温故知新〜『対話の奇跡』 R.L.ハウ ヨルダン社(1970)

●今日はラボラトリーの関係者の間で広く読まれている本書を取り上げたい。訳者によると著者の「ルウィル・L・ハウ博士は、アメリカの実践神学にユニークな位置をしめる気鋭の神学者であり、神学ばかりでなく教育学・心理学にも造詣深く、その貢献は、広く宣教・牧会・教育・カウンセリングの分野に及ぶ」と紹介されている。

 

●神学者の書いた本だけに、神や精霊、教会などの宗教用語も出てくるが、彼は決して何かの信条を押し付けようとはしない。むしろ対話の本質に迫り、それを妨げるもの、そしてそれが生み出すものを考察している。私としては私の関わりの体験を、これほど上手く表現してくれる本は数少ないと感じている。

 

●ハウによれば「人類の将来は、人々の共存能力、すなわち、破壊的にではなく建設的に、防衛的にではなく創造的に、共に生きていく能力いかんにかかっている。」私たちは「お互いに心を開き、孤立の道を歩むかわりに、お互いに補いあいながらその相違を生きていけるように」対話を必要としている。

 

●彼によれば対話とは、「各人の存在と真実が他者の存在と真実に対決させられるような、2人またはそれ以上の人たちの間の真剣な語りかけと応答である」。対話は人を人格的存在にし、共同体を生み出す。死んだ関係を回復させることもできる。これこそまさに「対話の奇跡」である。

 

●私がこの本を読んで改めてハッとさせられたことは次の3点である。第一にこの対話を妨げる土壌として「各個人が自分自身の存在のために感じる(人間の存在論的欲求からくる)必要と配慮」があるとされることだ。簡単にいうと私たちは自分の存在への脅威を常に感じ、存在への保証と確認、生き続けていく勇気を常に求めている。

 

●こうした自己への関心が他者の存在論的配慮を求める叫びを聞くことを難しくする。これがひどくなると独白(モノローグ)が生まれる。自分の存在が確かめられることを求め、人格的な出会いを恐れ、自分自身と自分の意見に賛同する者にだけ寛大である。他者は自分に仕える者、自分の存在を確認するための存在としか考えられなくなる。

 

●一方対話(ダイアログ)とは意味の交流がある人たちの間の呼びかけと応答である。ありのままの自分を相手に与えようと努め、相手をありのままに知ろうと求める。自分自身の真理や意見を他者の上に押し付けようとはしない。これが対話の本質を示す関係、対話的コミュニケーションの前提となる。

 

●私がハッとさせられた第二の点は、この対話には危険があるという指摘である。彼によれば対話的人間は「他者に向かって全存在をかけて応答し、理性だけではなく心情を持って聴くことができる。本当にそこにいる自己防衛的ではなく、仲間と関係を持つことを喜び、彼らに負っていることを認める」

 

●こうした対話では自分自身を差し出す行為が求められる。しかし「差し出したものが床に落とされてしまい、誤解を受けてしまうこともある」。例えば子どもは差し出したものが喜ばれないと自分を閉ざしてしまう。グループで批判が喜ばれないと、グループに貢献するのを躊躇する。対話には危険がつきものなのだ。

 

●従ってハウは対話においては「みずからを与える訓練」が不可欠であるという。それはどんな危険があり、その成り行きがどうであろうとも、語られるべき時には語り、行動が要求される時には行動する責任を負う訓練である。対話に携わるのを差し控えると起こるべきことが起こらない恐れがあるのだ。

 

●だからこうした対話が実現するには、誰かが恐れつつも危険をおかして対話を始める必要があるということだ。ハウはいう。「話しなさい、そして言語と行動を解き放ちなさい。それが応答を呼び覚ますことがあるだろう。それが私たちの責任である」。これは対話を呼びかける勇気と言っていいだろう。

 

 

●そして私がハッとさせられた第三の点は、まさにこの呼びかける勇気が今の私に欠けていることに気づかされたことにある。これまで私はラボラトリーに参加し対話と呼べるような関わりを体験してきた。しかし考えてみるとこのラボラトリーは私の師匠の呼びかけで生まれたもので、私がイニシアティブをとったのではない。

 

●そしてこの本を読む中で、今この呼びかけをすることに怖さと躊躇を感じている私がいることに気づいた。私は対話というものが豊かな実りをもたらすこと、つまり今この世界に起こっている分断や人間を道具としてみる見方を克服し、私が私となることを可能にしてくれる道だとわかっているように思う。

 

●しかし同時にそこに内在する危険や障害がいかに大きいか思い知らされてきた。そこには受け入れられないこと、無視されること、馬鹿にされること、利用されること、攻撃されることなど私には耐えがたい過程が含まれている。だから及び腰になっている自分に気付かされているのだ。

 

●ただこうした私の勇気のなさにも関わらず、私の身体の奥底から他者への呼びかけが今ここに生まれてきているように感じる。可能な限り自分や人を無駄に傷つけることのないように周到に準備をして、私なりにこの“今ここ”で生まれている想いや感じに従っていけるといいなと思う。

 

対話の奇跡 (1970年)

対話の奇跡 (1970年)

 

 

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