温故知新〜『共同と孤立に関する14章』第2部 A・V・カーム/B・V・クロウネンバーグ/S・A・ムトウ共著/巽豊彦訳 中央出版社(1979)

●4月13日に取り上げた第1部に続いて、第2部も序から始まり、関心、離脱、与える、受ける、創造、同化、回帰について各章が割り振られている。今回は第2部を一章ずつ検討した後、ラボラトリーでよく読まれる「共にあること」を引用してみたい。それはこの言葉がこの本のエッセンスと言えるように思うからである。

 

●まずその人のありようを示すものに、他者に対してどのように「関心」を向けるかがある。人に関心がない自己中心的な人もいる。支配するため、自分の打算のために他者に関心を向ける人もいる。昆虫をピンで留めて拡大鏡で観察するように見つめる人もいる。

 

●一方でその人が“今ここ”でどのような気持ちや想い、身体の感じを与えられているのかに目を向ける人もいる。他者もまた私自身と同じように“今ここ”に応答することを求められる存在として尊重する時、私はその人がその人であることに敬意を払い、受容することになるだろう。

 

●しかしこうして他者に関心を向け近づく瞬間には「いつも遠のいて動機を調べ直す瞬間がともなっていなければならない。近づこうとするのは、ただ好奇心を満足させるためだけなのだろうか。それとも、人間の尊厳を重んじる気持ちがそこに加わっているのだろうか。」

 

●このように人を大切にする共同のためには、私はまず自分の動機、つまり“今ここ”にある思考、感情、空想などを確かめるための「離脱」が必要となる。またこの離脱によって、私ははじめて、(他者に対し)どこで賛成しどこで反対なのかがわかってくる。またわれわれが多くの領域で互いに異なっていることが自覚される。

 

●また「与える」ことは、ものを贈るにせよ自己開示にしろ、そのベースにある“今ここ”の想いや気持ちを分け与えることである。そして「愛を与える」とはその人がその人になる自由を与えることである。「私をして私自身たらしめてくれる人々、そういう人々が与えられているというぐらいすてきな贈り物は他にありえない。」

 

●同様に「受ける」ということは、提供されたものをわが物にするというだけではない。相手の人の“今ここ”の想いや気持ちを受け取ることである。そこを受け取ると気持ちよく関係を結ぶことができる。もちろん私の自由を束縛しそうな底意のある贈り物もあるが、それは丁重に拒絶することができる。

 

●また自分に向かい合い“今ここ”を大切に世界と関わるとそこに「創造」が起きてくる。しかし創造は常に歓迎されるわけではない。「創造的な生活ができなくなった人は、創造性が画一性をおびやかすかのように感じる。」こうした共同体の中で「私はこの賜物を軽んじて人格をしなびさせることもできるし、大事に育てることもできる。」

 

●さらにこうして離脱によって自分に向き合い、他者と共同する中でなじみのない思想とか感情と出会うことがある。これを放置しておくと「私の生活に害を及ぼしかねない。よそものの知識、いら立たせる意見、胸につかえる感情などが、分裂や混乱のタネになりうるのである。」

 

●つまりこれらの体験は「同化」、つまり体験からの学びによって自分の中に取り入れられなければならない。もちろんこの「同化にあたっては、自分なりのペースを見出すことが肝要だ。」さもないと「本来の私自身を忘れてしまいかねないのだ。」

 

●このように「他者に向かって身を乗り出したら、その出会いの成果を自分のものとするため、私自身に立ち戻らねばならない。」これが「回帰」である。「私が自己を最大限取り戻したとき、私の人生のあり方がもっともはっきり自覚される。回帰を伴わない行動は単なる消耗に過ぎず、群衆の支配に引きずられてしまうかもしれない。」

 

●「回帰するとき私は、自己と他者と世界のもっとも深い意味に参加するようになる。私は、全存在の一部になったと感じる。そういう参加は、攻撃的な征服というよりは謙遜な受容であり、語ることよりは黙することである。このような深遠な回帰、充実した自覚は、この世界に新たな仕方で存在せよという誘いとして、恵まれるものなのである。」

 

●この本を読み直すことによって、“今ここ”を大切に生きることは「私が真に私になる」ことであり、しかも同時に真に共同体の一部になることでもあることを再認識させられた。自分の“今ここ”をないことにして他者や世界に合わせることは、自分だけでなく共同体をも損なう行為なのだと改めて感じる。最後に「共にあること」の原文を引用しておこう。

 

「共同の秘訣は、昨日と今日、今日と明日をつないでいる何気ない出来事を、一つ一つしっかり生き抜けるようになることだ。共同とは、われわれのなかに、またわれわれの周囲に現実に存在するものを、見たり聞いたり、それに触れたり、味わったりすることだ。思考、感情、空想といった個人的能力を結集することだ。つまり人格としての自己に面と向かうことである。」

 

「共同とは、ささやかなものに心を寄せることだ−一枚の草の葉、飛び回る虫、ふくらみゆくつぼみ、巣立ったばかりの小鳥など。共同とは、美しい旋律に耳傾けることでもあるが、それと同時に、聞き馴れた音にも注意を向けることだ−吹きすさぶ風の声、軒端うつ雨の響き、道ゆく人の足音、幼子のすすり泣き、工具のうなりなどに。共同とは彩色豊かな絵画に接することでもあるが、それと同時にありふれた物の姿に美を見出すことだ−バラの花の赤さ、思いにふける顔、新緑のみずみずしさ、優雅な裾さばきなどに。」

 

「共同とは互いに耳を傾けあうことだ。友情を持って接する時、自分には役割があるという生き甲斐が感じられてくるのである。共同とは、自己と他者の織りなす世界にかかわることだから、一人楽しむ想像の世界にかくれこんだりはしない。むしろ人々の苦悩と努力に力をあわせるのだ。」

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