私一人の道を歩む

このようにいま私は生きるベースを求める上で、私や世界についての物語を変容させる「今ここに起きてくる実在」の流れが大切であると感じている。つまり今ここの流れこそが私の生きるベースになりうるのではないかという仮説を持っている。

 

考えてみると私は「今ここに起きてくる実在」の流れによって導かれてきたように思う。初めてそれに気づいたのは、最初についた仕事を辞めた時のことである。20代の頃私は銀行員をしていて、安定した収入を得ているエリートサラリーマンとしての自己概念を持っていた。

 

また当時銀行が経済の血液の役割を果たしていると思っていて、仕事自体には必ずしも違和感を持っていなかった。ただふとした時、私の中からこうした生き方をしていていいのだろうかという想いが湧くことがあり、それは時間が経つに連れ、ますます強いものになっていった。

 

それは水圧のようで常に私に何かを迫ってくる。しかしこうした体験は、簡単に人に言えるものでもないので、自分一人の胸に納めておいた。それで私はその「水圧を感じる体験」が、私一人に起こる異常なものなのではないか、さらにそれは何か危険性を秘めているのではないかと疑いを持っていた。

 

このように私は当時、そうした「今ここの実在の流れ」に対処する方法を知らなかった。だから私はこれまで私が作ってきた安定した世界を守ろうと、「今ここ」と葛藤を繰り広げ、心理的に疲れ果ててしまい、自分を傷つけたい気持ちが起こることもあった。

 

こうした中、父がガンにかかり、それをきっかけに私は銀行員を辞めることになった。これによってこれまで築いてきた私の自己の物語は崩れていくことになった。例えば偏差値教育の影響もあって、私には銀行員として生きることが社会的地位もあり、たくさんの人が通る広々とした道に見えていた。

 

だから銀行を辞めた時、優秀な友人たちがいる世界から一人落ちこぼれた感じを受けた。また銀行の時は病であっても出勤することが当たり前だったので、無職になって平日の昼間に家にいることに長い間罪悪感を感じた。与えられたものをこなすことが身についていて、誰からも課題や仕事を与えられない状況に慣れることができなかった。

 

しかしその中で私は徐々に私一人の道を歩みだした。フリーで仕事をし始めてしばらくすると、平日昼間に家にいることに対して罪悪感をひとかけらも覚えることもなくなった。課題や仕事を作るために企画し、自分から動くことの面白さも覚えた。

 

昔の自分を思い出す時、いかに自分がその当時作っていた自己についての物語に縛られていたかに気づかされる。今から考えればその罪悪感やエリート意識は、私がその当時属していた集団のもつ物語に同化し、そこから生まれていたものだったのだとわかる。

 

そして気づくと、「今ここ」と葛藤を繰り広げ、心理的に疲れ果ててしまっていた自分はどこにもなかった。そして銀行をやめるという選択に対し、身体はスッキリした感じ、間違っていない感じを持ち続けていた。私は私という物語を守ろうとして「今ここ」と葛藤することをやめ、それに従い私一人の道を歩むことを学んだのである。

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