新型コロナウィルスと阪神大震災2〜批判する心

●この頃新型コロナウィルスの問題をめぐって、自分がいつもよりも批判的になっているなと感じている。国・行政の対策や識者の意見に対し、批判したい気持ちが起こる時がある。インターネットを見ていても、厳しい批判・非難をしている人が多数おられるのでこれは私だけの現象ではないのだろう。

 

●そして再び阪神大震災を思い出しているのだが、あの当時も政府の支援の遅さを指摘する論調はあった。しかし、今ほどの批判はなかったように思う。むしろ市民による助け合いの方が注目され、95年はボランティア元年と呼ばれたほどだ。今も同じ「災害」と言っていい事態なのに、なぜこれほど批判が多いのだろう。

 

●自分を省みて一つ思うのは、いまの私は「心のケア」が必要なほど不安が大きいことがある。震災の時も不安はあったが、基本的には「起きてしまったこと」だった。今はこれからますます酷くなるのではないかという現在進行形の、先が見えない不安がある。

 

●そしてこうした不安には向ける対象がない。そして自分一人でその不安をそのまま抱えることも難しい。だから不安を怒りや批判に変えて誰かにぶつけたくなる。例えば私はPCR検査の少なさを批判していたが、そのベースには、それによって自分が守られなくなるという不安とそこからくる怒りがあったと思う。

 

●また私が批判をしてしまう原因のもう一つは、私が政府や行政、医療システムに依存心を持ちすぎているからだと思う。阪神大震災では多くの建物や道路が被害を受け、インフラや行政機能がストップまたはパンクし、被災者に支援が行き渡らなくなった。こうなると誰かを批判するだけでは生きていけない。

 

●こうした中で当時は市民が協力し、まずは被災者の救出、そして避難所の運営、物資の配送、そして心のケアなどを自ら行った。行政も自らの限界を隠さず、必要なところは市民の力に頼り、協働を行なった。つまり政府や行政という公助に依存するだけではなく、自助・共助によって難局を乗り越えたのだ。

 

●この新型コロナウィルスに対応していくための政府・行政の役割は確かに大きい。各国政府の感染症対策はずいぶん違うし、その良し悪しで死者数も変わってくると言われている。しかし同時にコロナウィルスへの対応は、政府や行政による公助だけではできないことも明確になってきたように感じている。

 

●このコロナウィルスが蔓延する中で、いま国や行政、システムが提供できるものは、医療面でも経済面でも心理面でも私たちを支えるには十分ではない。そこには限界があるのだ。しかしこうした公助やシステムの限界に気づくに連れ、私の中で根強かった依存心が、そして「批判する心」が小さくなっている。

 

●そして今阪神大震災の時と同じく、公と協働して私・私たちにもできることがあるように感じている。例えば医療システムが崩壊するかどうかは市民行動の変容にかかっている。つまり今また自助・共助が必要になっていると感じるのだ。それはまず「家にいること」である。

 

●そして家族の中で悔いのないようにコロナに対処するための共通認識と行動規範を作ることだ。私の力の及ぶ範囲で在宅勤務などを提案していくことであり、10万円の有益な寄付先を探すことであり、そして不安に思う隣の人の話を聞くことだ。私には何かを批判している暇はないように感じる。

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