岩堀喜之助さんと父

●数十年使われていない母の家の3Fを息子が使うというので、山積みになっていた昔の本を整理する必要に迫られた。父は台湾出身なので、書籍の中には中国語で書かれたものも多い。なので他の家族は誰も興味を持たない。しかし全部捨てるには忍びないので仕方なく一旦私の部屋に運び込み、時間をかけて吟味して捨てるもの、おいておくものを選別することにした。

 

●そして先日、それらの本の中にマガジンハウスの創業者、岩堀喜之助を偲ぶ文集を見つけた。岩堀さんは敗戦後、凡人社を創業し、「平凡」という戦後の日本を代表する雑誌を生み出した。同社はその後マガジンハウスと社名を変え、今でも多くの雑誌を発行している。父は岩堀さんとは戦時中に知り合い、戦後も「兄貴」と慕って親しく付き合いをしていた。

 

●その関係で父もその文集に寄稿していたのだが、その本には中曽根康弘や東急の五島昇など政財界の有名な方々が多く稿を寄せ、岩堀さんの支援と助言に感謝する言葉が多く載っていた。自分の事業を成功させただけでなく、日本を支える仕事をしている多くの人を助けたのだ。鬼才として評され、辣腕を振るったことがわかる。

 

●しかし私には優しいおじさんだった。まだ幼かった頃、父に連れられて東京に行き岩堀さんを訪ねると、秘書の方がおもちゃ屋さんに連れて行ってくれて好きなものを買ってもらえる。こうした記憶もすっかり忘れていたが、この一冊の本をきっかけに、父が亡くなって以降埋もれていた経験が掘り起こされ、さらに新たにされていく感じを受けている。

 

●父と岩堀さんは中国山東省の済南で出会った。父は日本の領土の一部であった台湾で生まれ育ったが、所を得ず出奔して大陸に渡った。そして当時済南にあった山東新民報の浦上社長に見出され、記者として八面六臂の活躍をする(本人曰く)。岩堀さんの娘さんは、作家の新井恵美子さんだが、彼女の本によると岩堀さんは昭和14年、29歳で済南に赴任する。

 

●岩堀さんは苦学して大学を卒業し、やはり新聞記者をしていたが、会社が買収され失業してしまう。そんな折、北支派遣軍の宣撫班として採用され中国に渡ったのだ。当時山東省は、実質的に日本軍の占領統治下にあり、山東新民報という新聞社自体が、軍と付かず離れずの民間の立場から、住民の人心を安定させる役割を持っていた。

 

●父と岩堀さんは一緒に仕事をする機会が多かった。父がこの本に寄稿した中に、宣撫活動として一緒にバルーンを飛ばす中で、それが爆発し岩堀さんが九死に一生を得る場面が描かれている。新井さんの本によると、岩堀さんは当時の国策の中ではあっても、庶民レベルでの友好が結ばれる事を夢に見、どちらの国が偉いなどということはないと言っておられたらしい。

 

●そんな岩堀さんには自慢のエピソードがある。「ある時スパイ容疑の若い中国人女性が逮捕されてきた。なかなか自白をしない彼女に業を煮やした上部は彼女に拷問を加えようとした。その時、父はその女性を任せてほしいと頼んだ。彼女を隔離した上で、鏡と化粧品を差し入れた。女性らしさを取り戻した彼女は簡単に自白を始めた。」

 

●女性が女性らしさを取り戻して、人間と人間の話し合いができれば簡単なことだと岩堀さんは言ったらしい。私も若い頃、父から断片的にこの時代のエピソードを聞いていたが、その当時はどうしても「中国への侵略を手助けした」という文脈から離れて聞くことができなかった。しかし今こうした話に触れると、私の中で別のものが生まれてくるようだ。

 

●父が私に自慢してよく語った話の中には済南時代のものあるし、敗戦後のエピソードもある。父は戦後、紆余曲折があって大阪の台湾系の華僑の人たちをお手伝いをする仕事に就いた。敗戦後台湾は中国になり、華僑の多くも戦勝国中国の国民となった。そのため経済統制のもとで、米の入ったチャーハンを販売するなど当時の日本の法律を守らない人も多かった。

 

●こうした中で経済警察も巻き込み、華僑の人々と日本人が争って東京では流血事件が起こった。これが渋谷事件である。( https://ja.wikipedia.org/wiki/渋谷事件 )大阪でも同様の対立が起きた。しかし父は商売する際に、「チャーハンと書かない」(実際にはコメは入っているのだが)ことを華僑の人々に約束させ、経済警察の顔を立て、対立を収めてしまった。

 

●今から思えば、父が自慢するエピソードは、済南時代のものでも、日本人と中国人の間の対立・葛藤を父が収めるというものが多かった。父は時代の大きなうねりの中に巻き込まれつつ、どの時代においても、中国人や日本人というレッテルではなく、どちらの国民が偉いということでもなく、一人の人として、どちらも大切にしようと生き抜いた。

 

●岩堀さんもまた、戦後事業に成功し偉くなっても、全く人との関わり方は変わらなかったらしい。ただ一人の人としてどんな人とも接する人だったと書かれている。父はこうした岩堀さんを尊敬し、兄事し、影響を受けたに違いない。実際、本に出て来る岩堀さんの考え方や価値観で、これは父も大切にしていたなと思ったものが多くあった。

 

●岩堀さんが今の我が家に残してくれたものがある。岩堀さんは麻雀が好きで、よく徹夜でしていたらしい。父もその影響だろう、生涯にわたって麻雀をし続け、子供の頃に私にも教え込んだ。今でも週末には家族4人でよく遊んでいる。昔の本の整理から、父から聞いたエピソードを思い出し、それを新たなものとして経験できたことが私にはとても豊かに思えている。

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