「そばにいる体験」と癒しについて

●8月の下旬に予定されている南山大学の人間関係トレーニングという授業のお手伝いを頼まれている。今年は今までのような合宿形式では無理なので、通いで5日間行われる。そして通いということで毎日一応区切りをつけて終わらないといけない。非日常の中で行われるラボラトリーのようにセッションを続けて、最後にふりかえるというわけにはいかないのだ。

 

●しかもコロナ対応として、例えば途中で濃厚接触者になった人が参加できるようにオンラインでの参加も可能にする必要がある。もっと言えば、感染が広がる中で、オンライン参加を希望する学生が多い場合、オンラインでのグループにすることも検討しなければならない。大学ではようやく今年の前期に初めて対面の体験学習の授業ができた状況にある。

 

●こうした変則的な枠の中では、Tセッションの数も大幅に少なくなる。日々家に帰って日常に触れる。だから従来のように目の前のグループや人との関わりにどっぷり浸かって、そこから生まれる深い体験から学ぶことは難しいかもしれないと感じる。もちろんラボラトリーなので何が起こるかはわからないし、予断は許さないけれど。

 

●特にこの感染拡大の中だから、それでもこの授業をする意味、学生さんのために何ができるかを思い巡らせていた。そして昨日ふと、特に「そばにいる体験」から学ぶことが今年の学生さんいとって大切なのではないかと思いついた。「そばにいる体験」から生まれるものに目を向け、気づき、それを受け取りあうことをやってみるのがいいのではと思ったのだ。

 

●こうした思いつきには、背景がある。今私の母は夏バテからくる摂食障害でナトリウム不足に陥っている。同時に認知機能も落ちてきている。そのため一人でいると強い不安を訴える。しかし私の妻がそばにいる、つまり身体的に共にいると、不思議なくらい落ち着く。妻がそばにいるということが、明らかに母の気持ちを癒す働きを持っているのだ。

 

●どうしてそうなのかは言葉にすることが難しい。ただ昨年医療関係の研修をした後、万が一感染していた時の用心に家庭内で自主隔離をした時期がある。その際、ラインでつないで食事をしたのだが、会話がなければ一緒にいる感じがしない。「そばにいる」時にはない欠乏感がある。そばにいると黙っていても充足感を感じ、ただそこにいることができる。

 

●これはオンラインによる研修や会議、飲み会でも感じる。確かに言葉という形になったものはオンラインでもコミュニケーションできる。しかし一緒にいるという感じは弱い。沈黙していても互いを感じ取り、ただそこにいればいいという関係は生まれにくい。大学では昨年一年ほとんどオンライン授業で「そばにいる」という状況でのやり取りはなかったようだ。

 

●こうして「そばにいる体験」から学ぶというコンセプトを思いついて、できること、したいことがあるなと感じられている。それは言葉になる前の、つまり言葉という固いカラに包まれる前の、まだ言葉にならない柔らかい“今ここ”で起きてくる気持ちや想い、感じに目を向け、分かち合うというものだ。そのための実習であれば思いつく。

 

●私が家庭内の自主隔離中に感じたように、このコロナ禍の学生さんのなかには、言葉にならない、非常に強い欠乏感を覚えている人もおられるかもしれないと思う。いつものように非日常の深い体験はできないかもしれないが、でもこの授業の中で互いに「そばにいる」ことはできる。その体験から学ぶこともできる。これが癒しになってくれるといいなと願っている。

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