温故知新〜『感受性訓練−Tグループの理論と方法』より 第8章  両極背反からパラドックスへ K.D.ベネ

●久しぶりに感受性訓練を手に取り、読み返してみた。この第8章はベネが書いたものだが、彼によればこれは17年間、50のラボラトリー(Tグループ)で彼が得た経験に基づく臨床的コメントである。グループがどのように発展するか、そしてどのような機能を果たすかのいくつかの側面を取り上げている。

 

●グループが進む中で、いろいろな葛藤が両極背反という形で現れてくる。ベネはそれをどのように解消していくかによって、グループの成長がもたらされると考えている。つまり両極背反という取り扱い不可能なものから、パラドックスというグループが取り扱えるものにしていくプロセスの中でグループは成長するのである。

 

●最近私がラボラトリーのグループに臨む時には、グループの局面にかかわらず、“今ここ”を大切にすることだけを意識することが多い。しかしこれを読んでまず思ったのは、私は実際にはベネが指摘しているようなことを意識し、把握していいて、その上で、“今ここ”で関わっている。それでは“今ここ”を大切にすることはこれらの両極背反にどう影響するのだろうか?

 

●まずラボラトリーのグループには課題や手順はきめられていないので、「目標と無目標の両極背反」が起きる。つまりメンバーの中にグループの目標が曖昧な感じが起きる。しかし“今ここ”を大切に関わることが、個々人が持つねらいに向けた学習環境をグループに作っていくことにつながることが体感されるとこの両極背反は克服される。

 

●第二はグループおよびそのメンバーの成長と維持の問題についての両極背反である。その一つはグループの維持 対 メンバーの自己維持の葛藤であり、例えばメンバーが黙っていると、その理由をグループとしては知りたくなる。個人の平和や維持の欲求とグループの欲求が相入れなくなる。

 

●そしてグループからの強制、メンバーの個人性・プライバシーへの侵害が減少すると、メンバーは自分の“今ここ”が大切にされている感じを抱き、自分自身をより多くグループに与えるようになる。こうしてメンバーがグループの共通課題により自由に貢献する時、グループは強められ、その凝集性は密となり、メンバーはよりよく自分自身であることが可能になる。

 

●この側面では、気楽さ 対 成長のパラドックスもある。グループが初期のあいまいさから抜け出すと、甘さと自賛に満ちた「ハネムーン」へ移行する。しかし気楽さによる平衡状態は不安定で、メンバー、グループへの否定的感情の否定が起きる。より自由でより強固な相互的かかわりへの要求が生まれてくる。

 

●そしてこの“今ここ”に促され、否定的な気持ちも伝え合い、受け入れ合うことができるようになるとより自由さを感じながら成長を実現できるグループへと成長していく。ここでのポイントは居心地が良いある地点で「止まる」ことで“今ここ”の流れに逆らわないことである。つまり“今ここ”の流れは自然に成長へと導いていく。

 

●さらにグループ内の権威 対 自由の両極背反もある。実際には権威と自由は対立するというのは未熟な認識である。グループが受容しうる標準、手続き、役職や運営パターンの枠内で、各自が“今ここ”を大切に自発性を発揮し相違を認め合い、自由に変化することが許容され、価値あることと合意に達することで権威と自由は統合される。

 

●この他にもベネは課題達成機能についての両極背反も指摘する。Tグループは普通の課題達成グループが課せられる重荷と圧力から保護された環境にある。しかし実際にはTグループはグループおよびメンバーの維持、成長の諸問題解決のために意識的に取り組んでいくことを学ばねばならない。そこには課題があるのだ。

 

●ベネはこれについて「真の問いは<課題達成の問題を分離して、維持・成長の問題の取り扱い方を学ぶのが目標なのか>または<維持、成長、課題達成の諸問題を、それらの相互関係において効果的に処理していくのを、どのように総合するかを学ぶ事を目的にするか>である。」と述べている。これは私にはメンバーが“今ここ”で取り扱いたいことを自由に扱う中で達成されるように感じられる。

 

●またベネはグループにおける科学、芸術、政治の両極背反があるという。例えば「観察と即時的フィードバックが最も有効であることに強調点を置きすぎると、道徳的、政治的配慮が学習範囲をせばめる」。完全に「科学的」になりすぎると、自分たち自身の行動と決定から抽出されるデータは無味乾燥になる。

 

●また彼は「グループの歴史を納得できるように再構成することに強調点を置きすぎると、今フラストレーションを起こした事柄を、もっともらしい言葉の劇にして審美的で終了させてしまう」と言う。成熟したグループは3つの様式のバランスを保ちながら発展し、総合を目指す。グループは実践的解釈、審美的解釈、科学的解釈を別のメンバーに分担する。

 

●私はまずどんなメンバーがいるかによって、どんなグループになるかある程度決まるように感じる。そして皆が十全に自分の“今ここ”を大切にしている時、どんなグループになるかはあまり問題ではない。しかし影響力の強いメンバーに支配されている場合は、他のメンバーの“今ここ”がより立ち現われることでグループが変わっていくことを望む。

 

●次にベネは視点を変えた考察を進める。Tグループは一定期間で終わるが、その体験が日常にまで影響を与えるためには何が必要か?ベネはいう。「この時間的展望の達成は、Tグループがそれ独自の、意味のある文化を蓄積し形成すること、メンバーがこの文化を内面化することに関係がある」。まず事件と感じられる出来事をグループが「芸術的」に再構成する。

 

●そして一般化しうる重要性を「科学的」に分析し、コントロールするための新しい確実な方策へと「実践」に移す。これは私の言葉で言えば“今ここ”で感じたことを相互に伝え合うことで出来事を解釈し、“今ここ”でそれを受け止め、どうしてそうなったのか、次はどうしたら良いかを考え実行に移す。つまり体験から学ぶことである。

 

●次にベネは行為のコトバと観察のコトバのパラドックスを取り上げる。例えば「凝集性」などの科学的な言葉は、正確に説明すると同じ程度、グループをコントロールする武器として機能する。グループがこうした公認語による安定性を不必要とするようになると言葉が想像力豊かに融通性を持って機能しはじめる。それが行為の言葉である。

 

●彼によると「行為のコトバは次のような意味において「詩的」である必要がある」。つまり「グループ、個人の目標達成の努力、どうしてもそうありたいと願うようなイメージに関連しながら、全体に共通した態度、好み、感情、動機を動員するものであり、行為の言葉は「説得の言葉」に不可避的になる」。

 

●私は従来言葉には二種類あると感じてきた。“今ここ”の気持ちや想いがそのまま含まれた言葉と、“今ここ”が捨てられ何かを表象するだけになった言葉である。物事を分析するには後者が必要だが、私が私になると言う関わりを作り出すのは前者の言葉だ。私は前から言葉をこのように区分けする必要を感じていたが、ベネのこの指摘は心強く感じる。

 

●またベネは深淵への一瞥という項目もとり上げている。彼によれば日常生活は慣行、文化的パターンの受け入れで成り立っている。人間が維持している社会的実在の安全保障のかなたに横たわる根源的不安の深い淵をのぞき見ることがないように守られている。しかしTグループでは行動・処置や判断と評価に確実性と保証を与える基準がない。

 

●グループは政治理論家の仮定した前契約的な人間状況の中で動いているように見える。そして意味、コントロール、コミュニケーションの探究を実験的に実施し、評価しながらそれに没入していく。ここから共通の安定性と権威が発生させ、無意味さとあいまいさという恐るべき深淵から自らを救う必要がある。ここから共通の安定性と権威が発生する。

 

●これも私の言葉で言えば、外の世界に何も頼るべきルールも意味もない中で、与えられる“今ここ”だけを大切にして関わり、共有できる意味や文化を作り上げていくということだ。そしてその中で従来の社会文化に隠されて見えなかった人間のありよう、自分の姿をありのままに見る。そこに自己理解と成長の基盤がある。

 

●こうして見ると私は、ベネのいう両極背反をパラドックスに転換する過程を意識しているように思う。しかし個別に対応するのではなく、“今ここ”で生まれてくるものを大切にするということによって、それらを乗り越えていけると思っているのだ。もっというなら、そこを大切にする以外に、これらの両極背反を乗り越えるすべはないように感じているのだと思う。

 

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