『十牛図〜自己の現象学』(上田閑照)を読んで2

●私が「今ここ」の性質をよく表現しているなと感じるのは、第四図で牛と人との間の綱がピンと張りつめた緊張感に満ちた場面である。人は決して牛を離すまいと、必死で綱を引っ張っている。人が牛を御そうとしているわけだが、しかし見方を変えると逆に牛に引っ張られているとも見える。

 

●心牛は自分の足跡、そして姿を見せ、自分を追いかけさせ、そして自分を追いかけるものが逃げないように、そして方向を導くように綱を引っ張る。私自身の体験でも、「今ここ」の実在は知らない間に姿を現し、水圧を感じさせて逃げられないようにし、そこにどう対応していくかを覚えさせる。

 

●私はいつの間にか「今ここ」の実在の流れから起きてくる感じや気持ち、思いを大切にして生きることを覚える。そしてこのことこそが私を、他の誰でもない私にしていく。つまり今ここを大切に生きることで「私が私になる」のである。この視点からすると、私は自分の力で「私になる」のではない。

 

●一方それも人が決して牛を離すまいと決意し、綱を引っ張るからこそとも言える。私には行者の知人がいて、いつもその方が修行をするのを見聞きして、それが「私になる」のに必要なのであれば、とても私には無理だと感じていた。しかしこの図を見て、これは視点をどこに持つかの問題なのだと気づいた。

 

●つまり人の視点から見れば、あくまで「行」が重要であり、修行を続けることが牛を御していくために不可欠のものと捉えられる。そこには「自力」が必要とされる。しかし逆の視点から見ると、牛に引っ張られる、つまり「今ここ」の促しという「他力」によって私になっていく。

 

●そして私は聞きおよぶような修行は決してできないし、「今ここ」でしたいとも思わない。だから「今ここ」に導かれるまま生きていきたいと感じている。ただそのためにこそ、「今ここ」を見失わないようにし、それがどこに向かおうとしているのかを感じ取ることは忘れないようにしたいと思う。

お問い合わせ