合理的配慮と体験からの学び

●最近合理的配慮という言葉をよく聞く。ホームページなどを見ると、合理的配慮とは「障害者が社会の中で出会う、困りごと・障壁を取り除くための調整や変更のこと」らしい。2006年に国連で採択された、障害者権利条約で盛り込まれたこの考えは、障害者差別解消法においても取り入れられるようになり、広まったとされている。

 

●私が支援している高校も丁寧に生徒や保護者から聞き取りをして合理的配慮を行なっている。こうした取り組みは本当に大切だと思う。例えば書くことに困難がある学習障害を持つディクレシアの生徒は、タブレットなどを使って授業を受けることができると大変助けになる。この制度の趣旨に書かれている通り共生社会に向けて必要不可欠な考えと言えるだろう。

 

●だから今、合理的配慮を求められる学校や組織は、メンバーにそれを学ばせる必要がある。私も学校が用意してくれた研修を視聴したが、配慮の必要な特性・課題は多岐にわたり、知らなければならないことがたくさんあった。講師を務める専門家は受講者である教師・スタッフに強い口調で「やってはいけない関わり」「こうしないといけないこと」などを教えていた。

 

●それを聞いて私には一つ懸念が生まれてきた。こうした学びはもちろん重要だが、これを聞いた先生やスタッフはこの知識をどう捉えるだろうか。真面目な人ほど、障害を持つ生徒への対応を間違えて傷つけてしまうことを恐れるように思う。だからその生徒の課題・特性と必要な配慮をまず理解し、過つことなく対応したいと願うのではないだろうか。

 

●つまり専門家から学んだ知識を「正解」と受け止め、配慮すべき事項は守らなければならない規則か法律のように捉えるということだ。例えば起立性障害と診断された生徒がいて、朝起きにくいことに配慮すると合理的配慮で決まったら、朝から楽しい行事がある場合でもその子を誘うことはない。こうして不用意に誘うことで相手を傷つけることがなくなる。

 

●そして真摯に取り組む組織ほど、こうした配慮がきちんとできているかどうかのチェックも行われるだろう。例えばディクレシアの生徒に「ほんの少しだから手書きしといたら」と声をかける先生がいたら、それは「誤った対応」として組織的課題とし、改善しようとする。こうして合理的配慮のレベルは上がり、先生も生徒も守られる。

 

●しかし私にはこうした知識を正解として受け止め対応していくことに、大きな落とし穴があるように感じる。それは生徒からも先生からも体験から学び自分らしく成長する機会を奪う可能性がある。例えば先ほどの例で起立性障害と診断された生徒をふっと誘いたくなったとしよう。そしてその生徒はその行事に興味が湧き、どうしても行ってみたいと想うかもしれない。

 

●その「今ここ」の想いが沸く時、例えばどのようにしたら朝起きていけるだろうかと自分の生活や心に向かい合う瞬間が生まれてくる。結果はどうあれそこに自分らしい成長の機会が立ち現れてくる。今ここでこの生徒をふっと誘ってみたいという想いが、正解とされる知識によって抑圧され、自己規制がかかる時、成長の機会は奪われてしまう。

 

●一見、先生も生徒も守り、大切にするように見える知識・配慮のルールだが、それが「正解」と捉えられる時、こうした知識は人間同士の関わりを阻害し、結果として体験からの学びを妨げる壁になるように思える。その時、私たちはその生徒そのものではなく、その子が今持っている特性や障害だけを見て関わってしまっている。

 

●しかし専門家の知識が必要ないということではない。私たちが一人の人間としてこうした生徒と関わる時、いろんなことが起きて、どうしたらいいだろうと迷い、悩むことがあるだろう。そうした時、起きた出来事をふりかえり、自分の関わりを吟味し、次回はこう関わってみようと見通しを立てる必要が出てくる。この時に専門家の知識はとても役立つ。

 

●初めから専門知識を金科玉条のようにして壁を作って関わっていると、その生徒に本当に寄り添った配慮は難しいと想う。そこには関係が生じない。まず私たちが一人の人間として関わり、そこで起こることを丁寧に見つめながら、その人を大切にするために必要な配慮を体験から見出していく。この種の知識とはそのための参考として使うものだと思う。

 

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