バイアスとラボラトリー・トレーニング

●先週バイアスについて書いたのだが、その後もこのテーマが私の心を離れないでいる。特にピークエンドの法則(ピーク時の体験の強さと終わり方でどれほど良い体験(または悪い体験)だったかが判断される)の持つ意味が気になり、そこに想いが戻ってしまう。それで書きながらもう少し考えを深めてみようと思う。

 

●私たちは生きていく上で大量の情報を処理する必要があるので、情報を短時間で自動的に処理する(例えば顔認識など)システム1と、それがうまくいかない時に注意して情報を処理する(計算など)システム2を進化させてきた。システム1はあまり考えないで直感的に物事を捉え処理するが、大体の状況ではそれでうまくいく。

 

●しかし特定の状況では繰り返し判断と選択についてエラーを起こしてしまう。だからよほど注意してシステム2の助けを借りないと正しく認識できない。ピークエンドの法則についても実験用のモルモットでもみられる特徴というから進化の過程で生存を確保する上で有利な点があったに違いない。

 

●しかしこれが前回取り上げた「講釈の誤り」(過去の出来事や体験について誤った因果を組み立て、過度に単純化したストーリーとして捉えるバイアス)と組み合わされると、人間やいのち、社会、歴史など私たちが生きる上で大切なものを直感的に誤って捉えてしまう可能性があるように思える。

 

●これらのバイアスはまず人の見方に影響する。特によく知らない人の場合、今の地位や置かれた状況(エンド)と過去の業績や事件(ピーク)で「あの人はこんな人」と判断することがある。そして今に至った原因についても、一流大学卒だから、容姿が美しいからなどと勝手に因果をつけて捉えてしまう。

 

●こうした人の見方は、人の成長とは何かという考えに影響を与えずにはいない。ここでは成長とは好ましいとされているエンド(地位や状況)を得ることと捉えられる。そしてそのための教育と努力がなされる。一流の会社に入った人、アスリート、学者、政治家など「何者か」になった人が目指すべき模範となる。

 

●こうなるとこうした人の見方は生涯にわたって人を評価する基準となる。好ましくないエンドを持つ人は過去の過ちや罪を探られ、避けられ、低く見られる。職を失った人、結婚に失敗した人、罪を犯してしまった人などは、それまでにどれほど良いことをしていても、それがエンドとして認識されて悪く判断される。

 

●この評価は自分にも向けられる。私自身大学卒業後一流と言われる銀行に入ったが、途中でやめることになった。しかし仕事がない自分、昼間から遊んでいる自分、名刺を出せない自分が受け入れられず、自分への評価が大きく下がってしまった。

 

●こうした考えが行き着くと、歴史の流れが有名な一握りの人によって作られたと考える歴史観を生み出すことになる。この歴史観では業績や貢献が知られていない(ピークのない)「何者でもない」人々は、他者や社会に影響を与えることのできない価値のない人々と捉えられてしまう。

 

●さらにこうした見方は罪の意識や罪責感に関連する。それが典型的に出てくるのが病に犯された時だ。私の父は晩年ガンで苦しんだのだが、よく「俺は悪いことをしていないのになぜ?」と問うていた。今の状態を、本来因果関係のない過去の自分の行為で説明する事例は枚挙にいとまがない。ここには罪のゆるしというものがない。

 

●これは例えば認知症になってしまった自分や老いた自分をどう捉えるかにも関わってくる。ピークエンドの捉え方では、認知症や老いによって自分は「役に立たない人になった」(エンド)と捉えてしまいがちになる。もう用済みの人間として自分を捉えてしまうと生きる希望を失ってしまいやすい。

 

●私はこうした人間観、社会観、歴史観、罪の捉え方、病や老いの捉え方はピークエンドと講釈の誤りというバイアス、つまり認知と判断の系統的エラーから生まれたものだと知っておくことが大切だと感じる。つまりシステム2を使って深く考えることなく、直感的に捉えることで起こる過ちである。

 

●こうした意味でラボラトリー・トレーニングが、こうしたバイアスを乗り越える力を与えてくれたように思う。ラボラトリーでは「今ここ」を大切に人と関わる体験をするが、日常から離れ集中してこうした体験をしてその意味を吟味することで、システム2の助けを得られるのである。

 

●ラボラトリーで私が学んだことは、人は皆今ここで想いや気持ち、感じを与えられながら生きていること、それをベースに人と関わることで、人とのつながりを感じ、また新たな考えや価値観を生み出すということだ。そしてそれは人を大切にしようという関わりや時には事業を生み出す。つまり社会や歴史に影響を与えていく。ただの人が世界を変えるのだ。

 

●またこうした体験を繰り返す中で私は人間や歴史、罪などの捉え方が変化した。例え昼には死ぬとしても、今朝の最後の一息まで、目の前の人に「今ここ」で影響を与え続けることになる。認知症になって記憶する自己は失われても、今ここを生きる経験する自己はなくならない。最後の最後までその人には生きる責任があるのだ。

 

●例え今仕事がなかろうが、罪を犯そうが、次の瞬間に新たな「今ここ」が与えられる。その「今ここ」を大切にして関わることで、自分も周りの人もよりその人らしくなる。つまり「今ここ」による新たな生成に参与する時、その人は他者との相互関係の中で生かされている。ここには罪のゆるしがある。

 

●こうして見る時私は、私が私になる過程で多くの人々の影響の渦の中にいることに気づく。赤ん坊の時に向けられた笑顔、また子供が赤ちゃんの時に向けてくれた笑顔、ちょっとした気遣い、先生が叱ってくれたこと、こうした小さな関わりの積み重なりが私を私にしてくれている。歴史は誰か有名な人が動かしたのでなく、こうした人々の相互の影響力の網の目が動かしている。

 

●これから生きていく中で、自分に生きる価値がないと思え、「何者か」になれないことに苦しみを覚えた時、私はこのバイアスについて思い出したいと思う。そしてこれまで私を私にならしめてくれた、名もない人々の関わりに感謝したいと思う。そして今ここを大切にする、ただの私であることに満足していたいと思う。

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