確実なもの、安定したものにしがみつく心

●最近私は、自分がこの世界を“確実で安定している”と信じたい欲求がとても強いなと思っている。逆に言えば私には、自分自身も含めたこの世界には何一つ確実で堅固なものがなく、常に流動し不安定で予測できないものなのではないかという直感があって、それを怖く感じる気持ちがあるのだ。

 

●この新型コロナの問題でも、感染の原因を特定したい気持ちが強い。飲食やマスクを外した会話などをしなければ大丈夫と思いたくなる。しかし実際には感染している人の飛沫が私のところに「たまたま」飛んで来ても感染してしまう。でもこうした偶然を受け入れるのは私にはとても怖く感じる。

 

●これが怖いのは多分、この偶然を受け入れると災厄から逃れる確実な方法がなくなってしまうからだと思う。物事が起きる原因を突き止め「こうしていれば大丈夫」という方法が明らかになると、私は自分の安全を保てる。それがないと私は心理的安定性を保ちにくい。世界の不安定化に耐えられないのだ。

 

●また社会も確かなものではないなと感じる。ある時は飲食店や観光業界の苦境が取りざたされ「外食や旅行をしなきゃ」となる。しかしある時は病に苦しむ人々や医療現場の大変さが報じられ、自粛が呼びかけられる。ここには確実なものは存在しない。寄せては返す波のように常に流動している。

 

●話は大きくなるが、今の生物学による人間の見方もこうした不安定化に拍車をかけている。私は従来自分の身体を確実で安定した“もの”と信頼していた。ところが実際には3ヶ月もするとほぼ全ての細胞は入れ替わっている。つまり“もの”自体はインプットされ、一時身体を形成し、常に流れ去っているのだ。

 

●だから身体とはこうした“もの”ではなく、それらが集まり入れ替わりつつ一定時間だけ身体を形成する“場所”と捉える必要がある。水流の関係で水が集まり入れ替わりつつ形成される“渦”のようなものだ。“渦”が消え去るように私自身もまた一定時間ののち消え去る。

 

●地学による世界の見方もこうした不安定化を後押しする。“堅固な地盤の上に”とは安定や確実を言い表す常套句である。しかし今地球は、ほんの表皮のような土壌の下でマントルなどが常に流動していることがわかっている。この地球も確かなものは与えてくれない。

 

●物理の法則のように確実に見えるものがある。しかしニュートン力学を相対性理論が包括したように、パラダイムが変わると世界や宇宙の見方も大きく変わる。また科学は目的のための手段的知識は与えてくれるが目的そのものは与えてくれない。それは限定された条件付きの確実性なのだ。

 

●こうして私は今すべてが流動し確かなものが何もない所にいる。ここは足元の確かな地面すら崩れ去り、また自分を確保する手がかりすらもない、極めて頼りない所だ。だから私はつい確かで、安定したように見える何か(指導者、宗教、組織、信条・・)にしがみつきたくなる。溺れる者のように藁をも掴む。

 

●しかし私はこうして無理に確かさや安定や求めることが災厄をもたらすことも知っている。出来事の原因を無理やり探し魔女狩りなどをしてしまいかねない。また牛の糞を体に塗り付ければコロナ感染を防げるといった迷信に惑わされてしまう。全体主義がもたらす悲惨な安定性に逃げ込みたくなる。

 

●だから私は諦めて自分自身に、またこの世界に確実で安定的なものは何もないことを認める。何かにしがみついていた手を放す。そして一見確かなものを映しているように見えるこの眼を閉じると、すべてをうつろわせる流れの中で、今ここにいのちの“渦”が形成されているのが感じられる。

 

●そしてここでは私はもはや怖く感じない。“渦”が崩れ、消え去ることも恐れない。自分を含めすべてが流れの中にあることに安らぎを覚える私がいる。しかし再び目を開けると堅固に見えるこの世界で、性懲りも無く確実さや安定性を求めてしまう私がいる。これからも私は何かにしがみついては手を放すことをし続けるのだろうなと思う。

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