケゴール、ブーバーの哲学的姿勢を反映している。人間そのものに持っている価値観を鋭くする。われわれの持つ人間モデルは?人格発達の目的は?最適な人間の特性は?さらに自由で促進的風土の中で、メンバーはより自発的で柔軟で、自分の感情と密接に関係し、自分の経験に開かれ、対人関係でより近づきやすく、親密さを表現しやすくなる。これは多くの宗教的、文化的、政治的視点とは全く逆である。われわれの社会における平均人が望んでいる理想・目的に向かって進んでいない。

 

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