『共同と孤立に関する14章』A・V・カーム/B・V・クロウネンバーグ/S・A・ムトウ共著/巽豊彦訳 中央出版社(1979) 要約

『共同と孤立に関する14章』AV・カーム/BV・クロウネンバーグ/SA・ムトウ共著/巽豊彦訳 中央出版社(1979) 要約

 

第一部 共同への道

 

 

 (過去には)共同体の姿、その聖なる歴史が、一つひとつの労働の中に、誰の目にも、子どもたちにも明らかに見て取れる。一つの神秘が共同生活を取り巻き支えていたが、儀式や祝典が行われる時、労働の一つひとつがその神秘に結びつけられたのである。仲間に加わりたいという欲求が培われ、かなえられた。各人の生活は意味に満ちていた。宇宙のなかで、共同体のなかで、いささかのへだたりも感じなかった。

 これからの人間が共同作業に費やす時間はほんのわずかであろう。人格的かかわりは現在すでに維持しがたくなっているが、その傾向は将来いっそう強まるだろう。だが人間は協力しあうことがなければ、みずからの人間性を失うのだ。同情とか心配とかは、そういう感情が生まれがたい情況で抱かれると深みを増し、意味を加える。強制された仲間意識は、人格の発現を圧し殺しかねなかったのである。自由な協力−たとえ親しくかかわっていない場合でもそれぞれの人間性を涵養しうるような−はどのようにあるべきか、その方法をみつけださねばならぬ。親しい仲間を自由に探し求め、そして見出す時、私ははじめて自己を実現できるのである。   

 すべての人と親しく交わろうというのはできない相談である。あらゆる人に敬意をもって接するよう努力すること、それをすすめたい。隣人同士は何が何でも親しくせねばならぬという掟は今や消滅したが、その結果人間の尊厳は大いに高められた。かつては一つの必要として無理強いされた協力が、今は他者とどのように共同するかという一つの技術となった。われわれはたえず微妙な相違に注意せねばならないが、協力はそのような相違を一つも見逃すまいとする態度なのである。

 

第一章 交わり〜交わりはどういう意味で、協力の深い意味をあらわしているのか

 

 私の目が平和な人の目と見合う時、私はその人の心の平安にあずかる。私は相手と自分の存在を生き生きと感じ、もっとも深い意味で交わりあう。生まれるときも死ぬときも、祈るときも、笑うときも嘆き悲しむときも、私は他者と共に行為している。私はただ単に交わりを持つと言うだけではない。私自身が交わりなのだ。私が笑えば、他の人々もあちこちで共に笑っているのであり、私が泣けば、私が生涯訪れることもなさそうな家々で涙が流される。

 人間的体験とは、これまでに生きたすべての人たちの生活に参加することである。私は孤独の敷居を踏み越えて、過去・現在・未来のすべての人達と交わる。人類は自己喪失と自己発見を繰り返しているが、私は他者と交わることによって、寄せは返すその波に自らを浸すのだ。

 他者との交わりが始まるのは、私自身が孤独のうちに自己と一致するときである。探索の末見出されるのは、真・善・美を求める人の姿だけではない。羨望と嫉妬と貪欲にとらわれたものの姿もそこに見出されるのだ。もし私が権力への意志を胸にかくしているなら、あるがままの相手に接することはできないであろう。そのとき私は、相手を無理強いして本来の姿から逸らしてしまう、または私が押し付けた生活様式を守ってくれないと、許すことができない。他者の必要に心を向ける時、私は、何でもしてあげたいと思い、何をどうしてあげたらいいのだろうと心を砕く。しかしその場合の熱意は、私自身の必要・限界・利害を率直に認めることによって、適度におさえねばならぬ。

 交わりは時間と空間を越える。それは存在するすべてのものとの交わりへの招きであり、私の生活に調和をもたらす里帰りなのだ。私自身である交わりは、いっさいの事物を結合する交わりである。人生の出来事の一つ一つは、他のもろもろの出来事が生き生きとした全体を形づくっているそのなかに、織り込まれているのだ。人生の調和は、それを乱す数々の分裂よりも深い。

 黙想のうちに神と対座する時、交わりは聖なるものとなる。自己の奥底までくだった私は、神の光に照らされて、私の存在すべて、私の環境のすべてを明らかに見て取るのである。祈る時、私は感じる−世界の中にありながら、世界のものではない自分を。どのようにしたとて、人間らしさをまぬがれる道はない。どのようにしたとて、人間共通の関心から身を引く手段はない。かえって人間世界の根底に目を凝らす時、そこに人間同士を結びあわせる要因が見出されるのである。

 

第二章 隠退〜交わりのためには、たえず鼻突き合わせていなければならないのか。片時も身を引くことは許されないのか

 

 交わりが実現するためには、まず身を引かねばならぬ。身を引かねばならぬということから、私はみずからに立ち戻り、自らの個人的尊厳を再確認すべきことを知る。交わらねばならぬということから、私は他者を肯定し、他者によって肯定される可能性を知る。時には日程に追われる社会生活から離れてみなければならない。なぜ私は生きているのか、その理由を再発見するためだ。身を引くのは人生からの逃避ではなく人生の深奥をきわめるための旅立ちである。

 身を引くとそれまで見えなかった地平線が見えてくる。種々雑多な体験が、その地平線を背景にして、遠く近く、それぞれの位置を占めるのである。身を引くと愛も新たな意味を加える。もはや当然のこととは思われなくなるのである。何かをやりとげるとか、手に入れるとか、そういうことから身を引いて、私は成功の意味を人格的価値との関連にしぼる。身を引くのは人生の要請から我が身を締め出す手段だと言っていい。癒すべき悪があり、救うべき人があっても私は目をつぶる。

 「本来の自己であれ」という招きの声がたとえ聞こえても、現代という、この独自性をあざ笑い、画一性をほめたたえる時代にあっては、それに耳をふさぎたくなるのが人情である。共通の意識に逃げ込めば、自己への招きの声をかき消すことができる。自己に背を向けることは、場合により何らかの社会運動に身を投じることになる。自己の一切を捨てて没入する瞬間は、自己からの完全な逃避の瞬間である。一歩退いて心の中を探れば、何が自分を行動に駆り立てているのかその正体がわかるだろう。私が一番逃げたがっている相手、それが自分自身にほかならぬことに気づくだろう。

 隠退が外面的に難しくなればなるほど、内面的に隠退する必要がいっそう強まる。私がどうしても孤独でなければならない瞬間がある。つまりもし私の体験が他者とわかちあえば、必要なだけの力が失われてしまうような瞬間が。その場合、心にかけてくれることが、個人的領域の侵害になりかねない。孤独を守る権利がますます尊重されるようになれば、私の方でも他者に対し隠退のときと場所を認めるようになる。

 

第三章 労働〜生活が労働と分離していることが、現代人を悩ませているように見える。どうしたらこの分離を克服しうるのか

 

 笑い、愛し、遊ぶ私、それがそのまま働く私でなければならない。一つの仕事を選ぶというのは教育と同時に、霊感と気質と性向のあらわれなのである。創造の心を持ってあたらなければ、労働は霊感を失う。創造の心を持たぬ労働者にとって、世界はあれこれの仕事を課する、変化の乏しい、死んだような場所としか見えない。創造の心を持つ労働者にとって、彼と取り巻く世界は、誘いの手が次から次と招いてやまぬ場所となる。

 創造の心を持つ教師は、一人ひとりの生徒が持つ独自の可能性に働きかける。その教育においては、言葉・態度・行動を通じて、彼の人格的価値が伝えられるのだ。彼が教えるのは知識の集積ではなく、英知との接触であり、人生の一瞬一瞬が啓き示す意味なのである。

 労働が生活から切り離されると、私の一日は二分される。生活費を稼ぐ時間と、自分なりの生活をする時間とに。生活と行動がばらばらになれば、どちらも萎縮してしまう。行動には無理が加わり、感情は挫折する。

 ものを生み出す行動が人格と無関係になされるとき、相手は私が彼を仕事の手先に利用しているにすぎないこと、気を遣っているように見えるのも、実はただ同意と協力を得るねらいにほかならぬことを感づいてしまう。仕事は能率を旨とした、権力と利益を得る手段と化し、大らかな人間の成長は頓挫する。

 労働は利益と生産を追い求めながら、同時に人格的成長に役立つ。楽しむこともでき、人類への奉仕もでき、崇高な目的に献身することもできるのである。手がけている仕事の意味をいっそう深く自覚したからといって、仕事そのものが変わるわけではない。変わるのは仕事に対する私の態度であり、その結果、仕事が私の生活に近寄るのである。

 仕事にかかりきって、ただの一度も「何のために働いているのか」と自問することがないとしたら、その私は自分の行動について思案することなく、ただただ手段を生み出す達人に成り果ててしまうだろう。目的なしにただ手段を積み重ねるだけというのは、人間性を辱める行為である。

 

第四章 余暇〜生活と労働に対して、余暇はどういう関係にあるのか

 

 生活が仕事に隷属している場合、私は、労働時間を過ぎてもまるで万力に押さえられたように息苦しい。頭の中は仕事仕事でいっぱいだ。労働は余暇によって人間味を取り戻す。余暇は私を、権力・地位・所有などへの関心から解放してくれるからだ。余暇とは世界・自己・他者のいずれに対しても無用の存在として、時間に縛られることなく悠然と構えることだ。

 余暇は時間的なものと、超時間的なものを結びつける。こうして緊張が解かれた状態で、はじめて人生の決断がなされうるのだ。余暇の生活を送ることによって、人間であるとはどういうことか、共同体の部分となるとはどういうことか、その真の姿がわかってくるのである。余暇に浸る時、私は時間の指令を忘れて、永遠なるものに心を開く。

 余暇こそは思索の根底である。日々の義務にあくせく追われることから離れて、人生と世界における楽しく聖なるものへの参加を求められるのだ。遊びと祭りは余暇を楽しむ心の自然な発露である。驚異を知る心が、平凡を非凡に変える。遊びは祈りと同様私を、一秒をうとんじることを許さぬ世界から引き離してくれる。その時生活の中に、自由を与え、自由に受け入れる愛が具現されるのである。

 

第五章 経験〜心の調和を乱すことなしに、経験を広げ・深めるには、どうしたらいいのか

 

 詩の一行を読むことは、真理の琴線に触れることである。その時、私の中で何かが共鳴する。詩の言葉が私の人格に触れる。経験が起こりつつあるのだ。ある夏の日、私は顔に太陽の温かみを感じ、踏みしだく草の香りをかぎ、年ふった木の葉むらの輝きにみとれる。その時私は自然の美を実感する。経験が起こりつつあるのだ。愛する者の死を悼む時、苦悩に身をすくめる時、信頼を裏切られたと感じる時、私は悲劇を味わっている。経験が起こりつつあるのだ。

 読んだこと、感じたこと、苦しんだことが、私のものとなりうる。そうなった時、人生は豊かになる。私の経験がどこまで深まるか、どこまで広がるかは、私が人生にどう対処するかにかかっている。偏向的もしくは表面的な仕方で人生に対するなら、せっかく私の心に刻み込まれるべき真理を、むざむざ逸することになろう。経験を堅苦しい分類の枠にはめ込んだり、そそくさと束の間の注意でまぎらわしたりしてはならない。世の中に無駄な経験はない。故郷としての世界は私のやさしさを補充し、荒野としての世界は私の力を回復する。あいまいさ、逆説、不確実性が、人間の経験に明暗を与える。

 経験は場合により、あわただしく、あれよという間に過ぎ去ってしまう。人も場所も、けじめなく混じりあい、人々の顔はどれも同じ一つの顔となる。それは実はもはや顔とは言えず、顔を失った仮面、中身のないからに過ぎない。無感動を克服するには、共に生活し・共に働いている人々の喜びと悲しみ、自信と挫折に棹さすことだ。現在を生きている人たちの喜怒哀楽に反応することによって、われわれは互いの生活に起こる経験に、共同で、生き生きと参加することになる。 

 経験とは、思い切って変化し、思い切って適応することである。経験を私の生活のなかに、調和を乱すことなく吸収するには、心静かにじっくり味わわねばならない。経験の吸収には終わりがない。一つ一つの経験がさらにきっかけとなって新たな価値の探求に乗り出すことになるからだ。私は実生活の限界を越えて、終わりなき幸福、完璧な美しさ、裏切りのない愛、悩みのない歓喜を経験しようと、たえまなく努力している。私は常に絶対的なものに到達しようと努力しているが、力及ばないのである。

 日常生活において、私はみずからが自由と制約の緊張関係におかれていることを経験する。制限はむしろ「束縛の中の自由」(私の存在そのものがまさにそれなのだが)に創造的に働きかけよとの誘いなのだ。神の手に導かれるまま、最終的解決に向かって数々の冒険を経験していく過程で、平安を見出すこともできる−そう悟るのは心慰むことだ。

 

第六章 評価〜人生は経験のなかに開花する。一つ一つの経験がどうしたら真に私のものになりうるのか〜

 

 経験は評価されることによって、その実態を明らかにし、全体的な人生の意味に組み入れられる。経験を評価することで、私が自分と戦っているのが、実は時の流れに順応するためにほかならないことが、明らかになるかもしれない。うっかりすると私は、流行を追って右往左往し、それが果たして私の人格的成長に役立つのか、あるいはただ気まぐれ的流行の一時的な動きに同調するだけなのか、そのいずれかを問いただすためにしばし立ち止まることさえしないかもしれないのだ。

 目的よりも手段を重んじる時代では、人は何のためかを問うよりも、手段そのものを価値として尊重したがる。手段が偶像視され、技術がそれ自体、目的と化すれば、責任は集団的になる。集団が私の代わりに考えてくれるなら、私はすでにして匿名性に埋没しているのだ。自分がどのように感じているのか、それがもはやわからないというのでは、創造的反応は息の根をとめられてしまっている。私は寄生動物のように、他者の反応で生きているのだ。

 価値はそれぞれ証人を必要としている。騒音に満ちている世界は、孤独にすむ人々を必要としている。われわれは価値の証人たちに触発されることによって、聖なるものに出会い、共同社会の建設、象徴性の理解といった経験に参与できるのである。人生が私にとってもつ意味、それをあらためて主張する勇気がそなわったとき、私ははじめて私自身となり、私の信念に内容を与えることができる。

 自己評価が高きにすぎる場合には、自己を越えた理想を生き抜こうとして、かならず失敗する。他者に対する評価が高すぎると、自分の立場が崩れさる危険がある。あるものがどうしても自分の手にはいらないとわかったとき、それでもそのものの価値を認めるのはむずかしい。しかし、価値あるものはたとえ所有の喜びは伴わなくても、やはり楽しく味わえるのである。 その呼び声に忠実に応じていたら私のものになっていたはずの価値その喪失感は堪え難い。せっかくの招きに従わなかったという罪責感が、私を駆って、恒久的価値を有するものまで否定させてしまう。

 過小評価は経験をゆがめる。判断が怪しくなる。相手の価値にまで達し得ないとき、その人にあうと、反感がむらむらと湧き上がる。過小評価は、価値の秩序をくつがえす。独創的言動に腹を立てると順応第一をとなえ、権威を白眼視する私は、混乱を助長する。価値を否定するのは、人間性を否定することだ。価値の正しい秩序が見抜けるのは、真理と美の福音を迎え入れる人だけである。その福音がどこから来るかは問題ではない。

 

第七章 共同〜共同への道は、いかにして見出しうるか。またどのように進めば良いか

 

 共同とは人類と世界の進展に歩調をあわせることである。共同の意識に裏打ちされた奉仕は、単なる奉仕とは違い、個人と社会の内面に触れる。協力が社会的、芸術的、宗教的のいずれであろうと、その行動一つ一つに、私ひとりにしかない味わいが出る。協力の仕方はいろいろあり、私個人の協力の仕方はそのなかの一つである。どの人も多様でありながら、しかも異口同音に対象を大事に扱うことについて語り、世界に人間味を添えるのである。

 心の準備なしに協力すれば、一つの人格としての私は破滅してしまうかもしれない。協力とそれに先立つ心の準備との関係は、口を開く前に人生に耳を傾け、行動に移る前によく思案し、種子を蒔く前に鍬で耕すのに似ている。孤独のうちに人生に耳を傾けるとき、聞こえてくるのは内容空疎な決まり文句ではない。その時示されるのは何世代にもわたって積み重ねられてきた英知であり、その英知は、私が独力ではとうてい解読しかねる人生の秘密を解き明かしてくれるのである。

 人間性喪失者に力を貸す場合、私は自分の独自性を保持していなければならない。つまり他人のやり方に従うのではなく、私なりのやり方で奉仕するようにせねばならないのである。共同とは自分自身であることであり、共同体の付属品になることではないのだ。

 他者の存在は私に、自己を見出す機会を与えてくれるが、他者を身代わりにして、私の人生を生きてもらうわけにはいかない。この世における私の存在は、私自身の責任である。人間はそれぞれ考え方も異なり、性格に不快をおぼえることもある。にもかかわらず心からの敬意を抱きうるためには、互いに耳を傾けあわねばならない。そのとき正しい共同への道が開かれるのだ。

 共同は他者を媒介とする自己実現の序曲だと言える。文化の展開のために協力している人たちを、私は励ましているだろうか。私は決して彼らの言動の最高審判者ではないことをはっきり自覚しているだろうか。こういう自己究明的な問いに研ぎすました良心をもって答える時、共同の新しい時代が幕を開くのである。

 

第二部 回帰への道

 

 

 共同とはどういうものか−それは今や説明抜きで誰にでもわかるというわけにはいかなくなった。とはいえ、共同の必要がなくなったわけではないのである。都会の雰囲気は匿名的である。人は多数の中の一人として、単なる名前に過ぎない。ふらつく自尊心をしっかり支えている人は少ない。心を伝えようとしても、とりとめもない雑談に終わってしまうことが多いのである。人々は矢のように飛び去る印象と、絶え間なく流れ続ける情報とに幻惑されて、他者の個人的経験に参加するだけの忍耐をもはや失っている。

 共同が行われないと、人は不安と孤愁を味わう。どのようにしたら共同の生活を取り戻せるのか。それはたぶん、自己と他者に対する正しい認識に立ち戻り、自分にも意味深い仕方で他者に奉仕するにはどうしたらいいか、その方法を学び直す時、はじめて可能になるのだろう。共同の領域が再び開かれるのは、センセーショナルな情報の流れから身を引き、ただ一人自己と隣人と環境に思いをひそめるときである。人生は他人任せに生きるべきものではない。自分自身の奥深くから花開くべきなのだ。

 共同の秘訣は、昨日と今日、今日と明日をつないでいる何気ない出来事を、一つ一つしっかり生き抜けるようになることだ。共同とは、われわれのなかに、またわれわれの周囲に現実に存在するものを、見たり聞いたり、それに触れたり、味わったりすることだ。思考、感情、空想といった個人的能力を結集することだ。つまり人格としての自己に面と向かうことである。

 共同とは、ささやかなものに心を寄せることだ−一枚の草の葉、飛び回る虫、ふくらみゆくつぼみ、巣立ったばかりの小鳥など。共同とは、美しい旋律に耳傾けることでもあるが、それと同時に、聞き馴れた音にも注意を向けることだ−吹きすさぶ風の声、軒端うつ雨の響き、道ゆく人の足音、幼子のすすり泣き、工具のうなりなどに。共同とは彩色豊かな絵画に接することでもあるが、それと同時にありふれた物の姿に美を見出すことだ−バラの花の赤さ、思いにふける顔、新緑のみずみずしさ、優雅な裾さばきなどに。

 共同とは互いに耳を傾けあうことだ。友情を持って接する時、自分には役割があるという生き甲斐が感じられてくるのである。言葉で協力する場合、特別な知恵の必要もなく、大量の情報もいらない。当面の問題について語り、人間的な関心を寄せあい、お互いの言葉に敬意を持って耳傾ければそれでいいのだ。共同とは、自己と他者の織りなす世界にかかわることだから、一人楽しむ想像の世界にかくれこんだりはしない。むしろ人々の苦悩と努力に力をあわせるのだ。

 共同が正しくなされているかどうか、その度合いを知るには、共同することによって、職業にいっそう精を出すようになったかどうか、人間関係がいっそう活発になったかどうか、世界の建設にいっそう多くの寄与を行えるようになったかどうか、そういう点を吟味すればよい。

 人を無理強いして共同させることはできない。共同に踏み切るのは、そのような心の傾きを持っている人、自己中心的な感情を乗り越えて、人生が開き示すものに、何にでも手を差し伸べようとする人、そういう人々なのである。

 共同する時、人は外面にとらわれる態度を捨てて、背後にひそむ意味と一体になる。それこそがあくせくする生活から共同の生活への変わり目なのだ。人生の宝は無尽蔵であり、その豊かさは絶え間なく開き示されているのである。

 

第一章 関心〜関心を抱くことによって自己中心的な態度が薄れ、新しい意味の世界が開かれてくるという。それはどのようにしてであろうか

 

 一般の関心に訴える話題は、人間なり問題なりの表面にふれるだけで、それらの背後に迫ることはめったにない。正しい関心を抱く時、人は傍観から共同へと姿勢を変える。

 他者をまるで昆虫をピンで留めて拡大鏡で観察するように見つめるのは、他者を多くの物の中の一つにしてしまうことである。私は脇にたって私の凝視をのがれようともがく相手の姿を観察する。人間は人間に対しかくも非人間的でありうるのである。冷笑的なまなざしが引き起こすこの麻痺状態を和らげるには、ただ、観察する者から共同するものへと立場を変えさえすれば良い。

 他者に関心を抱くということは、相手の必要を叶えてあげるというだけでなく、相手に対する敬意を伝えることである。相手に対し敬意ある関心を抱くようになるのは、私が相手の中に、その人にしかない、従って置き換えることのできない意味を見出しうると信じるときだ。他者に関心を寄せることが、私自身を理解するきっかけになりうる。他者を気にかけないなら、そのことから私の心に自己中心の傾きがあることが明らかになる。見せかけの関心には、裏に嫉妬がかくされていることがある。

 私をして私自身たらしめている人、その人こそが私に関心を寄せているのだ。世話焼き過ぎる関心は、相手のことを気にかけているというよりは、むしろ相手を手中におさめようとしている。相手の人間的充足よりも、むしろこちらの好奇心の満足を第一にしたがるのだ。沈黙の関心の方が、同情の言葉にまさることがある。言葉にあらわされる関心は、うっかりすると、相手をあやつる手段に堕しかねない。

 関心は意志によって抱くものではなく、内心のおのずからな肯定である。外から押し付けうるものではなく、内部から無償の賜物としてたちあらわれる。関心に打算が加わるとき、共同性は色あせる。他者に対する心遣いに発するのでない関心が行動に示される場合、それは当然のことながら、うさんくさく思われる。

 科学なり歴史なり芸術なりに、その人が関心を寄せていることを知ると、私は新たな洞察と美の世界に導かれるのだ。その人の関心をともにすることによって、その人の世界をともにするのである。好奇心を刺激し、注意を集めるのは、人の独自性であり、明暗の二面であり、不安と勇気なのである。

 

第二章 離脱〜共同と人格的成長との関連で、離脱はどういう役割を果たすのか

 

 人間は交わりと孤独、協力と立ち戻り、関心と離脱を交互に繰り返している。私の人間性のどの側面があらわれるかは、時と場合によるのだ。

 関心と同様、離脱も人間性の開花に役立つ。私は離脱によって、私が自分以外のものに参加するだけの存在ではなく、独自で孤独な存在でもありうることを確認するのである。もしせっかく孤独に生きながら、それが人生の理に反していると考えるなら、目の前のことの呪縛から解き放ってくれる神秘に会いそこねることになる。

 ある特定の人もしくは事態にあまりにも浸りすぎて、自己喪失の気配を感じた時には、離脱が必要となる。ただ一人で全責任を負わねばならぬと悟る時、人は不安に駆られる。自分自身と顔を突き合わすのを恐れるとき、たとえ必要な場合にも離脱を拒む。

 孤独の神秘は、一体化の神秘と同様、はかりがたい。私の存在の静止点で私は孤独にとどまる。そこで私は自分の責任を見出す。共同する人間と孤立する人間−その双方を認めるとき、私は離脱にとどまることによって愛着を深めることができる。他者を見下して孤高を持するのは離脱ではない。誤解や非難や悪口を避けるために孤高を保つのでは、真の離脱におけるように、自己の確認に資するところがない。

 離脱することによって、私ははじめて、どこで賛成し、どこで反対なのかがわかってくる。他者の賞賛もしくは非難に左右されていて、まだ真の自己を見出していなかったことを悟るのである。私は孤高に陥ることなしに、無理のない柔軟な形で、自己と他者とさまざまな問題、その三者からの離脱を維持しなければならない。

 私はいつまで経っても不完全な人間にとどまるであろうが、離脱を生きるとき、その至らない自己をそのまま容認することができる。いっそうの成熟に向かって脱皮するためには、いっそうの深い愛着と交わりの前提として、離脱と分離の段階が必要なのである。

 結婚生活とは、新婚の夢見心地からおだやかな離脱に移り、愛着を増して永続的な基礎を築くべきものである。立ちはなれることによって、配偶者の本質をなす神秘的な核心にいっそう近づくことができるのだ。近づきと遠のきをくりかえすことによって、私は相手を捉えてその個人性を奪い去ろうとする傾きを抑えることができる。

 私が相手に近づくのには、愛と尊敬に基づく場合もあるが、嫉妬と暴力による場合もあるのである。それゆえにこそ、近づく瞬間にはいつも、遠のいて動機を調べ直す瞬間がともなっていなければならないのだ。近づこうとするのは、ただ好奇心を満足させるためだけなのだろうか。それとも、人間の尊厳を重んじる気持ちがそこに加わっているのだろうか。近づく場合には、いつでも遠のけるようにしておかねばならない。そのことによって、相手の独自性をそのままに尊敬することができるからだ。

 離脱することによって、われわれが多くの領域で互いに異なっていることが自覚される。お互いを完全に理解しうると思うのは楽しい欺瞞であって、おかげでわれわれは、お互いの相違に直面するという苦痛をまぬがれているのだ。離脱の立場に立つことによって、人間関係が疎遠と親密で織りなされていることがわかってくる。孤独の貴重な瞬間を経験することにより、共同の瞬間にあらたな、予期しなかった深さが与えられるのだ。

 離脱によって、自由な決断がなされうるようになる。一生の行路について決断する場合、私は、今しようとしている選択が他者によって強制されたものかどうか、あるいは自分で自由に考えだしたものかどうかを考え直さねばならないが、そのためには時間と距離が要るのである。

 それまでの自己から離れると、まるで私の一部分が死んだような感じがする。離脱は一種の死なのだ。そしてそれは、再生の苦しみと喜びを味わう前提として、多くの場合、欠くことができないのだ。現在の私は、過去の私と分かちがたい存在ではあるが、しかし同一ではない。離脱において何かが死にゆくが、いっそう良質なものが生まれて、それにとって代わるのである。

 

第三章 与える〜他者に有形の贈り物だけでなく、自己という無形のものまで進んで与えようとする人がいる。私は一体どうしたらほんとうに与えることのできる人間になれるのだろうか

 

 与えるという行為は、私利私欲に曇らされることなしに他者に手をさしのべることだ。人に何かを与えるとき、人と共なる世界が新たに開かれる。その後では、もはや以前のわれわれではない。贈り物について記憶されているのは、使えば消える一時的な価値ではなく、それによって私の愛と感謝が伝えられたということなのだ。与えることは私の成長過程に躍動的な役割を果たす。

 しかしそれと同時に私は、悪魔的なものがわたしの中に独特な仕方で立ち現れるのを感じるかもしれない。受け取る側の欲張りのため、贈り物が予想以下だと知って失望することがある。与えることが感謝のあらわれにならず、相手に同じようなお返しを迫るようになることがある。

 相手が恩義のあることを認めない場合、相手は罪の意識を抱き、私がまた何かいいことをしてあげると、いっそう傷つきやすくなる。他者の困窮を救おうとして何かを与える場合には、反感を招くことを覚悟すべきだ。相手は寛大さが彼の自由を奪うのではないかと恐れるからだ。両者の間の摩擦を避けるには、無心の心を強めるほかない。

 与えることは受け手の出方と何のかかわりもない。母の愛は愛のお返しが保証されているからではない。他者が本来の自己であろうとし、また本来の自己になろうとするのを、私がそのまま認める場合、私は彼に自由を与えている。この自由の贈り物は、私が彼の思想なり感情なりに同調するか否かを問わない。私は与えると同時に裁くようなことはしない。ただ与えるだけなのだ。

 私の贈り物は、沈黙のベールに蔽われていることがある。その沈黙のうちに私はあなたの真意を聞き取ろうと、耳をそばだてているのだ。個人的な世界を開き示すのは、自己の秘密を部分的に譲り渡すことだ。自分の弱点を打ち明けてもばかなことをしたと思わずにすむような友人はめったにいない。私は彼にもっとも大切にしているなけなしの自己まで与える。そういう与え方をすることによって、私は自分の本当の姿を悟るようになる。

 与えることは精神の行為なのだ。他者の独自性に対する私の敬意、他者が独自の成長をとげることへの私の願い、それを喜びをこめて具体化したものなのである。与える行為は全身に体現される。寛大さの気持ち、感謝の気持ちは、やさしく手を触れることによって、まろやかな声の響きによって、身体をしとやかにかがめることによって、伝えられる。私の贈り物は、あなたの役に立ちたい、あなたのことをいつも心にかけているという二つの気持ちの、淀みない調和を示しているのだ。

 私が他者に与えることのできる贈り物の一つに、相手の限界を認めるということがある。私は相手が欠点があっても愛すべき人物であると思っていることを知らせることにより、彼の愛の求めにこたえるのである。愛は、われわれのあいだの垣根を低くし、互いの善意に信頼させるようにする贈り物である。愛を与えることで自由が与えられる。愛はいう−あなたの長所と短所をさらけだしなさい。私はありのままのあなたを尊敬しているのですと。

 私をして私自身たらしめてくれる人々、そういう人々が与えられているというぐらいすてきな贈り物は他にありえない。人々が私をそのように愛に満ちて受けいれてくれること、そのおかげで私が経験しうる成長ほどみごとな成長はありえない。

 

第四章 受ける〜気持ちよく受け取るのは、鷹揚に与えるのと同様に、洗練された技術である。私はどのようにしたら気持ちよい受け取り方ができるだろうか。どのようにしてこの技術を磨くことができるのだろうか

 

 人生は受け取ることの連続である。栄養も愛も知識も、私にはまだ何一つ与えることができないうちに、私に与えられる。どのような賜物も、ただ一人の人からのものではない。物惜しみせぬ手が私に与えるのは、その人が家族・文化・社会から受けたものなのである。われわれは、ひとり残らず与え手であると同時に受け手なのだ。人類はおびただしい賜物をたくわえてきたが、私は時としてその配り手、時としてその受け手とされる。

 受けるというのは、何もただ、提供されたものをわが物にするというだけではない。それはまた、その贈り物が象徴しているものなり、与え手の身振りが伝えているものを、はっきり認めることなのである。たとえ物質的な困窮を救うための贈り物であっても、受け取る態度がふさわしければ、敬意と共感を誘うものだ。心ない受け取り方というものもある。贈り物をされるのがこわいことがある。子どもの頃贈り物がしばしばヒモ付きなのを知ったからだ。そのため与え手の企みにのりはしないかと恐れるようになってしまった。

 受けとるとは、贈り物の背後にあるものに反応することだ。気持ちよい受けとり方をするには、贈り物の質よりも贈り手の善意に目をむけねばならない。また何かを贈ると感謝してくれて贈り甲斐があったと思われる人、そういう人がいて欲しいと相手が願っていると知ったとき、気持ちよい受けとり方ができる。喜んで受けとるふりをすることがある。しかし、相手がそのごまかしに気づけば、たとえ贈り物をしてくれても、その品物から喜びは消え失せている。

 他者を気持ちよく受けいれるということは、まさに彼そのものである人格として喜び迎えることを意味する。人は与え方についてと同様、受け方についても学ばねばならない。花嫁は友人や家族からの贈り物の中に、彼女の幸福に愛情こめて参加しようとする熱意を感じとるのである。彼女の受けとり方は素晴らしい。山のような贈り物にとまどうこともなく、贈り主たちに義理を感じすぎることもないのだ。贈り物は場合によっては私を支配する、もしくは誘惑する手段ともなる。私の自由を束縛しそうな贈り物に対しては、丁重に拒絶することもできるのだ。当然の賞賛であったら必要以上の感謝を表したりせず、気持ちよく受けいれてよい。あっさりした謝辞ですべては尽くされる。

 たがいに心を開いて、大らかに与え・大らかに受けとるとき、われわれは与えること・受けとることのいっそう深い意味を悟る。愛は最良の生活のみか最悪の生活をさえ照らし出し、愛の与える無数の恵みをわれわれが受けとり・与えることのみを求めるが、われわれはそういう愛に共同で棹さすのである。

 

第五章 創造〜私はどのようにしたら創造性を発揮して、自分なりの意味ある世界を創りだすことができるのだろうか

 

 人生と価値を創造的に生み出していくということでは、人間たるものすべてがその要請にこたえねばならないのである。人間には人生に意味と形を与える能力がそなわっているが、われわれの創造性はその能力から湧き出てくるのである。

 創造的になる場合、私はしばらく自分の世界を打ち眺め、私の世界が意味ある体験を含むには、どういう形をとればよいか、それを探し求める。今まで調和がとれていると思っていた自分の世界を、新たな視野が開けることによって、自分の手で破壊してしまうこともある。創造的なまなざしで見るとき、この上なくささやかなものまでが姿を変えて独創的な意味を表す。

 世界を創造的に体験するためには、時折引き退いて、自己と向き合わねばならない。そして、真理が沈黙のうちに私の独自性に語りかける声を聞き取るべきなのだ。創造的な生活ができなくなった人は、しばしば創造性を白眼視する。創造性が画一性をおびやかすかのように感じるのである。課題は創造性と共同体をどう調和させたらいいかということだ。創造的な対話によって孤立した独善的確信の狭さから逃れることができる。一見困った事態と思われるものをなんとかうまく切り抜けようとする所に、創造性のきざしがある。

 創造的に生きるとは、ただがむしゃらに他人と違った生活をしようとすることではなく、心静かに自己を受けいれ、私の本質を絶対裏切らないように心を定めることなのである。創造的な人間は、表面的なものに引きずられない。自分の置かれている立場を静かに確かめ、右にならえさせる力と、あるがままにさせる力とを、区別する。

 私は、自分の世界を自分なりに創りだしたものとして、人のそねみを受け、いらだちの対象にされるかもしれない。人格についてあなどられ、地位を下げられるかもしれない。もし仕返しに相手をあなどるようなことをすれば、私は自分自身を裏切ることになるだろう。それほどの犠牲をはらうつもりはない。

 各人各様の創造性は、それぞれの賜物であるが、つねにありがたがられるとは限らず、またそれを身につけて生きるのは容易なことではない。私はこの賜物を軽んじて人格をしなびさせることもできるし、またこの賜物を嘲笑や拒絶にかまわず、大事に育てることもできる。

 自己を見出したからと言って、文化や伝統から切り離されるわけではない。私は自己の世界を、過去と現在と交わりながら創造することができるのであって、そうすることにより、永続性を認めて保持すべきものと、私と私の時代にいっそう合致するよう変化させるべきものとを区別できるようになる。

 

第六章 同化〜他者と共同する自己にとって、同化はどのような意味、どのような価値を有しているのか

 

 もし生活が同化されないままの断片的な経験の寄せ集めにとどまっているとしたら、私が求めている完全な人格にはなかなか到達できそうにない。なじみのない思想とか感情とかは、私の個人的生活の価値と意味を高めるために同化されるべき貴重な素材なのだ。何かを同化させないまま手許にとどめておけば、私の生活に害を及ぼしかねない。よそものの知識、いら立たせる意見、胸につかえる感情などが、分裂や混乱のタネになりうるのである。

 同化するとは、異質のものを、それまで生きてきたものと、なんらかの方法で同質化してしまうことだ。忍耐つよく同化をはかる努力は生涯続く。人生に対する今までの見方、また現在の見方がおのずから変化するのである。変化を恐れて同化に抵抗したくなることがある。たしかに、同化を目指す生活は往々にして心身を疲れさせるが、しかしそのため生活はかならず豊かになるのである。同化を受けいれる社会は苦難やあつれきによく耐え、生き残るのだ。

 同化にあたっては、自分なりのペースを見出すことが肝要だ。未知の大海に乗り出すのに、あまりに急ぎすぎたり、あまりに遠くまで踏み込みすぎれば、永久に行方不明になってしまうだろう。出発した港を見失う、つまり、本来の私自身を忘れてしまいかねないのだ。

 変化の時機にあたって、あまりに多くのものを、あまりに手早く、危険にさらしてしまう人が少なくない。過去の体験という羅針盤を、向こう見ずに海中に投げ捨ててしまうのだ。これでは人生の意味についてせっかく発見した新天地も、自分の故国、母港、わが家との関連で位置づけることができなくなってしまう。

 私はさまざまな意見や価値を、おもむろに私の過去にあわせていく。まだ都合良く同化できない意見や価値は、それまでしばらくのあいだお預けにしておくのである。傲慢は同化をはばむ。他の人たちの生活または言葉の中に何らかの価値が示されても、私は傲慢のためにそれに気づかない。流行のとりこになった人々は、移り行く気まぐれの一つごとに右にならえする。流行を前にすると、私は自分の独自性を否み、私本来の人格をかくす。

 私にはまだ受けいれる用意のない生活様式であるのに、それをあまりにも熱心に追い求めすぎると、私は混乱に陥ってしまう。心を乱さない秘訣は、自分のペースを守ることなのだ。大海に乗り出して身につけたものを、私個人にとって有意義なものにするには、本来の自己に立ち戻ることが必要なのである。

 

第七章 回帰〜共同と回帰のリズムは、どのようにして、私の人格的成長に役立つのだろうか

 

 他者との共同によってみずからを知るに至った自己を、私は回帰によって取り戻す。この回帰の努力は、孤立した自己によってなされるのではない。私が取り戻すのは、つねに人間・世界・神につながりのある自己なのだ。

 他者に向かって身を乗り出したら、その出会いの成果を自分のものとするため、私自身に立ち戻らねばならないのである。独居するとき、私は自分の冷淡さと同情心、欲張りと寛大さ、腹立ちとやさしさなどを想起する。私はありのままの自分を、また将来なりうるであろう自分の姿を悟り始める。

 じっと立ち止まっているときが、深いかかわりを持つための前提となりうる。私が自己を最大限取り戻したとき、私の人生のあり方がもっともはっきり自覚される。回帰を伴わない行動は単なる消耗に過ぎず、けっきょく幻滅に至る。それでは内的な力が、群衆の支配に引きずられてしまうかもしれない。生活は、もし自己と神を意識することで刷新されなかったら、ずるずる潰えさってしまうだろう。

 独居するとき私は、個人の、また共通の問題の一つ一つに対して、回答や解決を求めることをやめる。解明しようのない問題に対して、もはや即時の解明を求めたりしないのだ。回帰における私の究極の関心が、私の生きている世界の姿を変える。私自身の存在に深く根差すことによって、共同体のなかの私の生活はきわめて豊かになる。

 孤立した個人としてはたとえ不安と孤独の思いを味わうにしても、虚心の態度が私を他の人々に結びつけるのだ。荒野にいて、孤独の生活のみが露にしうる運命と尊厳を探り求めた人々、私はその数多の人々の群れに加わる。回帰したおかげで、私は口を開くのが賢明さを欠く時に沈黙する術を覚え、暗闇にすむ時に光を与えられる。

 回帰に心を沈めたからと言って、世界から手を引くことにはならない。私は自己に集中しながらも、他者の自己満足の仮面の裏にひそむ、救いを求める声を聞きつける。もし私が来る日も来る日も悩める人々に尽くすように求められているとしたら、同情心が干涸びてくるだろう。それを私は回帰に置いて旧に復するのである。結婚生活における愛は、回帰において補充されて、日常の義務の中に満ちあふれる。

 回帰するとき私は、自己と他者と世界のもっとも深い意味に参加するようになる。全体と神に支えられて、私は、全存在の一部になったと感じる。そういう参加は、攻撃的な征服というよりは謙遜な受容であり、語ることよりは黙することである。このような深遠な回帰、充実した自覚は、強制されうるものではない。この世界に新たな仕方で存在せよという誘いとして、恵まれるものなのである。

 回帰に育まれてこの世の真・善・美に接するとき、私はいつも敬意に満たされる。神に参与することによって、この上なくあさましい情況にも直面できるだけの勇気を与えられるのである。挫折や敗北は克服しようとつとめながらも、やむをえない場合には、それらにも甘んじられるようになる。

 私は、わたしの個人的な歴史を経験するだけでなく、私の属する文化、私が出会う人々、私が生活している環境などの歴史をも、われわれすべてが参加している広大な地平線を背景にして、経験する。回帰によって自己を取り戻した私は、文化と文明の真の価値、その目的と起源を、赤裸裸に知ることができる。

 目前にあって立ち向かうべき世界からしばし離れて、世界を神秘として眺める術を与えられた私は、他の人々に対し、共同と回帰のリズム−私の生活に意味を与え、私と出会う人々の生活にも意味を生み出すかもしれないそのリズムを、示すことができるのである。

 

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