坂口順治(2006)「JICEの教育活動−その波及性について−」立教大学キリスト教教育研究所 キリスト教教育第23号 要約

 

はじめに

 

 この小論は、筆者が1962年から69年までJICE(立教大学キリスト教教育研究所)の専任教員として、また1982年から1998年まで文学部キリスト教学科の教育専攻の教員としてJICEの研修・研究活動に携わってきた経緯を踏まえ、JICEの教育活動とその後の波及性と現代的課題を論述するものである。JICEのトレーニングが開始されてから約40年が経過した現在、その社会的意義も含めて再考したいのがこの小論の意図である。

 過去の活動と現代の課題を整理しておく必要性が心に湧いてきた。第1の理由は語り継ぐ糸が切れてしまう危機感があった。第2に現代の教育問題が投げかけている人間理解の理念と方法は、すでにJICEが先見的に行ってきたことであるが、再度クローズアップして整理しておく必要性を感じたのである。

 もとよりJICE活動はその精神的背景には聖書の「地の塩」の思想がある。塩の働きは自らの存在を変貌してでも他を引き立てていく作用性に意義がある。黒衣に徹して国威をも意識しないで他を引き立て、歴史に活用されることに意味を持つ。したがってここに自己宣伝的な小論を述べることはふさわしくないとの自覚を持ちながらも、乾いた土地に蒔かれた種のままになってしまうのではなく、JICEが蒔いた教育の種子が我が国のその後の教育活動に「地の塩、世の光」となって波及していくことを書き留めておきたい衝動に駆られたのである。

 

. JICEの創設と活動経過

 

 1958年、第14回世界キリスト教教育大会が日本で開催された。そのプログラムの一つに米国聖公会教育局が提供したワークショップがあった。教会生活におけるグループ・ダイナミックスの応用とも呼べるキリスト教教育の革新を目指すリーダーのトレーニングであった。カナダ聖公会と協同して、特別プログラム「教会集団生活指導者研修会」のトレーニングを清里清泉寮で実施した。いわゆる「ラボラトリー・トレーニング」で、米国聖公会が1950年代から全米の教会教育指導者に行ってきた研修で、多大の効果を上げたトレーニングであった。それ故、極東の国にも応用できるという確信を持って導入されたのである。

 教会指導者の自己成長、対人関係の向上能力、コミュニケーション技法の体得、集団行動の理解と観察、そしてグループダイナミックスの体験を重ねて効果的なリーダーシップを身につける目的を掲げて、集中的な合宿訓練を行なった。英語の話せる牧師、司祭、宣教師が清里に集まって、他の接触を避けた文字通りの「文化的孤島」で10日間の合宿トレーニングを行なったのである。

 この合宿トレーニングは予想以上に成功し、結果を高く評価した米国聖公会教育局長デイビッド・ハンターは、継続的に展開していく必要性を説き、日本の国に定着するためにはNCC(日本キリスト教協議会)やYMCAというエキュメニカルな団体が担うことも考慮したが、立教大学が聖公会の施設であること、研究と研修に従事できる人材のいることなどから立教大学に設置したい意向が伝えられた。米国聖公会は小さいながら寄付を募りJICEの設立をバックアップした。それは立教大学の直属の研究所ではなく、独立採算で運営する日本研究所としての意図があった。(大学の付置研究所になったのは1982年である)

 ラボラトリー・トレーニングは同一メンバーの対話的状況の中で生じる態度変容を意図したトレーニングで、主として牧師や司祭というリーダーシップ発揮の立場にある人の意識と行動の変革を迫るトレーニングである。(JICEのラボラトリー・トレーニングはその後ヒューマン・リレーションズ・トレーニングと名称を変え、100回以上の開催をした人間関係トレーニングである)

 ラボラトリー・トレーニングは最も当時のリーダーシップ啓発にフィットした。世俗の雑事を遮断した文化的孤島で純粋に裸の人間関係を追求する対話と集団合宿訓練は、革新的なトレーニングであり、旧態依然としたタテ社会の権威主義的教会組織に対してヨコ関係の大切さを感得する研修であった。

 第2回までのトレーニングは米国とカナダの専門家が来日して指導にあたったが、第2回目からは「教会集団生活研修会」という名称で日本人スタッフのみで行うようになった。その後、カトリック教会からの参加者も得られ、さらに韓国の教会協議会からも参加者を招待してアジアのキリスト者との連帯を強めた。さらに当時の経済復興の社会状況に応じて産業界からの参加希望者が多くあった。そこでは「世俗化は祝福である」とキリスト教界だけに参加を限定していたのを取りやめ、一般教育関係者や新宗教関係者、産業界からの参加者も受け入れていった。

 爾来40年を経過してトレーニングの内容も方法も参加者の層も変化した。発足当初はキリスト教教育の原点を見直すリーダーの再教育運動であったが、時代的経過を経て人間存在の再自覚と人権の主張、管理者の育成、教育技法の革新、集団心理療法など広範に活用されて多くの波紋を投げかけたのである。

 

 . 関係の教育学

 

 ラボラトリー・トレーニングの根拠になるキリスト教教育の理念は何であるか、それがどのように影響したかを考察していきたい。

 JICEの産みの親であるDabid R.Hunter(1963)はキリスト教教育は神と出会い、髪の約束に応答する身体的直感を持ってはたらく責任主体としての人間になることであると主張した。責任の主体(Engagement)とは神との直感的、瞬時の出会いを意味した直接的関係である。人間は時間的、空間的、身体的事実として関係のリアリティとして神の前に存在すると説く。これは現象学的知覚の神学であるといって良いであろう。因みにハンターはハーバード大学で博士号を取得したが、その主題はレヴィンの知覚心理学とデューイの被教育者中心の教育学をベースとした神学論であった。そこには主体者の認識が変貌することに重点を置いた教育的神学である。

 アメリカ聖公会の牧会神学者で「対話の奇跡」の著者ハウ Lewel R.Howe(1963)は、人間は和解の使者であり、癒しと和解の執行者であり、恵みの手段であると述べている。神によって人間が恵みの機関・方法(mean)になるためには、聴くこと(神と人に出会うこと)、参与すること(他人のパートナーになること)、対話すること(関係を回復させること)が必要であり、対話的人間になることの訓練が必要であることを説き、自らが高等牧会研究所を主宰して合宿生活を通して牧師の牧会訓練を行なっている。この神学の基礎は、対話は関係を創造していく恵みにあずかることであり、聖霊の助けによって対話が成り立つという理解である。成人教育の根本は対話であり、関係である。人間関係の中にあってこそ共に神の恵みにあずかることができる。従って神の恩寵は人間にとって驚きを感じる奇跡であり、関係が創造的人間を作り出すという神学である。これは特に当時のキリスト教宣教の指導者に対して再覚醒を促す教育理念を支えた神学であった。

 JICEの初代所長を務めた菅円吉(1967)は「関係の神学」の序文に大要次のように語っている。「関係が実在だということだ。個人の人間というのは抽象に過ぎない。人間は他人との関係において実在する。『私は何時によってある』というのはその関係を意味している。この人間関係は聖書には『隣人愛』の問題となる。関係が実在であるならば、究極的実在である神も関係でなければならない。」と述べている。これはキリスト教のものの考え方は、実体概念ではなく関係概念の上に成り立つことを語っている。人間関係のトレーニングには欠かせない原点となったキリスト教の人間観である。

 JICEで実質的なリーダーシップを発揮した柳原光(1980B)は、共存在のコミュニケーション論を展開した。神は関係しあっている人々を通して働きたもう。各人の背後に守っておられる「永遠の汝」を見出すのがわれわれの任務であり教育の営みである。そこでは神と隣人との人格的関係こそが教育であり、教育は関係によって成り立っており、実践と理論の統合化を目指した教育的神学を展開している。

 このようにJICEの教育活動の基礎となった教育の神学は、直覚的で直接の関わりの体験において、隣人とともに覚醒され覚知する関係の理解がある。早坂泰次郎(1967)の言葉を借りれば、トレーニングは人間の「関係性」(Relationship)を眺めて学ぶことではない。人間を対象化したり集団のひとつの機能としてとらえるものでもない。私が「関わってあること」(Relatedness)でなくてはならないと述べている。そこにも恵みの方法としての超越者の恩寵を実感しつつある我々であること、その実存の再発見がトレーニングであると言えるのである。

 当時のキリスト教教育の世界では、伝統的な教会教育やキリスト教学校の倫理的躾け教育が中心で、激変する社会からは乖離した観念論的な教育論が多かった。こうした状況の中で、聖書が語る人間覚醒に迫る実践的活動と理論的展開の運動は、新鮮な革新的輝きを放っていた。

 トレーニングでよく用いられた聖句は、新約聖書エフェソの信徒への手紙4章15節から16節に記している「愛に根ざして真理を語り、頭であるキリストに向かって成長していく」を実現することである。それはこの世に「対話」の教育的重要性を喚起し「出会いの教育」の必要性を問いただしていくキリスト教の社会的ムーブメントであった。

 一方、トレーニングに参加した人たちの中から自主的な研究会が発足し、論議したのは西田哲学の人間観であった。純粋経験が唯一の真実剤であり、場所の論理と共通感覚を体験するトレーニングであると、日本の哲学の中にその理由づけを探っていった。人によっては「西洋禅」と名付けて、独りで悟る日本的禅に対して、集団でわかりあえる西洋的「禅」がトレーニングにあると理解した者もいた。

 筆者はトレーニングの教育的意義づけと人間観には、民主主義の基本的理念「自由」と「共生」の具体的実践であると位置付けていた。自由は個人の主体的な選択がフリーに行うことが可能である。学習は自らの価値判断で取捨選択をして学び取っていく。強制や制限を加えることのない学びであることが民主社会である。このことを個人が体験的に学習すると同時に自由に個人の選択をするがゆえに、その責任と義務を自らに課していく学習である。自由と共生のバランスを保つ集団的交流のトレーニングがここにあると理解していた。いわゆる「関係」の教育はこうした相互受容と相互信頼によって形成されるコミュニティであるという理解であった。

 

 . トレーニングの影響

 

 その後のJICEトレーニングは、回を重ねるごとに多彩な人が多数参加するようになった。教育界、宗教界、産業界、行政関係の人事担当者も参加した。学校教育は社会人に育て上げる標準的教育であるという理解から脱却すべく、社会教育を生涯教育と改め、全生涯にわたって人間教育をしていく重要性が叫ばれた時代であった。そのための指導者養成の有効な方法として文部省(当時)もラボ・トレーニングを採用した(坂口1967)さらに産業界では成長期の産業を担う指導者の活力養成に用いた。

 社会の注目を集めたのは、学習の目的とする人間観の理解よりも、トレーニングの方法技能にあった。上意下達の学習法からヨコ型の相互学習法への変化が注目された。カール・ロジャースはラボ・トレーニングの学習方法は20世紀の最も輝かしい教育方法の発明であると絶賛したように、トレーニング法として世界的な注目を集めた。残念ながらキリスト教教育の本質である福音的理解と人間理解には言及することが少なく、もっぱら小手先の方法技術に関心が向いていったのである。

 産業界ではローダーシップ訓練として重宝された。産業能率短期大学では企業の指導者養成にセンシティビティ・トレーニング(ラボ・トレーニングと同じ方法をカリフォルニア大学で展開した訓練)を導入した。産業界での人づくりは、集団訓練の技能として合宿トレーニング法を用いた。山田智彦の「実験室」(文藝春秋1971年9月号)では、猛烈な圧力によって企業の望む人間に作り変えられる工程を体験的に描写している。福山博文(1999)は「心をあやつる男たち」の中で、JICEトレーニングが時代の要請と文化的変容を遂げていく過程をドキュメント風に描写して、トレーニングが集団強制によって変革を迫る不可解な教育法であると断じている。坂口(1972)はセンシティビティ・トレーニングの誤解と悪用を嘆き、小手先の技法として利潤追求の手段として人間をモノ扱いにしたこと、関係の対話は自己完結的な理解にとどまり、時流に乗って人間操作の手段化に用いられていると批判を加えた。

 しかし一方では看護界のように分有的リーダーシップと呼んだ民主的横型の集団組織の運営を進める体験学習の研修として行い、現在ではサーバントリーダーシップを発揮するための教育研修として継承されている。患者中心看護、インフォームドコンセントなどに寄与している。

 

教育界への波及

 

 次にはJICEの教育理念とトレーニングの方法論が時間的経過とともに、どのように教育界に影響を及ぼしていったかについて考察を加える。

 JICEのトレーニング方式を継承してメリット氏が中心となって1973年、名古屋の南山短期大学に人間関係学科の設立を見た。かつてなかった画期的な人間関係学、キリスト教神学というタテ関係の理念と哲学を考究していくと同時に、人間の諸科学の統合を図る実践と理論の教育活動として拡大していった。具体的な教育現場では川崎市の教育委員会の要請を受けて、校内暴力などで荒廃していた学校教育を立て直すために、市立の学校教員の再教育訓練を合宿形式で行った。また非行少年への矯正教育指導として家庭裁判所がトレーニング方式を導入した。

 1970年代から80年代にかけて教育界は大きな変化が生じた。中曽根内閣が文部省を通さずに直属の臨時教育審議会を発足させた。その中にJICEトレーニングに参加した人やJICEの教育理念に関心を寄せていた研究者や教育実践の指導者などが多く参加した。その波及性は2000年の第3の教育改革に反映して表面化したのである。この改革派「生きる力」を教育理念の基軸にして、総合学習プログラム、週5日制、ゆとり教育、ボランティア学習、体験学習などのキーワードで一般に知られ、学習要領の改訂を行っていった。ここで強調している点は、人間尊重の自立心、自己抑制力、自己責任力、自助精神、他者との共感と共生、寛容と調和の心を育てていくことである。これはキリスト教教育関係者であれば当然の理念であり、生きることは生かされていることの根本である。「生きる力」の基本理念は、JICE教育が掲げた個人の人権尊重と矯正の生き方、すなわち「関係性」の実存教育と共通するところが多くある。

 このように学校教育をはじめとして我が国の教育改革が遂行されてきた過程を経験的に参加してきたものにとって、教育理念のゆらぎを感じながら前進していく教育のあり方に波及性を見ることができるのである。

 

 . 終わりに

 

 JICEの教育活動は、関係の教育あるいは出会いと対話の教育として「生きる力」の醸成を強調してきた時代的な教育ムーブメントであった。その波及性は「地の塩」のようにその様態を変えながらも時代と社会に貢献をしてきた。

 JICEの教育活動が、一粒の麦としてどんな土地に播かれても、それぞれに人の世の支えとなりともに生かされていることの実感を持つ教育活動になる時、多くの先達たちの努力が叶えられた喜びに結びつく。教育活動という地道な過程の中に希望を見出しながら進む関係性。関わりの中にある人格成長の喜び。人と人との触媒的作用がもたらす恵の覚知。それぞれを再確認する時、さらなる希望が湧いてくる。そしてそこにはJICE活動の期待がある。

 

 

お問い合わせ