温故知新〜木村敏『あいだ』

●この本はラボラトリートレーニングの大先輩で、JICEなどで活躍された坂口順治さんが、自らの体験を語られた中で、ラボラトリーを学ぶのに役立つよと紹介された本である。今回読み直してみてまず、私が感じる“今ここ”の性質を本当によく表現しているなと感じている。

 

●木村はこの本の結びで次のように書いている。「西洋では自己は内面性として内部に、自然は外部にあるものととらえる。一方東洋では自然さの自然、「おのずからそのようにあること」(老子)が強調され内部外部の区別がない。日本語の自己=「みずから」、自然さ=「おのずから」に両方「自」が含まれることでもわかる。」

 

●「自然とは、行為者が何一つ手を加えず「おのずから」を「おのずから」のまましておくことであり、何らかの始まりがある起源からの発する運動が、行為者の意図で曲げられることなく、そのままあらしめることである。無限定の「おのずから」を個別的な「みずから」の中へすくい取って、自己として限定することである。」

 

●「筆者が人と人との「あいだ」、自己と他者との間主体的な「あいだ」という概念で考えているものは、この「おのずから」の動きのことである。これは水圧を感じ続けることであり、水流そのものとは別の存在様式である。これは別の感覚でしか知覚できない。「水圧」は水にとって「絶対の他」なのだ。」

 

●私も“今ここ”は自分の意志で起こすものではなく、他から与えられるものとして捉えている。またそれは水圧のように強くなれば結局それに従わねばならない性質を持っているように感じる。これは言い換えれば水圧の主である「おのずから」の動きが主語であり、私はそれを受動的に受け取るしかないことを意味している。

 

●これは私に大きな安らぎをもたらしてくれる。このコロナという災害の中で、しんどいことも多いし、何が正しいかわからないこともある。その中で私はこの「おのずから」の動き、つまり“今ここ”を待ち、それを受け取り、従うことだけが求められている。またこの“今ここ”は決して私や他者から取り去られることなく、常に共にあってくれる。

 

●次に私はこの本を読み返して勇気をもらった。というのも最近、私の中で何か新しいことに取り組む必要があるのではという想いが、湧いていたのだが、それがどんな感じなのかを腑に落ちる形で掴むことが、今ひとつできていなかった。しかしこの本を読んで、少し方向が明確になったように感じている。

 

●木村によれば、「音楽の演奏では(1)瞬間瞬間に音を作り出す行為、(2)自分の演奏している音楽を聴くこと、(3)これからの演奏を予期して一定の方向を与えるということが同時に行われているという。(1)は一瞬一瞬の現在において直接的な生命活動の一環としての音楽を産出している働きであり、これをノエシス的な面という。」

 

●「一方(2)、(3)は全体的まとまりを構成するための『意識されている音楽』であり、これをノエマ的な面と呼ぶ。ノエシス的働きをノエマ面に投影する事なく意識する事は不可能である。理想的合奏においては、演奏者はノエシス的自発性の中で自分の演奏をすると同時に、合奏全体ですら自分のノエシス的自発性のように感じる。」

 

●「音楽が音楽全体の流れの中で、自然に自分以外の演奏者に移る体験もする。こうした音楽の成立する場所は、誰のところでもない「虚の空間」であり、各演奏者から等距離にある。つまり「あいだ」にある。そして次に来るべき音が、「音と音とのあいだ」に内在する自己運動的な動的構造から生み出される。」

 

●「つまり「間」は未来産出的な志向性を有する。合奏の成立とは、「間があう事」であり、出会っている主体同士が共通の生命的根拠とのノエシス的繋がりを共有することで合奏音楽全体の世界と出会う。主体と主体のあいだは主体内部のノエシス的なあいだを包み込む事で1つの統合的なノエシス的原理として働く。これがメタノエシスである。」

 

●ここを読んで私は、師匠の中堀さんとラボラトリーを共にラボラトリーを作り上げていった体験を思い出した。そこでは一人一人がラボラトリー全体の流れをメタノエシス的に感じ取ると同時に、それぞれが“今ここ”を伝え合う中で新たな流れを作り出すことが起きていた。まさにここで書かれている合奏が起こっていたように思う。

 

●そして自分が過去や現在において真に生かされていると感じた時を思い出すと、この合奏に近い体験があるように思う。私は仕事においても、家庭においてもこうした関わりに恵まれてきた。ただ残念ながら師匠が年をとってラボラトリーに来れなくなってしまったように、そうした関わりのいくつかは今は失われている。

 

●そして私が最近何か新しいことをしたいと思う背景に、こうした「合奏」が共にできる関わりを新たに求めている私がいることに気付いた。もちろんこれもまた自分の意志だけでどうにかなるものではない。しかしこうした関わりは、それを求める“今ここ”があって、「おのずから」与えられてくるあろうと信じている。

 

 

 

 

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