受託者責任

●今「受託者責任」という言葉が気になっている。これは金融の世界で資産運用や投資について使われている言葉で、例えばお金を託された銀行(受託者)は委託者の利益を第一に考える責任を負うという意味である。ただ私がこの言葉と初めて出会ったのは若い頃の愛読書だった「ガンジー自伝」である。この言葉が彼の行動を律するキーワードとして使われていたのだ。

 

●そして還暦を過ぎ残りの人生について思い巡らせるなかで、再び私の中でこの言葉が大きくなっている。というのも最近私には本当にいろいろなもの(健康、家族、お金やもの、友人・知人、能力・資質、経験、時間・・・)が与えられているが、それらは私の持ち物というよりは「預かりもの」つまり「受託」しているものではないかと思うようになったからである。

 

●例えばこの身体は決して私の持ち物ではない。私はこの身体のことを全部理解しているわけでもないし、身体も私にすべて従うわけでもない。私はこの身体を預かり、それをできるだけ健康に保つこと、また身体に生まれてくる感じを丁寧に受け取って言葉にし体験から学ぶこと、つまり自分らしく生き、いのちがよりよく現れ出るように管理することができるだけだ。

 

●ところでこうして与えられたものを「預かりもの」と思うか「私のもの」と思うかで、何が違ってくるだろうか。自分のものは無駄にしても誰からも咎められない。どう扱おうがその人の勝手である。しかし預かりものはそうではない。それを善良に管理し、預けた主体の利益のために責任を負わねばならない。預かりものは私が自由にすることができない。

 

●一見「私のもの」と考えた方が、選択肢が多く自由なように見える。しかし例えば与えられた身体を勝手に扱うと、すぐに健康を害し、自分らしく生きることは難しくなる。真に自分のためになる選択肢は決して多くない。それはお金やもの、能力・資質、人間関係でも同じではないだろうか。自分勝手に扱うと、自分も他者も大切にできない結果を生んでしまう。

 

●一方、その与えられたものを、私と他者のいのちがよりよく現れるために、私が預かったものと捉えたらどうだろうか。ここでは自由は制約される。とりうる道は限られてくる。しかしそれゆえにより私らしく、よりシンプルに自分と他者を大切に生きることが可能になるように思える。それが老いつつある今の私を惹きつけているようだ。

 

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