安心して人と共にいることのできる環境を失うということ

●この一ヶ月あまり研修や授業がいくつかあり、また家庭内でも母の病のことなどがあって、ブログを書く時間が取れなかった。この間コロナが猖獗を極めていたが、そのため10月に予定していた負荷の大きい仕事がキャンセルとなり、ようやく少し落ち着いてこの文章を書いている。

 

●そして久しぶりに自分の中を感じてみて気づいたのだが、私は安心して人と共にいることのできたコロナ前の環境を失ってしまっている現実を受け入れがたく思っているようだ。そしてまだそれができる前提で計画を立てている私がいる。そのことを無理に受け入れようとすると悲しみというか、身体の一部を失うような大きな喪失感を感じる。

 

●こうしたことを感じたきっかけの一つは、8月の終わりから9月の初めにかけて南山大学の人間関係トレーニングという授業に参加したことだと思う。これは通常は5泊6日の合宿で行い、小グループで集中的に人と関わっていく。そして懸念のある状態から、自分らしく装ったり、演技しなくても大丈夫な安心して人と共にいる関係を作り上げていく。

 

●しかし新型コロナウィルスの感染拡大の中、今回は通いで、オンラインも選択可能という形で行われた。そして感染対策上、対面で行ったTセッションもマスクつきで、通常よりもかなり広く間隔をとらざるを得なかった。またマスク付きの関わりはとても体力を消耗するので、セッション数も少なくし、始まる時間を遅くするなど対策をした。

 

●興味深かったのは大変な感染状況にも関わらず、多くの学生さんが対面で行いたいという想いを持っておられ、3グループは対面で行われたことだ(1グループオンライン)。そして結果的には、セッション数や距離、マスクなど様々な制約がありながらも、授業の成果としては、望んでいたものがある程度生まれてきたように感じる。

 

●ただ感染への不安は常に付きまとい、相手に近寄って話をしたり、食事時でも仲間と一緒に食べながら話すという行為が難しかった。こうした行為が起きないように学生たちに注意を促さざるを得なかった。つまり多くの人は心から安心して人と共にいることはできなかったように思う。

 

●このことはとても不自然なことだ。よく「人との間の距離が縮まる」などと表現するが、グループでの人との関わりが深まり懸念が減少してくると、無意識に相手との距離が縮まり、接触が起きることがある。そこでは言葉だけでは伝わらない感じがやり取りされ、時に自分一人でいるよりもリラックスできる関係なども生まれてくる。

 

●しかしコロナの感染予防を意識すると、相手との距離を取り、マスクで顔を隠し、接触を避けることが起きる。そしてこれは通常、相手との関係を避けるときに行われる。そして関係が深まり、無意識に相手との距離が縮まると、それを注意しなければならない。そこには自然さや心からの安心がない。

 

●そして思ったのだが、こうしたことはこれからも続いていくだろう。新型コロナ感染症はもはやなくなることはないし、変異も起きていく。その中で感染対策を完全に忘れて、ノーマスクで多くの人と無防備に関わることはしばらくは難しいはずだ。私たちはすでに何も考えず人と共にいることのできた環境を失っているのだ。

 

●ラボラトリーでは、宿泊で一緒に食事をし、ノーマスクで同部屋に泊まることが多いが、これは安心して人と共にいることのできる環境を前提としている。私などはまだその観念に縛られている。しかしこうした高リスクの取り組みは余程のタイミングや参加者の覚悟などがないと実施することは難しくなる。

 

●こうして自分の中を探ってみて、改めて私は、私たちが安心して人と共にいることのできた環境を失っていることに直面しないといけないなと感じている。そこには耐え難い喪失感があるが、それでもこの新たな環境のもとで“今ここ”を大切に生きることを助け合うために、今できることを探る必要があると感じている。

 

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