備えることの意味

●今改めて「備える」ことの重要性を感じている。東日本大震災の際、津波が東北地方沿岸部に甚大な被害を及ぼした。しかし岩手県釜石市内の児童・生徒の多くが無事であった。この事実は『釜石の奇跡』と呼ばれているが、実際にはこれは奇跡ではなく、その地域で地震と津波にどう対処するかについての防災教育が「備え」られていたことの結果と言われている。

 

●コロナで亡くなった人数を人口比で見ると、近畿では和歌山県が圧倒的に少ない。調べてみると和歌山では業務の逼迫が言われている保健師の数が、全国平均の1.5倍もいる。その昔全国的に保健所の統廃合が行われたが、和歌山では東南海地震という災害に「備える」ためにそれをしなかったようだ。結果的に今患者に対して手厚い対応が可能になっている。

 

●災害の歴史でも備えの重要性を示す事例は枚挙にいとまがない。例えば大型台風が上陸したのにある地域だけが被害が少ない時がある。そしてその地域では昔の人によって防潮堤が「備え」られていて、被害を食い止め人命を救った。そこには本当に来るかどうかは定かではない災害のために、でもそれが命を救うことになることを信じて「備え」をしていた人がいた。

 

●ところでこうした「備え」が必要なのは自然災害に対してだけではないように思う。例えば母が認知症になってから、その関係の本をかなり読んだのだが、誰かが認知症になると隠れていた家族関係の問題が露わになるケースが多いらしい。逆に家族がきちんと向かい合ってあらかじめ問題を解決していると、誰かが認知症になっても家族は平和でいられるようだ。

 

●またウクライナで戦争が始まってから、在日ロシア人に対する誹謗中傷が起きているらしい。政府と個々の人を「ロシア人」と一括りにして非難するのはいかにも乱暴である。そう思うと、ラボラトリーのような場で人と深く関わる体験をすることはこうしたリスクへの「備え」になる。人と深く関わると、ロシア人という属性とは関わりなく、あくまでその人はその人であると捉えることが可能になるからである。

 

●ところでコロナやウクライナでの戦争もそうだが、気候変動、地震や風水害、噴火、さらにはテクノロジーのリスクなど、今私たちを取り巻くリスクはとても大きくなっているように見える。こうしたリスクや災害にどのようにして「備え」ればいいのか。残念ながら、最近起きていることをみても、政府や行政だけで備えることは無理と感じる。住民が主体にならないと「備え」はできない。

 

●特に皆があまり想定していない「起こらないかもしれない災害やリスク」に備えることは難しい。平時にはその備えは無駄に見えるからである。これは「これだけ業績をあげました」と評価が必要な人には無理な仕事だ。目の前を見る限り、保健所の「無駄な」人員を減らすことの方が、必要に見える。また社会を回すことが求められる多くの人には、それを慮るだけの時間がない。

 

●逆にこれは社会を回す必要性から逃れ、無駄を恐れないくてもいい高齢者の役割かもしれない。誰かに評価されてお金を稼ぐ必要がない高齢者だからこそ、無駄になる可能性の高い「備え」のために時間や持てる資源を配分できる。またリスクが顕在化してから何かをするには、高齢者では体力もスキルも瞬発力も不足する。しかしリスクを事前に防ぎ、「備える」ことは十分可能だ。

 

●リスクは無数にあるので、自分のこれまでの人生で培ってきたスキルや知識を使ってできるフィールドも見つけ効果的に「備え」をすることもできる。こうして備えておけば万が一、リスクが顕在化した時、未来の子どもたちのいのちを救うことができる可能性もある。これは老年期において自己有用性を保ついい方法かもしれない。私もこうした人の一人を目指そうかなと考えている。

 

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