温故知新〜『共同と孤立に関する14章』第1部 A・V・カーム/B・V・クロウネンバーグ/S・A・ムトウ共著/巽豊彦訳 中央出版社(1979)

●ラボラトリー・トレーニングには夜の集いというものがある。一日集中的なグループ体験などをした後、夜に静かに過ごす時を持つのだ。そしてそこではよく「共にあること」という短い詩のような言葉が朗読される。その出典となっているのがこの本である。それだけに私にとってはとても馴染深い。

 

●この本には著者たちがその実存を生きる中で培った知恵が書かれている。それだけにパッと読んで理解できるものではない。また客観的事実を知るようにスッキリとは受け取れない。ただ自分に起きた深い体験を内省した後に読むと、言葉のいくつかがふっと心に染み入るようなわかり方が起きるように思う。

 

●そして今この時期に読み直してみて、ここに書かれている知恵もまた “今ここ”を生きるということと、とても関連しているように感じている。またこのコロナ禍の中で生きる私にとって励まされるところもある。そこでまずその第一部の7章を取り上げ検討してみたい。

 

●この本はその名前の通り、共同(共にあること)と、孤立(一人でいること)の関係を洞察した本である。第一部は序から始まり、交わり、隠退(身を引くこと)、労働、余暇、経験、評価、共同が一章ずつ取り上げられている。この第1部で私の心に染み入ったのは「交わりが実現するためには、まず身を引かねばならぬ」という言葉であった。

 

●著者によると「身を引くのは人生からの逃避ではなく、人生の深奥をきわめるための旅立ちである」。つまり何かをやりとげるとか、手に入れるとか、そういうことから身を引いて、自分の内面から“今ここ”で湧いてくる「本来の自己であれ」という招きの声に耳をふさぐことなく応えることである。

 

●何らかの社会運動に身を投じ、自己の一切を捨てて没入する瞬間は、自己からの完全な逃避の瞬間である。著者は言う。「私が一番逃げたがっている相手、それが自分自身にほかならぬことに気づくだろう」。人との交わりは自分の内から湧いている“今ここ”の想いや感じに目を向けるところから始まるのだ。

 

●そして「本来の自己であれ」という“今ここ”の声に応える時、労働は単に生活費を稼ぐためのものではなく創造の心を持つものとなる。それは「利益と生産を追い求めながら、同時に人格的成長に役立つ。楽しむこともでき、人類への奉仕もでき、崇高な目的に献身することもできるのである」。

 

●そして余暇は「日々の義務にあくせく追われることから離れて、人生と世界における楽しく聖なるものへの参加を求める」ものとなる。つまり余暇によって詩の一行、草の香り、愛する者の死など「読んだこと、感じたこと、苦しんだことが、私のものとなりうる」。こうして経験が深まる時、人生は豊かになる。

 

●もちろん経験とは「思い切って変化し、思い切って適応することである」から、経験の吸収には終わりというものがない。また日常において私たちは自由と制約の緊張関係におかれているが、こうした制限は「束縛の中の自由」に創造的に働きかけよとの誘いである。制約は新たな経験へと私を導く。

 

●こうした経験は評価されることによって、その実態を明らかにし、全体的な人生の意味に組み入れられる。起きた出来事や自分の言動を“今ここ”でどのように感じているかに目を向け、手段を目的としていないか、改めてそれは「何のためか」を吟味する。これによって他者の反応で生きるだけにならずに創造的反応が可能になる。

 

●そして「人生が私にとってもつ意味、それをあらためて主張する勇気がそなわったとき、私ははじめて私自身となり、私の信念に内容を与えることができる」。こうして孤独のうちに人生に耳を傾けるとき示されるのは何世代にもわたって積み重ねられてきた英知であり、それが共同に向かう心の準備となる。

 

●こうして孤独の内に自分の内面と向き合い、私自身が自己と一致するとき、他者との交わりが始まる。自分は何のために人と交わるのか。羨望と嫉妬と貪欲にとらわれている場合もある。権力への意志を胸にかくしている場合もある。しかしその場合の関わりは、人を自分の支配のもとに置くためのものとなる。

 

●しかし孤立の中で自己の奥底までくだった私が、人間世界の根底に目を凝らす時、そこに人間同士を結びあわせる要因が見出される。人間は協力しあうことがなければ、みずからの人間性を失う。ただ自己の内面での心の準備なしに協力すれば、一つの人格としての私は破滅してしまうかもしれないのだ。

 

●この第一部を読んで私は思った。コロナ禍は確かに私にとって大きなストレスになっているし、人との接触が制限されていることも苦しいことがある。しかしその制約は同時に私に、自分の内面の声に耳を傾け、人間世界の根底で人間同士を結びあわせる要因を考察する時間を与えてくれている。

 

●例えばキルケゴールをじっくり読むことも、温故知新をすることもコロナ禍で初めてできたことだ。この時間がなければラボラトリーの活動が自分にとってどのような意味を持つかを言葉にすることもなかっただろう。こうして見ると、このコロナ禍の期間は改めて私が共同に向かうための貴重な準備の時間となっているようだ。

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