「発達の論理」を超えた体験からの学び

●私はラボラトリートレーニングという体験学習のための研修会に長く関わり、そのベースとなる思想や考え方を自分なりに学んできた。そして私がとても興味を持って学んできたのが、京都大学教育学研究科臨床教育学講座の先生方の著作である。西平直さんの影響でエリクソンを読み込んだし、齋藤直子さんの「内なる光と教育」は、体験からの学びを理解する上で重要な示唆を与えてくれた。

 

●今回取り上げたい「子どもが世界を深める時」『意味が躍動する生とは何か』を書いた矢野智司さんも臨床教育学講座の先生の一人である。ラボラトリートレーニングで学んだ人の多くは、とても大切なものがあると感じるがそれを言語化できないという体験を持つ。そしてこの本は、その大切なものを全てではないにせよ、ある程度表現してくれているように感じる。

 

●それはまず体験の意味に関連するものだ。矢野はいう。「体験は、なにより問題解決の能力を高めるだろうし、人間関係を深め社会性を身につけることに役だつだろうし、自然への認識力を発展させるだろうし、さまざまな身体の技法や技術を訓練することになるだろう。つまり、体験は子どもの能力を発達させるのに重要な手段であり、子どもの成長にとって不可欠なものであるにちがいない」。

 

●こうして体験は教育の手段となるが、しかしその観点からだけ体験を捉えることは、「体験がもっている重要な側面を見落としてしまうことになる」。矢野によると今日、学校教育をささえる論理は、子どもの能力を発達させる「発達の論理」である。この「発達の論理」は、近代の労働をモデルとして作られている。労働とは、目的をたてて、その未来の目的の実現のために、現在の時間を従属させることである。

 

●そのため、労働ではすべてのことが目的ー手段関係へと組織だてられることになる。この労働の世界を特徴づける考え方とは、目的のために役にたつかどうかという有用性の原理である。「発達の論理」は、基本的にこの労働をモデルとしているから、学校教育でもすべての事柄がこの有用性の原理にしたがって評価されることになる。例えば遊びがその典型である。

 

●遊びは遊ぶために遊ぶのであって、遊びを超える目的はない。しかし、教育の世界では、遊びが結果としてもたらす発達的効果をもって遊びの本質にしてしまう。そしてこの有用性の世界では、最終的な目的などは存在しはしない。なぜなら、あらゆる目的は、その目的が実現されたときにはもう目的であることをやめてしまい、つぎの目的(未来)のための手段に転嫁してしまうからだ。

 

●しかし体験はこうした側面ばかりではない。「私たちは没頭して夢中になって遊んでいるとき、優れた芸術作品に接したとき、あるいは自然のもつ美しさに打たれたときなどに、いつのまにか「私」と私を取りかこむ「世界」との境界が消えていくことがある。すぐれた体験は、このような自己と世界とを隔てる境界が、溶解してしまう瞬間を生みだす。」

 

●この自己の溶解という体験は、「私の経験」として知性によってとらえられることを拒否する。深い感動は言葉にならない。驚嘆しているときには音葉を失ってしまう。溶解体験を捉えようとしたときの、表現の困難さは相対的なものではない。溶解体験では主体が溶解するわけだから、既成の言葉によってはいい表すことのできない体験となる。このような言語化の困難なところにこそ、体験の優れた価値がある。

 

●私たちはこうして、深く体験することによって、自分をはるかに超えた生命と出会い、有用性の秩序を作る人間関係とはべつのところで、自分自身を価値あるものと感じることができるようになる。未来のためではなく、この現在に生きていることがどのようなことであるかを、深く感じるようになる。そして、自己の尊厳は、このような体験を母体に生まれるのである。

 

●私はラボラトリーも全く同じことが言えると思う。「何かのために」役立つ学びだけを求める「発達の論理」を超えた体験がそこにはある。深く自己や他者のいのちの流れを受け入れる体験がそこにはある。自己や世界の捉え方そのものが変化する体験、この本のように発達の論理そのものを相対化する体験がそこにはある。そしてこうした体験からの学びこそが、真に自分らしく生きるのに役立つように思う。

 

 

 

 

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