デューイ 「経験と教育」の要約

第1章 伝統的教育対進歩主義教育 

 

●人間は極端な対立をもって物事を考えがちだ。教育理論の歴史は、教育は「内部からの発達」いう考えと「外部からの形成」という考え方の対立であり、また「自然的素質を基礎に置く」という考え方と、「自然の性向を克服しその代りに外部からの圧力によって習得された習慣に置き換えられる過程」という考え方の対立であった。

 

●伝統的教育の考え方は次の3点に特長がある。

1、学校とは、過去に作りだされた知識や技能(=教材)を新しい世代に伝達すること

2、道徳的訓練とは過去に発展した行為の基準や規則に適合するように行為についての習慣を作ること

3、学校組織は、他の社会制度とは全く区別される一種の制度である(教室、時間割、学級分け、試験、規則)

 

●こうした伝統的教育に対する不満として、次のようなことが指摘される。第1に上からの、外部からの罰として課題(大人の行為基準、教材)を押し付けるが、それは幼い学習者が所有する経験の範囲を越えている。第2に、生徒が教えられるものに積極的に参加することを許さないほど、教えられるものと、学ぶ者との隔たりが大きい。第3に3教えられるものは、静的なもの、完成された所産であり、未来は、過去と非常によく似たものとみなされる。

 

●進歩主義的教育などの新しい教育実践の中の暗黙の教育哲学は、上から教え込むことは、「個性の表現と育成とを阻止することにつながる」というものである。そして教科書、教師を通じての学習は「経験を通じての学習」に対立する。このように新しい運動には、伝統的教育の目的や方法を拒絶しようとすると常に危険が伴う。むしろその2つから一段と新しい哲学を根本的に統一することが必要である。

 

●進歩主義的教育のかかえる問題として、教材と経験の組織化の関係が不明確なことがある。つまり外部からの押しつけは、年少者の知的・道徳的発達を促進するというよりは、むしろそれを制限しているというのはOKである。しかし、そうなら「未成熟な子どもたちの教育的な発達を促進するにあたって、教師および書物の役割は何であるのか」

 

●また外部からの統制を拒否するというなら、経験の内部に統制の要素を見出す必要がある。つまりより有効な権威の源泉を丹念に調べ突き止める必要がある。これは親密な接触(年長者の年少者への)が個人的経験をとおして、学ぶという原理を侵すことなく確立されうるのかという問題だ。伝統的教育の拒絶や全面的対立は、上記のような疑問を無視することになる。

 

●私たちは、過去の業績と現在の問題との間にある<経験の内部>に実際に存在する関連性を発見する必要がある。つまり過去を知ることが、どのようにして未来を効果的に取り扱う点で、有力な道具に転換されうるか、どうすれば年少者は、過去の知識が現在の生活を理解する上での仲介者になるような仕方で、過去を親しく知るようになれるか?ということである。

 

第2章 経験についての理論の必要

 

●あらゆる不確実性の中にある1つの永遠の準拠枠として、教育と個人的経験の間にみられる有機的関連がある。つまり真実の教育はすべて、経験をとおして生じるという信念である。しかし、すべての経験が本当に教育的なもので、同等であるということではない。教育的でない経験もいくらでもある

 

●例えばさらなる成長をゆがめる経験、感受性を欠如させる経験、凝り固まった言動を生み出す経験、怠惰で軽率な態度の形成を促す経験、経験同士が結びつかない経験などである。伝統的教育の欠点は上記の経験を多く生み出したことである。つまり経験の重要性を強調しただけでは十分ではなく、もたれる経験の質にかかっている

 

●具体的には経験がその後の経験に、どのように影響を及ぼすかである。つまりその経験が未来により望ましい経験をもたらすことができるように促すような質の経験を整えることが教育者に課せられた仕事なのだ。

 

●そしてあらゆる経験は、願望・意志とは無関係に、引き続き起こってくるさらなる経験の中に生きる。経験に根ざした教育の中心的課題は、継続して起こる経験の中で、実り豊かに創造的に生きるような種類の現在の経験を選択することにかかっている。これが「経験の連続性の原理」である。

 

●教育の哲学とは、なされなければならないことは何か、それはいかにしてなされなければならないかの枠づけである。伝統的学校は慣習、既存の型でやってこられたので、哲学は不要だったが、進歩主義的学校は切実に経験の哲学に基づいた教育の哲学が必要となる。

これは「経験の、経験による、経験のための学校」だ。

第3章 経験の基準

 

●教育が経験を基礎にして知的に導かれ処理されるには、経験の理論を形成する必要がある。そして連続性の原理は、教育的に価値ある経験とそうでない経験との間を識別する試みと関わりだ。こうした進歩主義運動は、アメリカ国民が委ねる民主主義の理念に調和しているように見える。一方伝統的教育には、専制的で過酷な状況がある。

 

●つまり進歩主義に好意がよせられる究極の理由は、「人間的な方法に対する信頼とその利用によって、およびその方法が民主主義との親密な関係にあることによって、個々人の異なった経験の固有の価値の間に識別がなされる」ことにある。そしてこの識別の基準として「経験の連続性という原理」がある。

 

●ところで習慣とは、特定の一つの固定した習慣というよりも深いところのもので、そこには態度すなわち感情的な知的な態度の形成が含まれる。それはわれわれの基本的な感受性や様式を含む。この習慣の特徴としてこの習慣が修正されると、それを望もうが望まないかにかかわらず、引き続き起こる後の経験の質に影響を及ぼす。

 

●つまり経験の連続性とは「以前の経験から何かを受け取り、その後にやってくる経験の質をなんらかの仕方で修正する」という両方の経験すべてを意味する。成長(身体的・知的・道徳的)することは、連続の原理の1つの例証(経験の識別の基準)である。例えば「成長」は多くの異なった方向になされうる。高度に熟達した強盗人間になることもある。

 

●こうして教育としての成長、成長としての教育の観点から<経験の識別の基準の結論>として次のように言えるだろう。つまり特殊な経路での発達が連続する成長に貢献しそれを導くとき、その特殊な発達は成長することとしての教育の基準を満たし、それに応える。こうして連続性の問題は、教育的経験と非教育的な経験を識別する。

 

●また経験は、個人の内側だけで進行するものではない。そして真の経験はその経験がなされる客観的条件をある程度変化させる積極的側面を持つ。またどのような環境が成長を導くような経験をする上で役立つかについて認識が必要となる。教育者は価値ある経験の形成に寄与する環境をどのように利用すべきであるのかを知る必要がある。

 

●このように教育される個人に内在する主観的条件に、客観的条件をかなり組織的に従属させるような教育計画を立てることは可能だ。この時外部からの統制によって個人の自由を制限しない形で、客観的要因が重要性を持ってくる。経験というものは、経験しつつある個人の内部で進行しているものに従属させられてこそはじめて真の経験である。

 

●しかし赤ん坊が泣いても何時でもミルクをやるわけではない。客観的条件は赤ん坊の直接的・内的な条件に従属させられるのではなく、赤ん坊の直接的・内的な状態との間に特殊な種類の相互作用がもたらされるように秩序づけられる。この「相互作用」が、経験の教育的機能と能力について解釈する第二の重要な原理を表現している。

 

●伝統的教育は外的条件のみを強調し、どのような種類の経験がなされたかを決定する上での、個人の内的要素に注意がはらわれていない。たとえば赤ん坊の教育のために食物・睡眠など経験を生じさせる条件を整備する責任は親にある。そしてその責任は過去の知識(医師、その他の)を利用することで果たされる。これが客観的条件による規制となる。

 

●個人が世界の中で生きるということは、個人が状況の中に生きることである。「なかに」の意味は、相互作用が個人と対象物あるいは他の人との間で進行していることを意味する。

環境とは、個人がもたらされる経験を創造する上での個人的な要求、願望、目的そして能力との相互作用がなされるための条件なのだ。

 

●こうして連続性と相互作用は、経験の縦と横の側面となる。個人が1つの状況からほかの状況へ移り変わるさいに、その個人の世界を取り巻く環境は拡張したり、収縮したりする。その個人は、別の世界に生きている自分を見出すのではなく、1つの同じ世界でこれまでと異なった部分、あるいは側面で生きる自分を見出す。

 

●こうして十全な形で統合された人格は、連続的経験が相互に統合されているときのみ存在する。また十全な形で統合された人格は、相互に関連する対象物の世界が構成されたときのみ存在する。このように相互に能動的に結合している連続性と相互作用は、経験の教育的意義と価値を測る尺度を提供してくれる。

 

●つまり学習者の内的条件(欲求、目的)と教育者の環境設定の能力が合致することが重要なのだ。伝統的教育の欠点は教育者が経験を創造するに際しての他の要素、すなわち教育される者たちの能力や目的を考慮しないことになる。こうして内的条件、環境条件との相互適応が欠如していく。

 

●このように学校教育は「自己の経験から学ぶ」という貴重な才能を潰している可能性がある。自分の経験から、その経験の中にある自分のためになるすべてを獲得することが重要だ。つまり我々はそれぞれの時点において、それぞれの現在の経験の十分な意味を引き出すことで、未来においても同じことをするための準備をしている。

 

第4章 社会的統制

 

●ところで経験を構成する2つの原理がある。1、相互作用の原理2、連続性の原理である。経験の価値を測る上記2つの原理はあまりにも密接に結びついているので、「個人の自由と社会的統制」という問題から議論を始めたい。教育から視野を外す時、普通の善良な市民は事実上社会的統制によく服従している。

 

●そして統制のかなりの部分が、個人的自由の制限を含んでいる事に気付かない。つまり個人の行動の統制は、その個人が含まれ分担している協同的で相互作用的な役割をもっている全体的状況によって効果的なものにされている。この時私たちは誰か一人の個人に支配されていると感じていない。

 

●このことは自由を侵害しないで、個人を社会的に統制するという一般的原理を説明する。秩序を打ち立てるのは、一人ひとりの人間の意志や願望にあるのではなく、集団全体を推進させる精神であり、統制は社会的なものである。つまりよく統制された中で権威(親、教師)が行使される時、それは単なる個人的意志の表明ではなく、全体としての集団の利害あるいは代行者として行使されている。

 

●ところが伝統的学校では、おとなの意のままに服従させる事柄で占められている。秩序が、生徒全員が分担して行っている作業の中にあるのではなく、教師が生徒を管理し秩序を維持している。ここから社会的統制の根源は、すべての個人が貢献する機会をもち、それに対して個々人が責任を感じるような社会的事業として行われる作業の性質そのものの中に存在していると言える。

 

●教育者はすべての個人が貢献する機会をもち、個人が活動そのものの中で必要とされる統制の主要な運び手となるような組織づくりが必要で、そうした活動を選び取ることができる教材についての知識に責任を持つ。統制上の失敗は前もっての次のような活動計画が十分思慮深く立てられていないことに帰着する。

①自分が扱う生徒たちに共通する能力、要求の調査

②これら特殊な生徒の能力を発展させ、それらの要求を満足させるような経験からでてくる教材、教育内容を提供するにふさわしい条件を整える必要

③教育計画は、経験する個人の自由が個別的に展開されるにふさわしい柔軟なもの

④個人の能力が持続的に発展する方向をしっかり示すにふさわしいもの

 

●経験の発達が相互作用から生じる原理は、教育が本質的に社会過程であることを意味している。それは生徒が共同体集団の形成にかかわる程度に応じて実現する。ところで教師は、共同体集団の中で最も成熟しているので、集団の相互作用と相互伝達において教師ならではの格別の責任がある。教師は外部的な支配者ではなく、集団の活動の指導者としての立場をとる。

 

5、自由の本性

 

●社会的統制の他の側面として「自由の本性」の問題がある。永遠に重要な唯一の自由、すなわち知性の自由とは、価値のある目的のために観察や判断がなされる自由であり、自由を「自由を運動する自由」「外的な身体的な活動の自由」を同一視することは誤解を生む。

 

●この種の自由は(制限から解放される自由)、力(目的を形成する力、賢明に判断する力、願望を実践したことからの結果によって願望を評価する力、選定された目的を実施する手段を選択し秩序あるものにする力)への手段としてのみ価値がある。

 

●願望や衝動(自然なもの)は、最初に示された形態を何らかの形で再構成しないと知的成長はない。これは最初の衝動を抑制することを意味する。つまり外的に押し付けられた抑制ではなく、個人自身の反省と判断による抑制である。これは思考することであり、一段と総合的で一貫した活動計画が形成されるまで、最初の衝動を即時的に表明することを停止させる。思考することは観察と記憶の結合を通じて衝動の内的抑制に効果を挙げる。

 

●教育の理想的な目的は、自制力の創造である。外的統制を除去しても、自制を生み出す保障にならない。知性によって秩序づけられていない衝動や願望は、偶発的な環境の統制下にある。気まぐれやむら気によって命令された行動をするためにのみ他者の統制を逃れても、得るものよりも失うものの方がはるかに大きい。それは自由の幻想を持っているだけだ。

 

第6章 目的の意味

 

●プラトンは、「奴隷」を他人の目的を実行させられている人と定義した。自分自身の盲目的な欲望のとりこになることもまた、奴隷になることである。伝統的教育では、学業における目標形成過程に生徒が積極的に協力できない。進歩主義的学校においても学習者の活動を導くような目的を形成する際に、学習者が参加することの重要性が強調されて良い。

 

●目的とは何か、目的はどのように生じたのか、目的は経験の中でどのように機能するのかの理解が重要になる。目的は当初衝動から生まれるが、即時的実行が邪魔されると欲望になる。しかしこれ自体では教育上の目的にならない。目的とは終局への見通しであり、衝動にはたらきかけることから生じる結果を見通すことが含意されている。

 

●目的の形成には複雑な知的作用が必要となる。具体的には周囲の状況の観察、過去の似たような状況で起こったことについての知識、(回想によって得られた知識、広い知識をもった人からの情報・忠告・警告)、得られた知識が何を意味するのかを理解するため、観察されたものと回想されたものとを結合する判断力である。

 

●目的が衝動・欲望と違う点は、最初の欲望が一定の確かな方法で観察された条件のもとで行動に移されることで、行動の結果を見通しての計画や方法に転換されることだ。こうして切実な教育問題とは、欲望に即応するような行動はとらず、その前に観察と判断が入り込むまで、初期の欲望を延期するだけの能力を身につけさせるという問題となる。

 

●欲望はそうでないと盲目的なものへと方向付けられる一方、アイディアを刺激し、それに推進力を与える。そして欲望はそれが実現されるであろう「手段」に転換される必要がある。教師の仕事は、衝動や欲望が生じるや、それを好機に利用する点を見定めることである。

 

●自由は目的が発展する際に、知的な観察と判断とが働いているところに存在するので、生徒が知性を実地にはたらかせることができるよう、教師は指導で自由を助長する。この時生徒への示唆が与えられることが必要だ。経験と広範な視野を持つ人からの示唆は、有効である。ただ教師の職権を利用して、教師の目的に強制して追い込むことは可能だ。

 

●このような危険を避けることが重要となる。まず教師は自分が教えている生徒の能力、要求、過去の経験について知的に気づいている必要がある。第2に集団の成員である生徒が役割を分担し、全体への貢献がなされ組織だてられていくような示唆によって、その示唆を教育計画や企画までに発展させようとすることが重要となる。

 

●教育というのは協同事業であって、指図ではない。教師による示唆は鋳物になるようにするための鋳型ではなく、学習過程にひたすら従事してきたすべての経験からの貢献を通じて、計画にまで展開されるべき出発点となる。展開は互恵的なギブアンドテイクを通じて生起するものだ。教師は受け取りもするし、与えもすることにためらってはならない。

 

第7章 教材の進歩主義的組織化

 

●伝統的教育は、教えられる生徒の経験の範囲外にある事実と真理から出発するという教育の進め方であり、その事実と真理を経験の中に取り込む方法と手段を見つけ出す教育であった。一方新教育は際立って対照的である。それはまず経験の内部に学習のための教材を見つけ出すことであり、次に経験されたものをより豊かに一段と組織化された形態へと進展させることである。

 

●伝統的学校の教科は、成人の判断で選択され整理される。そして教材は学習者の現在の生活経験の外部で設定される。教材は過去のものを取り扱う。新教育では上記への反発があり、学習者は現在と将来の問題を処理する能力を育成するのだと論じられるが、これは

過去を無視できるというゆがめられた極論である。

 

●自分たちの過去における根源を探究しないようでは、社会生活上の諸問題を処理する最善の方法を理解できない。学習の目的は将来にあって、そのための直接の教材は現在の経験にあるという健全な原理は、現在の経験が、いわば後方にさかのぼり伸びている程度に応じてのみ、有効に働く事ができる。つまり現在を理解する手段として生徒を過去に親しませる必要がある。

 

●進歩主義的教育の最大の弱点は知的教材の選択と組織化に関係していて、この運動の根本的問題である。教材について教育者は2つの事柄を同じように調べ確かめる必要がある。まずそれは生徒の能力の範囲内にあるか、そして学習者の内面で新しい考え方が形成され産出されるために、積極的な探求を生じさせるかである。こうして獲得された新しい事実や考え方はやがて新しい問題が提示されてくる更なる経験の基礎になる。

 

●教育者は、学習者が持つ現在の経験を利用し、そこから事実や法則を抽出させながら、科学的な理法を経験させるように徐々に導く責務がある。例えば物品とサービスの生産と分配の過程に対する科学の適用や人間が社会的に相互に支え合って生存する関係に対する科学の適用が求められる。

 

●教材が学習者の現在の経験の中で、科学的なものになるようにと見出され利用されることで、より適切に組織された環境的世界へと導いていく。そしてその大元には、知識を進歩主義的に組織化するという理念があり、知識の組織化を軽視することはダメである。しかし、知的組織化はそれ自体が目的ではなく、それによって社会関係、独特な人間的なつながりや結合力が理解され、一段と知的に秩序づけられる手段である。

 

●知識の科学的組織化の基本原理の1つは原因―結果の関係である。ただ、経験の中でその因果関係を学習者に把握させようとして、状況を利用することに失敗することがあまりにも当たり前になっている。こうした手段に対する結果の関係を認識する見地、つまり活動の組織化の原理は、極めて幼い者に適用されて良い。そして成熟度がますにつれ手段相互の関係の問題は、いっそう切実なものになる。

 

●学校における作業室や台所の正当性は、生徒たちを目的と手段の関係に参加させ、やがて事物が相互に作用しあって、結果を生み出す方法を考察するように導く(活動機会を提供)。こうした経験の知的な組織化に成功できない時、外部からの押しつけという反動が必ず生じる。つまり識別、思考、推論などが、雑多な知識の累積で押しつぶされる。こうした知的組織化に不断に注意を払うことに失敗すると、伝統的教育への反動を導く。

 

●ところで科学における実験的方法では、実験に用いられる理念が仮説であって究極の真理ではないとされる。そして理念や仮説は、それらが実施されたときに生じる結果によって検証される。行為の結果は注意深く観察される必要がある。そして実験的方法の中に表示される知性の方法は、理念、活動、観察された結果の軌道を保持することを求める。

 

●つまりこれは反省的再調査や総括の問題であり、経験における識別と記憶の両方が存在する。つまり反省することは、実施されたことを回顧することであり、更なる経験を取り扱う知性にとっての資本が蓄積される。この反省こそ経験の知的組織化の精髄、訓練された精神の真髄なのだ。

 

●経験が教育的なものであるためには、その(教育的)経験は教材、つまり事実や知識や理念についての教材の世界を拡大していくよう先頭に立って導く必要がある。そしてこういった条件は教育者が「教えることと学ぶことは経験の再構成の連続的過程である」とみなすことによってのみ満たされる。つまり教育者がこれから先に長い見通しをもち、現在の経験すべてを将来の経験に有力な影響を及ぼす動力であるとみなすことで満たされる。

 

●ただ、科学的方法は専門的技術ではない。生活世界での日常経験の意味を突き止める唯一確かな手段である。こうした科学的な方法とは1、理念の形式2、理念に基づく行動3、結果をもたらす条件の観察4、将来に使用される事実と理念の組織化である。教育的であるとは、経験のあらゆるレベルにおいて、経験の拡大的な発展がみられることだ。拡大的な発展がみられることだ。

 

第8章 経験―教育の手段と目的

 

●学習者個人と社会の両方の目的を達成するための教育は、経験(個人の実際の生活経験)に基礎づけられなければならないという原理こそが堅実なものとみなされる。

この本では成長し拡大していく経験の可能性が展開される中で、科学的方法を大いに利用し前進する場合に必要な条件のいくつかを論じた。

 

●経験に内在する可能性が、知的に指導され開発されうるものとして教育が取り扱われる。こうした新教育は困難な道である。なぜなら経験が知的に発達しているか、知的に導かれているかを検証することに従属するよう、経験を自制させることほど難しい訓練はないからだ。

 

●従って支持者たちの側での長期にわたる真摯な共同作業が必要である。新教育が成功するとしたら、そこで果たさなければならない条件を示す必要がある。新教育、旧教育などは区分け不要で、教育の名に値するものは何かを問う必要がある。教育が名目やスローガンではなく、実在するものでありうるためには、いかなる条件が満たされなければならないかという問いだ。そこには健全な経験の哲学必要とされる。

 

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