『感受性訓練−Tグループの理論と方法』より 第8章 両極背反からパラドックスへ K.D.ベネの要約

 

 これはベネが17年間、50のTグループで得た経験に基づく臨床的コメントである。Tグループがどのように発展するか、そしてどのような機能を果たすかの9つの側面を取り上げている。最初の4つは社会学的側面で、進行の過程の中で顕著な変化を観察しうる種々の社会体系の特徴またはメンバーの関わり具合のパターンを取り上げている。残りの5つは文化的側面でグループ生活の規範的、イデオロギー的、世界観的要素を取り上げている。これはメンバーの経験に意味や価値を賦与し、その経験をコントロールする機能を果たす。

 

 以下のコメントはTグループ開始時の混沌状況に秩序をもたらそうと努力する際に、グループメンバーがでくわす「両極背反」を論述している。こうした両極背反がグループの処理しうるパラドックスに転化するかどうかでTグループがうまくいくかどうか決まる。両極背反がパラドックスへ進むことを意味する。

 

1、目標と無目標のパラドックス

 

 Tグループには外部から課せられた課題がない。初期のメンバーに面接し、グループの今の目標は何かを尋ねるなら①目標がないという知覚②グループ目標はすでに「私」とその他の少数のメンバーが、かくあるべきだと述べたものであり、他の大多数のメンバーは無目的的にこの目標からさまよい出ていると答える。

 

 処理されなければならないその場の状況の「現実」は、グループが形成されていないための「あいまいさ」と「不確定性」に根ざしている。それはメンバーとトレーナーの役割規定であり、参加の仕方の適切・不適切を決める基準である。またグループ内の権威と勢力関係であり、選択・決定が合意的に確認されるか、無効とされるかの判定の手続きである。そして結果として出てくるグループ目標である。

 

 Tグループを組織した人、受講料を払った人たちの目標は、メンバーが、グループの形成とその機能にどのような問題が存在し、どのようなプロセスがあるかを学び、メンバーとしての彼ら自身について学習することである。Tグループの中で「うまくやっていく」ことを学習するだけでは不十分である。違った社会状況で、信頼性・妥当性を持って一般化されるような学習をすることが合理的目的である。

 

 Tグループの中心目標は、多少とも意識的に仕事をうまく仕上げるという成果にあるのではない。しかもTグループはその学習目標達成のための仕事をしなければならない。比較的気楽そうにして、満足して参加できるような社会体系を作り上げることではない。でも、グループの形成と維持やそれらのプロセスにメンバーとして参加することをメンバーが学ぶべきとするなら、彼らは社会体系を形成し維持し、かつ再建することをしなければならない。課題の問題、グループ形成と再形成の問題が複雑な目標を設定する。

 

 トレーナーとしてのベネは、ベネとグループの間の契約と信じるものを述べる。それは理想的目標とベネの役割であり、「自分の経験から学ぶための学習の方法を見出していこうとする際のグループとそのメンバーに対する援助者」とするものである。グループに有効な学習のための材料には2つある。

①メンバーが外から持ち込む他のグループについての知識・経験を持ち寄り分析

②このグループで起きる関係、事象の観察と明確化

トレーナーは主として第二の種類のデータを収集し、解釈し、用いることを援助する。

 

 上記の説明は、最初は理解されないが、それでも重要な理由としてあとになってグループの葛藤が起きた時、トレーナーの役割と定義を与えるよりどころとなる。Tグループの目標構造に実際に内在する複雑性とメンバーとして目標に対して何らかの貢献をしなければならないという責任感につきまとう複雑性を区別できる。

 

 Tグループの目標は複雑・多種多様である。さまざまな種類の目標(タスク、維持・・)がだんだんと分化し統合されていくことをみる。1つだけ選びだし他を否定する動きも起こるが、しかし現実はそうではなくうごく。こうした目的の欺瞞的抽象化は、党派争いのスローガンになっている間は持続される。例えば生産派、プロセス派がそれぞれ目標に向けて固執する。

 

 他のメンバーがこの抽象化を支持できないものとして指摘する。これら2つの両極化した抽象化が起こっているその現実の中に存在する共通の基盤であるこのグループの生活には形式と合法性が欠如している点を指摘する。トレーナーとしては、彼らが闘争に組み込まれている、その場の具体的現実を、グループが受容し理解しようと努めるのを支持することが必要である。気持ちと相互関係の表現と探索を有意義なデータとして統合していくような仕方でグループが活動できると実行可能な共通目標が生まれる。

 グループの複雑な諸目標についてのパラドックスを処理する方法を学びうる。それはグループ活動が、グループおよびそのメンバーに、いま、現実に起こりつつある事がらについての明確化と解釈に結びあわされる時である。つまり今の事柄がすでに起こったこと、次に起こるであろうこととどのように関連付けられるかの明確化と解釈に結び付けられる時のみである。こうした現実主義的方法を通してのみ、目標と無目標という手のつけられない両極背反を、目標の複雑性についての処理可能なパラドックスへと変えることができる。

 

2、グループおよびそのメンバーの成長と維持の問題

 

 Tグループの目標志向的活動は次のものに向けられる。

1つの社会体系として、グループとそのメンバーシップを形成、再形成する

②仕事としての課題の客観的達成を志向する諸活動

③学習に向けられた諸活動

以下1つずつ取り扱う。

 

 グループが社会体系を維持するという問題を処理する時には3つの両極背反が生じる。別個のしばしば矛盾した行動が要求される。

①グループを1つの社会体系として維持する行動への要求と個々のメンバーの自己体系を維持する行動への要求

②グループとメンバーの維持(気楽さ)を求める要求とグループ、メンバーの変化(成長)を求める要求

③グループ内での権威と自由の相互関係に関する要求

 

(1)グループの維持 対 メンバーの自己維持

 

 動き、秩序またはメンバーからのデータ(黙っている理由など)またはメンバーのデータに関する「グループ」の要求と不参加、プライバシー、または平和についてのメンバーの「自己」の要求とが、明らかに相いれない。若干のメンバーはグループの要求が「正しい」「優先する」と考える。他のメンバーはグループの要求は個人の要求に比べれば下位的と考える。グループや個人の要求に現実的に直面できると何らかの妥協が生み出される。

 トレーナーはメンバーの義務と特権についてメンバーに存在する価値判断の相違を否定することなしに、今のグループを不自由にしている両極背反を突破してすすむことを求めているメンバーを支持することでグループに貢献できる。この際、価値感を否定しないことが重要である。

 

 妥協の成功を後で分析してみると最初の両極背反は新しいパラドックスの諸原則へ移行しているのがわかる。グループからの強制、メンバーの個人性・プライバシーへの侵害が減少するほど、メンバーは自分自身をより多くグループに与えるようになる。メンバーがグループの共通課題により自由に貢献する時、グループは強められ、その凝集性は密となり、メンバーはよりよく自分自身であることが可能になる。

 このパラドックスが標準として採用されると、最初の両極背反の時より効果的に、グループとメンバーが互いに認め合った変化をもたらすようになり、葛藤が解決するように行動することができるようにしてくれる。異なる要求を持つ自己をグループが支持することでメンバーの個人性とグループの結束の両者が強められうることを理解することは貴重な学習となる。

 

(2)気楽さ 対 成長

 

 グループが初期のあいまいさから抜け出すと、甘さと自賛に満ちた「ハネムーン」へ移行する。グループの気楽さと安定が、メンバー行動が受容されるかどうかの暗黙の基準になる。しかし気楽さによる平衡状態は不安定で、メンバー、グループへの否定的感情の否定が起きる。より自由でより強固な相互的かかわりへの要求が生まれてくる。

 こうした気楽さ対成長の問題は、グループの考慮すべき課題になり、両極背反を起こす。グループ内に確立されたどの取り決めは維持し、どの取り決めは変更すべきかの観点からグループメンバーが問題を具体的に取り扱えるかどうかは、グループの成熟の1つの指標となる。メンバーの中には、安定した自己体系を築きたい強い欲求があり、一方、平衡状態を破ろうとする強い要求も起きる。後者は今の平衡状態が脅威であり、または考えや感情をもっと十分に、そして自由に表現し、メンバーとグループがいっそう成長するようにしたいという関心から生じる。

 成熟していると、この2つの相反することの多い要求を認知し、受容し、評価したうえで、互いに認め合い、一緒に行動できるような妥協策なり総合を生かしていく能力が高い。トレーナーの関心は成長しようとする動きを発動、援助することである。ただこれはできあがった関係の中に安定しうるときにのみはじめて起こりうるものでもある。

 

(3)グループ内の権威 対 自由

 

 グループの根源的不安定性は、互いに対立している党派が、グループをコントロールできる権威の支配的象徴を自分たちの側に獲得しようとする努力のうちにみられる。こうした抗争によってグループ全体の人たち(大衆)の混乱と不安は増大する。最終的には皆が受容する合法性を得ようとするための構想だが、危険性として混乱解消と安定を求めるあまり「強力な人」「強力な党派」のコントロールをあまりにも安易に受け入れてしまうことがある。

 

 トレーナーが権威を象徴する行動を拒絶すると、権威の真空状態が起こる。どちらの党派も信じない。そこでは例えば、トレーナーは、グループをコントロールするのに神秘的・全能的な操作を行っているとの神話を作り上げ、状況の中に投影することが起きる。もがきのなかで一時的に当座の間に合わせの権威がグループに受容される。しかし、これは長続きしない。より実質的に活用できるメンバー相互の関係やコントロールのパターンが、党派的抗争のさなかの底流で苦労して築きあげられる。安定性が与えられ、グループ内の権威の問題についてメンバーは認識し診断することができるようになる。

 

 権威と自由は対立するという未熟な認識では、グループの中に繰り返しあらわれる具体的な「権威と自由」の問題に立ち向かえない。グループ全体が受容しうる標準、手続き、役職や運営パターンの枠内で、各自が自発性を発揮し相違を認め合い、自由に変化することは許容され、価値あることと合意に達する。この状況の中で変更が提案され、それを実験的にテストしてみる。グループの成熟とは、権威や自由についての独自な解釈を許容する事であり、それがグループのルールになる。

 自由と権威に関する問題は、トレーナーの人格的安定、独創性におう。トレーナーはメンバーの歪曲された知覚がどこからくるのか認識しうるようにしてやることが必要である。レーナーが防衛的になると、歪められた知覚を支持し合理化するような権威と自由についての前提や概念を意識的に検討するより、その検討を抑圧してしまう。ただし、これは巻き込まれないようにということではない。時には1人の人間として挑戦することも必要となる。

 

(4)グループ形成とグループ維持の諸問題から学ぶ事

 

 メンバーの自己維持、グループ維持について未解決の問題がある。グループは効果的に「客観的」課題に取り組んだり、学習目的に役立つよう経験を的確に分析することができない。この「隠された困難性」があらわになるのは、課題の内容やその取扱いの中で、討議の中にまったく関連性のないことが間接的に入り込むか、ある領域を回避する時である。維持の問題がうまく処理されるとグループの自信が高まり、仕事・学習の質が高まる。

 

 維持の問題を処理することから学べることとして、まずグループとしては、個人対グループの関係、安定性と変化、権威と自由の間に存在する不可避的なパラドックスを受容することを学習できる。抽象概念の弁証法的操作だけではパラドックスは解決できない。また課題達成グループでも学習グループでも、維持の問題は不可避であることを学習できる。

 自己の側としては、適切な自己防衛と自己成長のいずれにも障害となるような自己の防衛システムの中にある個人的な歪曲、盲点を発見できる。それはTグループ体験を通じて得られる最も重要なものである。最も自信をもって、他のグループや社会的状況に転移しうる学習に含まれる。

 

3、課題処理の機能とその配分についての諸問題

 

 Tグループの中で、客観的問題の分析、課題達成のパターンの重要性を軽視する傾向がある。社会一般には課題達成が強調され、Tグループでは逆にすべきと考えられる。

 パラドックスが発生するのは、グループが維持の困難さを効果的に処理すべきであるとするなら、それは客観的な、そして内の問題というよりは、外の問題としての性格を持つ「問題」として構成される必要があることだ。

 メンバーの外部でのあり方、交際の仕方が、メンバーシップの問題に影響してくる。外とTグループの中の比較対照から、問題を意識的に構成し、ラボラトリーでテストする。維持の問題に取り組んでいるTグループは、その問題自体が課題となり、グループがそれをどのように処理していくかそのしかたが、課題の属性を表示する。

 Tグループが外部でのグループや組織での生活に存在するアンバランス(維持と課題)を低減することを助けるべきとするなら、Tグループはグループおよびメンバーの維持、成長の諸問題解決のために意識的に取り組んでいくことを学ばねばならない。

 トレーナーの責任はメンバーがTグループで得た学習を現場の生活に転移することであり、このパラドックスの重要さが強調される。Tグループは普通の課題達成グループが課せられる重荷と圧力から保護された環境にある。緊急性のため、維持と成長の問題が押しやられることなしに意識的に取り扱える。この経験によってTグループ以外のグループや組織に起こる同様の問題をも、よりよく診断し処理することができるようになる

 

 真の問いは<課題達成の問題を分離して、維持・成長の問題の取り扱い方を学ぶのが目標なのか>または<維持、成長、課題達成の諸問題を、それらの相互関係において効果的に処理していくのを、どのように総合するかを学ぶ事を目的にするか>であり、後者の学習目標が強調されるべきである。

 Tグループも何らかの課題達成のための構造を作り出す必要がある。例えば共通目標、組織化、意思決定・・・などである。トレーナーが課題達成面を取り扱わないなら、その構造面の解釈も明確化もしない。グループの発達を阻害してしまう。その問題点を指摘し処理することが必要である。Tグループでは、パラドックスが雲散霧消することでなく、グループ経験というコントロールしうる現実の中で、パラドックスの両極を同時に認め研究し、取り扱うことを学ぶ。

 

4、Tグループにおける科学、芸術、政治

 

 Tグループの特色は、グループ自体の中に現在進行中の経験に生起する諸事件の明確化と解釈を利用する度合いが大きいことで、第一次的な教科主題は、社会的、対人的な諸関係となる。観察、分類、関係づけのための<共通の言語体系>が必要であり、同時に客観化されたチェックできる観察データの資料源が必要である。

 Tグループで起こった事件を解釈し、後から顧みて意味づける事は、今とるべき行動の指針、選択に役立つ。解釈は、グループメンバーの思惟と経験の中で効果的にテストされ矯正され、意味あるものとなる。しかし、後からふりかえって再構成されるこの機能は、個人的経験を通して学習するのであるという目標が、実はグループ生活の進行過程の中に入り込んでいるパラドックスを理解するのに助けとなる。

 

 強調点の差がある。観察と即時的フィードバックが最も有効であることに強調点を置きすぎると、道徳的、政治的配慮が学習範囲をせばめる。結果、他の状況への一般化を損なう。グループの歴史を納得できるように再構成することに強調点を置きすぎると、今フラストレーションを起こした事柄を、もっともらしい言葉の劇にして審美的で終了させてしまう。今、ここで経験していることから汲みだされる「実用性」「真理」への配慮が薄れる。ただ、グループの過去への「芸術的」再構成なしには、グループは共有の自己像、親和、エトス、生きた文化を発展させられない。グループが、証明しうる記述だけに関心を持ち、完全に「科学的」になりすぎると、自分たち自身の行動と決定から抽出されるデータは無味乾燥になる。ただし、これが強調されないと妥当性を持って一般化しうる知識を獲得できない。

 

 Tグループは上記の1つだけを目指すことはない。一定期間はどれかに近づこうとする。実践的グループは想像性、深い内省なしに困難な事柄についても巧みに用心深く策動する。審美的グループは成功したこと、失敗したことをもとにした豊かな興趣ある神話を作る。科学的グループの動きは用心深い。経験をもとに想像的に建設することは貧弱である。言語、観察の捜査に当たってはきわめて健康的でがっちりしている。

 成熟したグループは3つの様式のバランスを保ちながら発展し、3つの総合を目指す。

メンバー各自が観察と解釈をする責任をますます多くとる。グループは実践的解釈、審美的解釈、科学的解釈を別のメンバーに分担する。

 自分たちの行動を観察、解釈をすることへの抵抗もある。もともと、自分を傷つけ、破壊するために用いることへの防衛とされてきた。メンバー間に相互信頼と自信の雰囲気を醸成することは重要であり、これも正しい。各人の個性を表現し行動化するように、各メンバーを受容し励ますという標準が、効果的Tグループの持つ1つの強力な標準になるべきである。上記抵抗はあっても、グループの中でメンバーはより強い一貫性と完全さを達成したいという欲望がある。この志向こそ、グループが彼らの体験にそなわる経験的な実在に直面し、受容し、それを理解するのを助ける人が支持するものである。抵抗のあるもの=防衛機制ではなく、解釈や明確化の試みの不適切さからくることもある。

 

5、時間的展望の変転とグループの文化の蓄積

 

 今までのTグループの考察は、グループという発達しつつある社会体系のなかでの、社会組織、構造、変化、統制の諸問題を取り扱うという意味で「準社会学的」であった。今後の数節は、グループを1つの社会的世界とみなして、その規範的秩序を作り上げていく側面に焦点を当てる。「準人類学的」視点である。小集団の文化の研究では比較的無視されている。

 

 Tグループがあらかじめ早死にするように運命づけられている事実は、グループ文化の発展を経済的に促進するのに重要な役割を果たす。継続的交際期間が無期限であるようなグループでは達成困難な表現の自由と分かち合う自由が生まれる。交わりを集中的、徹底的に生き抜こうとする動機が強くなる。

 Tグループの積極的価値をメンバーが認めると、ユニークな潜在力をフルに現実化しようとする決意が公に語られるようになる。これがTグループの目的達成を容易にする。ただし、実生活へと転移するようなたくましい学習を発展させる点では問題がある。

 

 Tグループは前もって定められた終焉を最も有効に利用し、同時にメンバーの「本当の」交際にまで影響を与え、それを改めるような学習を彼らがなすのを援助することはどのようにしたらできるか?それは暦の時間とは違った時間的展望をTグループの交わりの中で発展させることにある。グループが解散したあとにまで及ぶ時間とかみ合う時間的展望である。この時間的展望の達成は、Tグループがそれ独自の、意味のある文化を蓄積し形成すること、メンバーがこの文化を内面化することに関係がある。

 グループ文化の蓄積とは何か。例えばテーブルを戸外に持ち出す意思決定をするという事件があった。有意義な文化を発展させるのは、その事件だけのせいではない。事件をグループが「芸術的」に再構成したこと、一般化しうる重要性を「科学的」に分析したこと、コントロールするための新しい確実な方策へと「実践」に移したことのためである。一見ささいなことに見えるが、この中に個人生活と社会生活の間に存在する最も深いジレンマ<自由と社会、権威と自由、保守と変革>を内包している。

 個人個人の多様性と相違の光彩を失い損じるよりは、むしろそれを確かめ確証するような交際によって、しかも堅実かつ安定性を与えつつ、ある程度克服されていく人間の孤独性と相互隔離性の「放浪冒険の長旅物語」がこの事件に含まれる。Tグループでは、それらが小さいスケールでステージに劇化されうる。

 

 日常生活(大きなスケールの文化)では、個人と組織の間に存在する根本的ジレンマに直面する。職業的、個人的な孤独の組み合わせの中に立つ。こうした中でジレンマに直面し、(個人、集団の間のジレンマを克服する)共同体を発見し、作りあげていくことはもっとも大きい重要性がある。しかもそれが個々人、集合的知性の行使に反対して達成されたのではなく、知性を、自分の他人に対する関係でいま問題になっているところに適用することによって達成する。この貴重な発見と達成を成し遂げた感覚は、Tグループから他の社会状況への転移を可能とする学習となる。

 

6、「いま・ここで」の問題に焦点をあてる

 

 Tグループ独自の文化の蓄積と構成は、メンバーが、グループが体験している具体的現実をコントロールし、その真価を認め理解しようとすることに努力を集中したとき達成される。現在の経験に焦点を当てる事で、グループの過去と未来が明確化され意味を持つようになる。これによって外部での経験とグループ内での経験の有意味な関連付けが可能になる。

 

 「いま・ここで」直面し、それを検討し学ぶ事は、たやすい学習ではない。メンバーは、自分と実際自分の中に起きていること、自分と他人の間に概念、態度、評価といったスクリーンをさしはさむ。これらは外部でのメンバーの経験から引き出されたものである。こうした「あのとき・あそこで」から持ち込まれてきたスクリーン、お決まりの形のおしつけが「いま・ここで」の現実の因数に分解され、スクリーンが意識的に検討される。例えば地位剥奪が起きる。外部の地位はあまり意味がなく、新たな地位の獲得が必要となる。また高踏なごまかしは役に立たない。

 自己の正体、職業選択、性の役割、世界観の諸問題があらためて再検討の対象になる。自分が何者であるか、そして自分のよって立つところがなんであるのか、といった問題をメンバーたちが助け合って再定義しようとする。自分たちの解釈を確認するために信頼できる経験的証拠を求めてTグループの「いま・ここで」へつき戻される。同じ行動への解釈も人それぞれで、個人的特異性がある。人間行動の複雑性の前に「無知と謙遜」

を表明せざるをえない。自分がいつもしているごまかしの限度を認めることが、探求のプロセスの開始となる。個人個人の観察と解釈からくる結果を、合意のうえで確認するかを決めるのに他のメンバーに加わってもらう。

 

 あたらしい高踏化(ソフィスティケーション)が起きる。現在のデータを無視したり、いいわけするためでなく、文化遺産を「現実に合わせて」進展し洗練し、改革していくテコとして、現在の生の経験を尊重する。一般受けはしなくても「いま・ここで」を考慮することが、グループ生活の方向づけの一部となり、グループの唯一の貴重な方法となる。この現在の尊重はTグループを最も有益に転移できる学習の1つである。「いま・ここで」の現実から、たえず学びとっていこうとする高踏化は、独善的な保守主義の手段でもなく、純理論家の改革の手立てでもない。成長と変革の道具である。

 

7、行為のコトバと観察のコトバ

 

 解釈のための適切なコトバが探索される。「社会科学」「社会政策」および叙事詩または演劇「芸術」に用いられる言葉が必要条件を満たす。組織の安定性を求めた葛藤の一部はグループの公認語を規定することに集中する。

 

トレーナーが社会科学者であるとみなされる場合、グループの中で社会科学の用語をどれほど常習的に用いるべきかという葛藤へ発展する。凝集性などの言葉は、正確に説明すると同じ程度、グループをコントロールする武器として機能する。グループ内でメンバーが抜きんでた地位を獲得するための手段として首位争いに用いられる。

 言語をめぐる初期の党派争いの根底にある仮定はグループ内には「ある種の」公認の言葉があるべきというものだ。「正しい」言葉づかいを規制するための権威ある辞書を持つべきという仮定が発生する時もある。メンバー間のコミュニケーションを確立するための道具として、言葉が想像力豊かに融通性を持って機能しはじめるのは、グループが公認語による安定性を不必要とするようになってからである。

 ここでは比ゆ的表現が多くつかわれる 蜜月旅行の破れた後か、「第2の」平衡状態期間中か、科学・常識の言葉では達成しえない集約性と具体性を持って感情と知覚をコミュニケートしようと「詩で語る」。言葉が持つ「詩的」資源を「実験的」に開発する。

これは共通した好みと評価を相当程度に成し遂げるものであり、メンバーは好みと評価に個人差のあることを皆で正当に評価するようになる。これなしにメンバーは個性に鋭敏であると同時に、共同で行為することができるようにならない。

 

 行為のコトバは次のような意味において「詩的」である必要がある。グループ、個人の目標達成の努力、どうしてもそうありたいと願うようなイメージに関連しながら、全体に共通した態度、好み、感情、動機を動員するものであり、行為の言葉は「説得の言葉」に不可避的になる。

 強制されることがなく、個々人の定位や評価の妥当な差異が尊重される行為の共同体

では、考慮・決定されることについて、自分の「主観的」関心と問題点を他の人たちの前に、おおっぴらにアピールできるように話すため詩的な言葉を使わねばならない。論理的な議論だけでなく、言葉の持つ表現的、説得的な資源の開発が必要となる。感情とか態度とかは、有効に信ぜざるをえないものとして表現されるまではグループの「証拠」となることはない。

 

 Tグループは行為が唯一の目標でなく、行為を通じて学ぶ事を目標にする。メンバーは全身全霊で参加すること、同時に観察者、分析者としての機能を果たす。観察を報告したり、一緒に分析するために共通語が必要となる。詩的表現こそが命名され、分類されるデータとなる。例えば「顔をそむけた巨人の中にいるピグミーのようだ」などである。自分が他者の感情を知覚しえないでいる、その手がかりはなかったのか?・・・・

 この事件はそれを歴史的展望の中に位置づけることによっても解釈される。過去に起こった類似の事件との相似性は何か?事件はそれにそなわる「実践的」意義ゆえにも測定・評価がなされる。適切なフィードバック与える方法が必要なのか?こうした観察のコトバと行為のコトバは実際には混じり合う。

 

8、深淵への一瞥

 

 日常生活は慣行、文化的パターンの受け入れで成り立っている。人間が維持している社会的実在の安全保障のかなたに横たわる根源的不安の深い淵をのぞき見ることがないように守られている。秩序と意味を求める際に、それに頼りたい根源的依存性がある。パーソナルな決断、相違するグループからの要求は個人の孤独さを痛感させ、精神を錯乱させる風景を一瞥させる。これを見続けるのは難しい。それで不調和をすぐとりつくろおうとする。

 Tグループでは行動・処置の正しさを判定する安定した基準がなく、判断と評価に確実性と保証を与える基準もない、通常の交際で出会う反応もない。パーソナルな不安が瞥見としてより以上にメンバーにとらえられる。例えば次のようなケースで最も恐ろしい不安が起きる。グループが承認した問題解決の方法が、他のメンバーから出されたいま一つの方法とぶつかり、いずれの方法も未形成のグループを最終的なものに持って行けない場合である。

 

 グループは政治理論家の仮定した前契約的な人間状況の中で動いているように見える。常に脅威にさらされている人間存在の状況を理解し、深い真理へ導かれる。関係性が育成されうるような秩序を制定し維持するために、メンバーは彼ら自身が持っている資源に押し戻される。人はふつう、現行の交際生活のパターンを当たり前のこととしてとらえる。固定化、合法化されている。

 Tグループの中で起こりやすいパターンとして、まず隠れた秩序をすっぱ抜く努力がなされるが失敗に終わる。またあいまいさを許さない厳格な秩序を押し付けようとするが、これも失敗せざるをえない。次に故意にお互いによくしあい親切であろうと努める。ハネムーンの時期である。しかしこれまた失敗せざるをえない。否定的感情を否定し、意見一致の機構がないからである。最後の自分たちの窮状を受け入れ、無意味さとあいまいさという恐るべき深淵から救われる。つまり自分たち自身の個人的および集合的「立法過程」によって自らを救う必要がある。意味、コントロール、コミュニケーションの探究を実験的に実施し、評価しながらそれに没入していく。ここから共通の安定性と権威が発生する。これはメンバーの個性、個人的・集合的知性、および社会生活と私生活の間に存在する恒久的パラドックスの肯定に基礎を持つ。

 

 現代の組織人は、疑う余地もないようなグループへの同化と忠誠心という伝統的で偏狭な確実性のかなたに横たわる深い淵を見せつけられる。ロマンチックな個人主義、組織生活の拒否では、自由と安定性をイキイキ結合することは不可能である。ただし、自由と安定性を求め、たまたまある歴史的に設定されたパターンを盲目的に受け入れることもダメである。

 現代人に求められるものは、グループと組織の要求に取り組むことを不可避なこととして確認することである。どのようなグループ・組織のパターンに参与しても、私的自由と自発性の価値に注目して、そのようなパターンをどのように変更し、どのように構成し、また再構成していくかを学ぶ必要がある。これはTグループの、社会的支持を受けつつ曇りのない眼で深い淵を見つめるということで促進される。

 

9、方法論の衝突

 

 Tグループは「いま・ここで」の状況という具体的・経験的「現実」を「実験的」に取り扱うため、誰もが受け入れられる方法によって、最終的には、安定性と共同体の基盤を見出す。証拠が分析評価される。グループの活動と構成を秩序立て再編成していくのにどのような重要性を持っているか。テストすべき知識として、どれほど一般化しうる重要性を持つか。メンバーは参加的演技者と観察的分析者を行ったり来たりする。 

 メンバーの基本的安定はこのような各種の要素を含んだ複雑な方法論いかんにかかってくる。たえず構成と再構成の努力をつづけ、本来的に多元的な共同体において、個人とグループの成長をささえるものとして設計される。

 

 コンセンサスと共同体について、多くの現代人にとっては、それを描くことは難しい。共同体と倫理的同意を維持するには「同じように考えること」が大事だが、これは同一意見とは違う。同一意見は考えることなしに同意する方法である。「考える」とは、判断し、開きのある主張や意見を検討可能な論拠に照らして調べ、そして恣意的ではなく、その問題の独自性に照らして決定することで、倫理的同意である。これを保持し、防衛する社会が共同体である。Tグループは「共同体」を作り上げ、管理する経験を与える。

 Tグループの方法論は<二者択一的方法論>に対抗しつつ発展する。第一は判断、評価、行動の合法化に徹底した権威的方法を用いる方法である。判断の規範が私的経験と集合的経験のプロセスのなかに見出される可能性を否定する。第二に必要とされている方法論の一部を全体であるかのように取り扱う方法である。例えば観察者的分析者としての姿勢が唯一の正しい姿勢であるとする。

 こうした方法論の衝突は完全になくなることはない。しかし本物の共同体がある程度できあがると、メンバー間に存在する相違や葛藤は、社会的安定と秩序といった非情な能率中心の社会制度に対する脅威や欠点ではなく、潜在的な創造性を有する資源として受容されるようになる。

 

それでは、トレーナーの役割とは

 

 トマス・アクイナスの問いに「人間は、他人によって教えられることができるか」というものがある。条件付きで肯定される。「他人が自分で考え、自分で学ぶようにすることができるときのみ、人は他人を教えることができる」。他人が自分で学ぶのを助ける際の、謙虚に達するべきである。教え得ても、2人の人が同じように学ぶことはない。2つのグループがまったく同じように発展することもできない。

 

 トレーナーの役割は予知できるもので、主要なジレンマとパラドックスへの対処である。ただそれがどんな形で表れるかは予知しえない。グループおよび個人が、彼ら自身の苦悩の道を通って洞察にいたれるように準備が必要となる。成功とともに喜んで試行し、失敗させる必要がある。トレーナーは現実から保護するのではなく、「現実を無視し、拒否し、または簡素化しすぎてはならず、むしろ現実を認め、命名し、分析すべきであること」を支援する。それでも彼の解釈は現実ではない。

 

 トレーナーの確固不抜の精神を支える主要価値は次のようなものだ。まず無知にとどまるより学んだ方がよい。また誤った知覚と無能化された思考過程に安住してそれに縛られたままでいるより、自己・世界の歪曲されない知覚と反省の仕方へ変わった方がよい。この価値を信じる信仰は、自分も他者も、己自身の未検討な知覚に頼るのではなく、皆の真正な共同の努力をとおして、洞察や基本的仮定にいっそう透徹した明確さが与えられるというものである。

 トレーナーが最後に頼みにするものは、自分自身や他人について学ぶための自己修正的方法論として「参加的観察」という方法論を、メンバーたちのために、そのグループの中に制度化することである。

お問い合わせ