デューイの衝動概念

体験からの学びのプロセスは緊張とコンフリクトに満ちている。そしてその統合が創造性と成長を保障する。そうであるなら私たちはまず、体験から学び成長するためのエネルギー(動機)がどこから生み出されるのかを問う必要がある。緊張を乗り越えコンフリクトを統合するには、大きなエネルギーが必要だからである。また体験からの学びには「何に向けての成長か」という方向性が欠かせない。それはどこから生まれてくるのだろうか。

 

こうした問いへの答えは、コルブ学習理論の源泉の1つであるデューイの思想の中に含まれている。それが「衝動」の概念である。デューイをはじめとするアメリカプラグマティズムの研究者であり、エマソンの「内なる光」という概念からデューイの「衝動」概念を位置づけ、アメリカ哲学界で高い評価を受けている齋藤(2012)からこの衝動概念をレビューしてみよう。

 

齋藤(2012)によれば習性と衝動は人間の学びと成長を理解する上での鍵概念である。習性はデューイにとって人間性と成長の基盤を理解する根本的道具とされる。それは単なる環境への順応ではなく、環境の能動的制御のための慣れとされる。社会的慣習としての習性、あるいは生活形式は個人の習性形成の基盤となる。しかしながら、個人の習性は独特な力によって社会的習慣を修正する。

 

そしてこの習性を再構築するのが、衝動と知性である。衝動は新奇さの種子を植え付け、古き慣習の統御を破るような生得的な傾向性である。デューイは衝動の機能を以下のように定義する。「衝動は、諸活動の再組織化が行われる旋回軸であり、逸脱の媒体であり、古き習性に新しい方向性を与えその質を変化させるものである。」


しかしそこには落とし穴がある。衝動は新奇さの源であるが新しい習性の始まりにすぎない。衝動は知性の機能、つまり「観察し、想起し、予測する」責任と「伝統や無媒介的な衝動以上に一層深く進む」勇気によって再度方向づけられねばならない。知性の導きによって、衝動は「客観的習性に体現され」ていく。知性の機能は、衝動を制御し方向づけることである。

 

デューイはウィリアム・ジェームスの時間的な出来事としての経験は、知覚的局面と反省的局面の間のリズムからなるとする二面的経験の思想に影響を受けている。経験は「その原初的統合性において、行為と題材、主体と客体の区分をもたず、未分析の全体性の中で両者によって構成される」。これは知覚的で「前認知的」局面である。これをもとに反省の選別的局面が培われる。衝動は原始的な局面において主導的な役割を担う。それは経験のリズムと循環を始動させる。

 

衝動を通じてわれわれは、生命と直につながれる。有機体は「知覚に身を委ね」対象に完全に「浸透した」状態で世界への徹底した「参与」あるいは直の住み込みを経験する。デューイはこの状態を「我が家」の隠喩で記述する。我が家にあるという原始的な感覚、すなわち内なる調和の記憶は、区分し反省する過程を開始した後ですら「基層として残り続け」あるいは「意識下の深み」の中に残り続ける。

 

こうした衝動は私たちの意志を越えて生まれてくる。「そのような時には、多かれ少なかれ風が思うままに吹いているような性質がある。同じ対象が存在している場合ですら、風がやってくることもあれば、やってこないこともある。それは強いることのできないものである」このように衝動は、予測不可能で移り気に到来する。それは人間の身体に起源を持ち、「発声を要求するざわめき」と関連づけることができる。

 

ところで齋藤(2012)によれば、このデューイの「衝動」概念は、エマソンの「内なる光」と密接な関係がある。エマソンは内なる光を直感あるいは本能と呼ぶ。それは内なる魂、自らの存在の感覚、「私である」ことの感覚、そして「心の統合性」を象徴する。これは精神的であるとともにプラグマティックでもある。それはどこか遠いところの実在にあるのではなく、日常のありふれた経験の中に、差しせまる故につかの間の「今」のなかにあると述べる。

 

エマソンは「内なる光」の可変的で予測不可能な性質を強調する。その意味はたえず行動の中で再発見される必要がある。「自分の天分を果たすためなら、私は父、母、妻、兄弟からも距離をおくだろう。そして家の戸口の上には「気まぐれ」と書きつけるつもりだ」(エマソン(2009)、P21)予測不可能で移り気に到来するデューイの衝動は、エマソンの気まぐれに類似している。そしてデューイはこうした衝動の力が、自己を信頼する思考の原初的な源であるという考えをエマソンと共有している。こうした衝動の性質からは、学習や成長には能動的な側面と同時に、与えられる側面、つまり受容的な側面が存在することがわかる。


ところでこの「内なる光」、そして衝動の概念はラボラトリーでよく用いられる<いまここ>という時間概念と密接にかかわっている。つまり衝動は<いまここ>にこそ生まれてくる。例えばエマソン(2009)はバラの隠喩として次のように述べている。「わが家の窓の下で咲いているバラは、過去のバラやもっと美しいバラを気にかけたりはしない。これらのバラは、あるがままに咲いている。神とともに今日という日を生きている。これらのバラに時間はない。バラというものがあるだけである。バラの一生は、どの瞬間を切り取っても完璧である。(中略)しかし人は何かを先延ばししたり、過去をふりかえったりする。いまを生きず過去を悔やんだり、自分を取り巻いている豊かさには目を向けず、つま先だって未来を予見したりしている。いまを自然とともに生きるようにならなければ、私たちは幸福にも強くもなれないだろう」(エマソン(2009)、P53〜54)

 

デューイは<いまここ>でのみ十全に生きられ経験されるような時間について、エマソンに通ずる感覚を共有している。そのような瞬間に人間が「世界との活動的で機敏な交わり」のなかにあり、あらゆる感覚が「高まった活力」を持つ警戒状態にあると述べる。この新しい瞬間に過去に作られた軌道は、可能なる未来への通路を見いだす。それは踏み固められた轍からでて、未知のものへと自分自身を投げ出そうとする、ある種厳格な断固たる意志を伴う。これは去る勇気、放棄する勇気、「新しくよりよい目標に向けて新しい道を創る力と勇気」を表明する。

 

時間的継続性の中での発展というデューイの思想は、単に直線的な前進、反復、あるいは以前存在したものの「再配分、再配置」ではない。それはエマソン的な非継続性の瞬間を必要とする。これを彼は「裂け目」としての「真正な時間」、継続性の中の「亀裂」、「決定的転機」の瞬間と呼ぶ。この時間概念のもと、彼は「真正なる個性」概念を導入する。真正な時間を生み出す変化の質は、「個人としての個人」が生み出し得る予測不可能な新奇性にかかっている。これは個別化の瞬間である。デューイは決定主義に対する要塞として、開放的宇宙の創造において個人的要素が果たす不可欠な役割に関するジェイムスの思想を認めている。これは「柔軟で開放的な衝動概念」であると言える。

 

このようにいまここに生きる中で、一人ひとりにもたらされる衝動、与えられる<いまここで起きてくるもの>が、学びと成長のエネルギーともなり、方向性にもなる。これが体験からの学びをもたらす源泉となるのである。