不安への関わり方

●8月に母が低ナトリウム症になり、認知症状が強くあらわれて以降、私たち家族はエマージェンシーモードで対応に当たってきた。何が起きているかわからない混乱状態の中で専門医の受診、認知症の理解のための勉強、必要な生活習慣の模索などを行った。それから3ヶ月経ってようやく一段落した感じになっている。

 

●8月に専門医を受診した際は明らかな認知症が疑われていた。しかし3ヶ月間、これまで常用していた入眠剤や胃腸薬を断ち(医者の指導で薬の管理を家族が行なった)、低ナトリウム症を治療したことで、認知症状が改善したのである。先週再度受診した際には軽度認知障害という正常と病の中間領域にあると診断された。

 

●この3ヶ月の間に介護認定を受け、認知症の進行を抑えるのに役立つデイサービスの利用を始めた。また朝の光を浴びて散歩をし、必要なタンパク質を取り、寝る前にゆったり呼吸するなどの生活習慣も新たに作った。おかげで身体は元気になり、再び一人で電車に乗って趣味の囲碁に行くこともできるようになった。

 

●こうして母の病をめぐる混乱状態が収まり、新たな生活習慣ができつつある中で、浮かび上がってきたのが「不安」の問題である。今から思えば入眠剤などの常用の習慣が、認知症状を悪化させていた要因の一つだったわけだが、母のお薬手帳を見せてもらうと、2年ほど前から処方が急増している。

 

●もともと母はちょっと食べ過ぎたら胃腸薬、30分寝付けないと入眠剤という風に、軽い身体の不調でも薬を服用してきた。それがいつの間にか、心身に関わる不安を薬に頼ることで解消するという姿勢に結びついていったようだ。認知症状が改善した今も、毎日のように薬が欲しいと私たちに求める。

 

●考えてみれば年齢が高くなり身体の不調は増える。低ナトリウム症や認知症はそもそも不安を引き起こす病だ。これがこのコロナ禍の中で起きているのだから、不安は起きない方が不思議だ。その結果、この2年ほどで入眠剤などを処方してもらう薬の量が増えた。それが認知症状の悪化として表面化したのである。

 

●こうしてこの3ヶ月母は薬に頼れず、不安とじかに向き合わざるおえなくなった。こうした母と共にいると、彼女の「不安」にはいくつもの意味があることがわかってきた。例えば家で犬が走り回って目が回ったという時も「不安」と言うし、家族がいなくて寂しい時も「不安」という言葉を使う。初めてデイサービスに行った興奮も「不安」で表現される。

 

●そしてこれら全てと関わっているように思うのが死への不安である。ちょっとした不調も、重大な死に至る病の前兆なのではと感じられ、大きな不安が襲ってくる。一人になった時に何か不調が起きた時、助けが呼べないと不安になる。眠りにつくまでのわずかな時間に、寝てそのまま死んでしまうのではと不安になる。

 

●こうした概念ではない「なま」な死への不安を目の当たりにすると、当然こちらにも不安がうつる。死の問題は父がなくなった時に、またラボラトリーの体験の中で随分と感じ、考えもしたが、それでもやはり揺さぶられる。そして仕事などの日常生活の場では大事な問題に思えるものが、この生死の場から見ると些細なものに見えてしまう。

 

●母と共にいる時間が与えられたことで、改めてこの誰一人逃れることがでいない死への不安との関わり方が、私たちのありように大きく影響を与えるのだなと思い知らされた。母はこれから認知症などに悪影響を与えない抗不安薬を探すことになると思う。私自身はもう一度「今ここ」の流れを感じ取り委ねるありようを大切にしたいと思う。

 

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