温故知新〜「自己の現象学~禅の十牛図を手引きとして」上田閑照

最近「十牛図」について書かれた本書を読み返してみた。そのきっかけは母の病である。今母は認知症を患い大きな不安に襲われることがある。そんな母の不安を和らげるために朝の光を浴びようと一緒に散歩していた時、彼女から「歳をとってこんな病気になって、何故生きないといけないのだろう」と問われたのである。

 

十牛図とは例えば https://biz.trans-suite.jp/27101 などで示された図版のことである。上田によれば十牛図と呼ばれるのは、求められている「真の自己」が自己実現の途上において牛の姿で表されているからである。自己が真の自己になる自覚的な過程が、野牛をつかまえてかいならしていく具体的な経験の動的過程によって示される。

 

図の解説は本書にゆずるとして、私が今回特に印象に残ったのは、上田の「自覚」の捉え方である。以下みて見よう。まずそれは自己のうちに沈殿していては捉えられない。それは自己の置かれている場所から自己が照らされることである。例えば「父親としての自覚」は、自分の外に出て家族という場に自分を見出すことから生まれる。

 

●自覚とは、その場における自己の位置の自覚であり、その場においていかにあるべきかの課題性に目覚めることを含む。ここでは自己がその場に真に開かれているかが問われる。自己に閉じられ真に開かれているとは言えない場合、場のうちにはあるが、自己を閉じたまま自己を場に押し込み、自己をその場の中心とする。

 

●自己の置かれている場に中心になった自己の影を落として、その影の範囲を自己の場とするのは「自分のペース」であり、真に他者に出会うことはできず、真の自己であることもできない。場から見れば「自己のペース」は場違いであり、交わりや関わりにひずみと歪みをもたらす。その歪みやひずみは自己がその場に真に開かれるべき課題の自覚を迫っている。

 

●親子の問題もそれだけでは解決できない問題を含む(人間の問題)。自覚の場は家族という場をもう一つ越えて家族をも底から支え包むような、より開かれた場に移行する。それは一人の人間と言う方向、孤独であるほどより深いところから結びつくという孤独に向かう。そして死すべきものと死すべきものが親子として因縁を結ぶ。

 

●このように場の開けは、自己が問題にぶつかることによってより開かれた場へと破られながら、これによって包み返される。これは最終的に自己存在の究極の意味の問題になる。家庭という意味の場から、社会という意味の場へとより開かれた場へ移行し続けると、最後にあらゆる意味連関そのものの意味、最後の意味が問われる。

 

●冒頭取り上げた母の「歳をとってこんな病気になって、何故生きないといけないのだろう」と言う問いは、家族の場、世間の場、組織の場、社会の場などの場からは答えることのできない、これまでの人生で築いてきた生きる意味や自己というものを全て崩してしまう最後の、究極の意味を問う問いのように思える。

 

●そして上田は言う。究極の開けは、意味空間ではあるが、究極なるが故にもはや「なぜ」「なんのため」と問うことのできないところ、「無」意味空間にある。「なぜ」に関して言えば「なぜ無し」であり、意味が尽きた無意味即充実となる。これは西田哲学で言う「絶対無の場所」にあたる。ここでは自分のペースではなく、無のペースで他と交わる。

 

私には哲学の深いところは理解できない。しかし母に問われた時、私はこの「なぜ無し」を思い出した。それでもなお私と母は今ここにいると思った。そして返事をした。「生まれる時なんのためにを考えた?自然に生まれたでしょ。だから自然に死ぬまで、生きるしかないよ。」そして一緒に樹齢100年ほどの楠に挨拶をしたのである。

 

 

 

 

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