5月の大阪の悲劇を検証する(1)

●オリンピックの期間が始まった。私はもともとスポーツが好きだし、ステイホームの時間を楽しみたいから、できれば見たい気持ちは強い。でも今回は基本見ないでおこうと決めている。IOCに巨額な放映権料を払う米テレビネットワークNBCのトップの発言が気にくわないと感じているからである。

 

●報道によると発言は以下の通りである。「私は(ロンドン五輪のときには)ロンドンに住んでいたが、交通問題にあらゆる人が不安を抱えていた。前回(リオ五輪)はジカ熱の問題があった。だが開会式が始まるとすべての人々が、その問題を忘れて17日間(の五輪)を楽しんだ。今回も同じようになると考えている」

 

●もしかしたら私がへそ曲がりなのかもしれないし、強く感じすぎなのかもしれない。しかしこの発言によって私はとてもバカにされていると感じる。というより何か強姦に近い暴力を受けている感じさえする。もっと言えば、この人やそれが代表するものから、人間というものそのものへの蔑視すら感じられる。

 

●オリンピックを見れば私は確かにのめり込み、感動し、その瞬間問題を忘れると思う。私にはそうした部分があることは確かだ。しかしそれで私は本当に自分を尊重することはできるだろうか。それはできなと思う。なぜなら“今ここ”で私はコロナの問題を忘れたいとは思っていないからである。

 

●むしろそこから目をそらせないで、今起きている事実や知見に直面し、この災害から受ける被害を最低限にするため、小さくても私にできることを見出したいと思っている。「始まってしまえば問題を忘れる」という人間観は、こうした“私が私になる”という人間の厳かさを見損なうものだと感じる。

 

●こうした訳で私は、オリンピックを見ることをやめたのだが、その時間を使って前から手をつけたいと思っていた、5月に起きた大阪での悲劇を検証しようと思い立った。このブログでも取り上げたが、5月の一ヶ月間だけで大坂では新型コロナウィルスで856人もの人が亡くなってしまった。

 

●なぜあの時大阪では、それほどたくさんの人が死なねばならなかったのか?なぜ感染しても10日以上ほっておかれ医療を受けることができなかったのか?自宅で症状が悪化し、高齢者施設でクラスターが起こってもなぜ入院させてもらえなかったのか?それは個人のせいなのか、大阪という地方のせいなのか?私にできることはあったのか?

 

●今またデルタ株によりコロナ感染者が急拡大している。この災害による犠牲を少しでも減らすためには、こうした検証が不可欠だ。しかし私は残念ながらまだ私が芯から納得できるような総合的な検証、つまりその出来事を多角的にふりかえり、次にどう繋げていくかの検証を耳にしていない。

 

●それならば私自身が取り組むしかないだろう。もちろん個人で行うことだからデータは十分には集められないかもしれない。しかしあらゆる利害から自由に、自分自身が「うん」と感じるまでやってみようと思う。そのことが私にとって、そして他の誰かにとっても大切であるような直感があるからである。

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