C.R.ロジャーズ 「ロジャースが語る自己実現の道」(2005) 第1章 「これが私です」 第8章 「自己が真にあるがままの自己であるということ」—人間の目標に関するある心理療法家の考え の要約

 

 第1章 「これが私です」

 

 私が学んできた大切な教訓は、他者との関係において、私があたかも私自身でないかのように振る舞っても、それは結局援助にはなり得ないということである。見せかけを保とうとするだけだ。実際は怒っていて批判的なのに穏やかで楽しそうにしているとか、敵意を感じていながら人を愛している素ぶりをし、体調が悪い時、調子が良さそうにふるまうなどである。

 

 自分が自分自身に受容的に耳を傾けることができる時、そして自分自身になることができる時、私はより効果的でありうる。ある瞬間に自分が何を感じているかがわかるようになると、あるがままの自分でいることができる。拒否を感じる、怒っている、退屈しているその瞬間に気づくということである。

 自分は全く不完全な人間で、そうしたいと思っているようには機能できないことを受容し、あるがままの自分を受け入れた時、はじめて自分が変化するという逆説がある。ありのままの自分を受けいれるまでは変化することができず、今の自分のままにとどまってしまう。人間関係がリアルになると、他の人の感情を受け入れて応答することもできやすくなる。他の人を型にはめたい、操りたいという願望も含めて受けいれる必要がある。

 

 私が自分自身に他者を理解することを許すことができるならば、それはとても大きな価値を持つ。理解することは危険をはらんでいる。自分自身が変わってしまうかもしれない。この変化への恐れが生じるので、自らに他者を理解することを許し、相手の内側の視点に徹底的かつ共感的に入り込むことは容易ではない。理解することは、自分がより応答的に、かつその人を変化させることになる。理解されることで、自分の恐れ、奇妙な考え、悲壮感、落胆などを肯定的なものと同じく受け入れ可能になる。そしてそうした感情も、自分自身も変化していく。

 

 他の人が私に自分の感情や私的な世界観を伝えるためのチャンネルを開いておくのは実り多いことである。治療関係、教師として、管理者として、リーダーとして成員が恐怖心を抱いたり、自己防衛をしたりする必要性をなくして自分の感情を自由に表現できるようにしたい。他者を受け容れることができれば、多くのものが得られる。受けいれるのは、理解することよりも難しい。その人の怒りを正当なものとして受け容れられるか、自分に敵意を持つ人を許せるか、彼の人生や問題の見方が私のものと大きく違っていても受容できるか、私に対しとても肯定的な気持ちを持ち、尊敬し、モデルにしようとする人を受容できるか。

 

 他の人はみな私と同じように感じたり、考えたり、信じなければならないという文化の共通パターンがある。しかし一人ひとりの人間は自分と言う一つの島である。まず自分が自分であろうとし、それが許された時、他の島との間に橋を架けられる。ある人の受容は、その人のリアルで重要な部分である感情や態度や信念を受けいれることができるなら、その人が一人の「ひと」になることを援助している。

 

 私は自分や他者のうちなるリアリティに開かれていればいるほど、急いで物事を処理しようとしなくなるようである。自分の内側で進行中の体験過程に耳を傾けようとし、他の人にも同じ傾聴の態度で接するほど、生命の複雑なプロセスに対して敬意を感じる。そのため急いで物事を処理しようとしたり、目標を立てたり、人を型にはめたり、私が望む方向に操作したり動かそうとしたりすることをますますしなくなった。ただ自分が自分であり、その人がその人であることに満足である。一般的には他の人のために何かしないなら人生は何のためにあるのかと問うだろう。しかし逆説的ではあるが、自分が自分であるほど、自分と他者のうちなるリアリティを理解し、受け容れようとするほど変化が生じる。

 

 私は自分の体験を信じることができる。ある行動が価値があるとか、するに値すると感じられるならば、それは実際に行うに値する。自分の知性より自分の生命体全体で感じることの方が信頼に値する。馬鹿げているように思えても、「正しいと感じられる」方向に進むと後悔しない。その時々に生じてくる重要な意味を持つかのように感じられるあいまいな考えを大切にする。一方他者による評価は私の指針にならない。権威ある人に自分の行動を否定されると揺さぶられる。しかし私の行動が正直でオープンで健全か、ニセモノで防衛的で不健全かは私だけが知っている。批判や賞賛などのエビデンスは受けとるがその重みを測り、意味と有効性を決めるのは私である。

 

 私にとって体験こそ最高の権威である。妥当性の基準となるのは私自身の体験であり、どんな人の考えも、私自身の考えも私の体験ほど権威はない。聖書も予言者も神の啓示も私の直接の体験に勝るものはない。意味論者の言葉を借りると、基本的なものほど権威がある。体験の下の階層が最も権威を持つ。権威の基礎は新しい一次的な仕方でそれがチェックされる。だから体験はしばしば間違うが、常に修正に開かれている。

 

 私は体験の中に秩序を見出すのが楽しい。体験の中に意味や法則性を求めていくことは避けがたい。理論を作る。ただ理論構築の理由は、自分の中の主観的な欲求を満たすためである。事実は味方である。ほとんどの心理療法家、精神分析家が科学的研究を拒む。仮説反証への恐れを持ち、事実を敵と見る。しかし事実は味方である。自分の考えを修正し古い考えを捨てるのは苦痛ではあるが、しかし苦痛を伴う再体制化こそ学習である。人生をより正確に見ることができる満足がそこにある。

 

 最も個人的なものが、最も普遍的である。自分が最も私的で、最も個人的なことだから他の人には理解しがたいと思っていた感情が、結果的に多くの人の共鳴を得る表現だった。一人ひとりの内の最も個人的なもの、ユニークなものこそ、それをわかちあうと他の人の心に深く語りかける要素となる。詩人や芸術がそれに当たる。

 

 人間は基本的に肯定的な方向性を持っている、というのが私の経験である。反社会的、異常な感情を示す人でさえ心理療法の深い接触においてこのことが真理である。彼らは一定の方向に向かって変化していく傾向がある。つまり肯定的、建設的、自己実現に向う変化、成熟した人格への成長、社会化された人間への成長が見られる。防衛性や恐怖から人間は冷酷で破壊的で未熟で退行的になりうる。しかしその人の中に存在する強力なまでに肯定的な傾向を発見できる。

 

 人生はその最善の状態においては、流れゆき、変化していくプロセスである。そこでは固定されたものは何一つない。体験の流れが自分を運んでいくのに身を任せるのが、自分がもっとも良い状態である。方向性は前進的だが、向っていくゴールにはわずかしか気づけない。体験過程と言う複雑な流れにたゆたい、そのたえず変化し続ける複雑さを理解しようとするなら、そこには固定された地点など何もない。

 

 閉じた信念体系や変化することなく持ち続けることのできる原則はない。人生は自分の体験についての、変化し続ける理解と解釈によって導かれる。人生はいつも生成のプロセスの途上にある。私にできることはただ、自分の体験が現在意味するものを自分で解釈して生きることだけである。そして他の人が自分自身の内的な自由を育み、自分自身の体験について自分自身の意味ある解釈を育んでいけるようにその人を認め、自由を与えようとすることだけである。

 

 真理というものがあるなら、この個人の自由な探求のプロセスはそこに向って収束していくはずである。

 

第8章 「自己が真にあるがままの自己であるということ」

     —人間の目標に関するある心理療法家の考え

 

 人生の目的、目標についてクライアントの傾向、共通性として次のように考えられる。何でも自由に選択していいときに人は何を求め始めるだろうか。クライアントと私の関係の中で浮かび上がってきた人生の目的を表現する最も適切な言葉は、キルケゴールの言った「自己が真にあるがままの自己であること」である。

 バカバカしいほど単純に思えるし、これは目的というより明白な事実に思える。しかし自己探求からこうした奇妙な見方に到達した。人がこの見方に到達するのは、自身の経験をとおして、それが真実であることがわかった場合だけである。

 

 私が診断的、解釈的説明でクライアントの体験の中に入り込むことは満足も与えず援助的でもない。この傾向はクライアント自身から生まれてきた。クライアントは見せかけのものから離れる。クライアントは躊躇しつつ、恐れを抱きながら、自分でない所の自己から遠のいていく傾向にある。否定的にではあるが、自分が何ものかを知り始める。

 最初の傾向は自分が何ものであるかを表現することの恐怖であり、その恐れを表現すること自体が、あるがままの自分になっていく過程の一部となる。単にあたかも自分自身であると見せかけた存在である代わりに、より自分自身になりつつある。自分自身を知られることは余りに恐ろしいことであり、見せかけの自分の背後にその恐るべき人間を隠す。

 

 またクライアントは「べき」から離れる。自分はこう「あるべきだ」と思っている強迫的なイメージから遠ざかっていく。「べき」を両親から根深く取り入れていると、ここから離れるにはすごい内的苦闘がある。多くの人々がかつて自分を悪いものと見なさざるを得ないように感じていた考えから離れる。つまり「自分をはじなければならない」から「あなたが何を言おうと構わない、私は自分を恥じたりなんてしない」へと移行する。

 

 さらに期待に応えることから離れる。文化によって期待されているものから離れていく。例えば「組織化された人間」は角の取れた人間を扱える角の取れた人間である。大学生活の影響力は個人がアメリカの大学卒の階級に適合できるように、個人を社会化し、その価値を洗練し、磨き上げ、「形を整えること」にある。

 同調性の圧力の中で一定の型に自らをはめようとする傾向に憤慨し、「長い間他の人には意味があったけれども、私にとって無意味だったものに従って生きてきた。もうたくさん」となる。

 

 そして他者を喜ばすことから離れる。多くの人は他者を喜ばそうとすることによって自己を形成している。しかし彼らが自由になった時、そこから離れていく。人から好かれるためには期待されていることをやらねばならないと感じていた。これからは豊かであれ貧困であれ、善であれ悪であれ、合理的であれ非合理的であれ、有名であれ無名であれ、「汝自身に誠実であれ」というシェイクスピアに言葉を再発見する。

 自由の中で人は自分も目的に、自分がそうなりたくない方向を発見することで気づく。人為的なもの、押し付けられたもの、外から決められたもの、つまり他の人を喜ばすために自分の行動を型にはめようとは思わない。

 

 そしてクライアントは自己指示に向かっていく。これは自発的であることに向うということであり、徐々に自分が向いたい目標を選び、自分自身に責任を負う。どんな活動や行動の仕方が自分にとって意味があり、何が無意味なのか自分で決める。これは愉快に自信を持ってではない。

自分自身であるという自由は、驚くほど責任の重い自由であり、注意深く、恐れを抱きながら、最初は自信なしに進む。これは常に健全な選択をするということではない。自分が選ぶこと、そしてその結果から学ぶことを意味する。

 

 さらに過程的であることに向っていく。ある過程や流動性や変化であることに、より開放的に進む。それは日々自分が同じでないこと、ある体験や人に対していつも同じ感情を持っているわけではない、自分は常に一貫しているわけではないことに気づいている。

 絶え間ない流れの中に身を浮かべ、この流れの中に身を委ね続けることに満足していて、結論や結果に向かおうとはしなくなる。自分の行動を予測できない。いつも新しい、冒険、それは今ここにあるものである。

 真に実存している人間についてのキルケゴールの言葉に「真に存在する人間は常に生成の過程にある。」がある。実存する人間のスタイルには完結したものは何もない。実存する人間が語り始めると「言葉の水が流れていく」。そのため最もありふれた表現でさえ彼にとっては新しい誕生の新鮮さを持ってくる。

 

 さらに複雑さに向かっていく。自分自身の感情が非常に複雑であることを意識する。関係の中で生まれてくる複雑で変化し、矛盾した感情のすべてであることがあると関係はうまくいく。自分の感情の一部であったり、部分的に偽ったり防衛的であると関係はうまくいかない。自分自身に隠すものは何もなく、恐れるものもなく、その瞬間瞬間に豊かさ、複雑さのすべてでありたい。

 

 また体験に開かれるようになっていく。自分自身の体験に対してオープンでフレンドリィで、密接な関係を持って生きていく。自分自身の新しい面は初めは拒否される。しかし受容的雰囲気の中で自分のこれまで否定されてきた側面を体験すると、自分自身の一部として徐々に受けいれていく。次第に自分の体験しつつあることが親しみの持てるリソースであり、恐ろしい敵ではないことがわかってくる。

 私が今感じているものはいったい何なのでしょうと自分自身に耳を傾け、メッセージと意味を受け取る。自分の内的な反応や体験、自分の五感や身体の内側の感覚のメッセージは自分の味方である。マズローは「自己実現する人間は、彼らの衝動、願望、意見、主観的な反応一般をきわめてよく意識することができる」と言っている。

 

 他にも、クライアントは他者を受容するようになる。自分自身の体験を受容することができると、他の人の体験も受容することができる。自分のも他者のも、それがどんな体験でもあるがままに大切にし認めるようになる。そして自己を信頼するようになる。自分自身であるプロセスを、より信頼し大切にするようになる。自分の内部で進行している過程をより信頼、自分の気持ちを感じる、自分の内側で見出した価値によって生きる。

 

 このように一般的な方向として、個人は存在へ、内的かつ実際に、それである過程に向かって、意識的かつ受容的に変化する。自分ではないものから離れ、見せかけからはなれていく。不安やおおげさな防衛を行いながら、実際の自分以上であろうとしない。罪悪感や自分を軽蔑する気持ちを持ちながら、自分以下であろうともしない。

 自分の生理的な情動的存在の最も深いところにますます耳を傾ける。自分が本当にそうであるような自分に、より正確に、より深くなろうとする。本当にあるがままの自分であることはどんな方向に進んでもいい自由が与えられた時に最も高く価値づけられる人生の道である。単なる知的選択でなく、手探りで探索的で不確かな行動である。

 

 一方、いくつかの誤解もある。あるがままの自分とは変化せずそのまま止まる静的な状態ではない。目的とか価値を固定した変化しない状態と同じ意味に捉えている。クライアントは自分の嫌いな行動に自分が固定化されてしまっている。

 

 それは悪魔でもありえるのだろうか。本当にあるがままの自分になることは、悪、邪悪、無統制、破壊にもなり、この世界に化け物を解き放つことになるのだろうか。ほとんどのクライアントがそう考えている。例えば「自分の中にせきとめている感情をあえて放流して、そういう感情を生きるとしたら大惨事が起こるでしょう」という。これは自分自身の未知の側面を体験し始めるにつれて持つ態度である。

 しかしこれは一時的である。怒りが自分の本当の感情であるとき、自分が徐々に怒りそのものになることに気づく。しかし自分が受け容れた透明な怒りは、破壊的ではないことがわかってくる。恐怖そのものになることもできる。しかし破滅に追い込まれないことを知っている。自分の性的な感情や怠惰の感情、敵意の感情を感じることができる。しかし世界の根底は崩壊しない。これらの感情が自分の中を流れることを許し、自分の中にあることを許すほど、それらの感情は自分の感情全体の調和の中で適当な位置を占める。

 一方他の感情も持っていて、それらが混じりあい、バランスを取っていることに気づく。敵意や肉欲や怒りを感じるが、同様に愛ややさしさや思いやりや協力も感じる。この複雑さと親密になりそれを受け容れる時、彼の感情は彼を無統制な邪悪の道へ誘い込みはしない。複雑さは建設的な調和の中に働く。

 もし本当にあるがままの自分になるなら、自分の獣性を解放することになるのではないかというが、ライオンの傾向や衝動はライオンの中で調和を保っている。建設的で信頼できるメンバーでありうる。ある人が真に、深く人類と言う種の独自の成員の一人である時、それは恐れるべきことではない。人間としての独自性を十分生きることは悪と呼ばれる過程ではない。肯定的、建設的、現実的、信頼に値すると言った言葉がふさわしい過程である。

 

 私が描こうとした人生の道には社会的意義、社会的意味(集団、組織にとっての)がある。一つの国家としてオープンに、意識的に、受容的になるがままの自分であることは外交においてどのような姿を示すか。隠すべきものがないから居心地が良くなる。自分を防衛するためでなく、問題を解決するために創造力を使う。脅かされることがずっと少なくなる。

 

要約

 

 人生の目的に関する問いからスタートしたが、クライアントは一定の方向へ進む。自分を隠すのをやめ、他者の期待にそうのをやめる。あるがままに自由に、流動的で変化しつつある過程であることができる。自分の中で進行しつつあるものに親しみを持って開かれていく。自分に感受性を持って耳を傾ける。硬直した考えの持つ明晰さや単純さからは離れていき、複雑な感覚や反応の調和になる。自分自身の「存在性」を受けいれ、自分に対するのと同じく他の人々も受け容れる。自分自身の複雑な内的過程が表現されることを求めて浮上するにつれ、自分の内的な過程を信頼し尊重する。それによって現実にあうような創造性を持つ。

 自分の内のこの過程そのものになることによって、自分の変化と成長を最大にすることに気づく。こうした流動的な意味において自分のすべてであることが、悪とか無統制ということと同義でないことを発見し続ける。感受性に富み、開かれており、現実的で、内界志向の人類の一メンバーであることに、ますます強く誇りを感じる。変化していく状況の複雑さに、勇気と想像力によって適応する。自分の全生命体的な反応と一致し、気づきを保ち、その気づきを表現しながら存在することに向って歩み続けることが「自己が真にあるがままの自己であるということ」である。これは容易でなく、かつて完全になしとげられたことはない。どこまでも続く人生の道である。

 

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