新型コロナウィルスと私〜私が私であることの大変さと大切さ

●ひと月ほど前、英国株に備える必要性を感じ焦燥感に駆られていると書いた。あの時は私なりに事前の準備を促すことで救える命があるかもしれないと感じ焦っていたのだ。しかし今現実に大きな感染の波がやってきて、あの時予測した通り大阪では入院できない人が溢れ、子供達にも感染が広がってしまっている。

 

●これから起こることを予測すると恐ろしくなるが、こうなってしまってから私にできることはほとんどない。だからかえって心の負担は軽くなっている。とは言ってもこのひと月感染拡大の中で、“今ここ”で起きてくる気持ちや想いを大切にするという単純なことがとても大変なことだと再認識させられた。

 

●例えば私は仕事でラボラトリー方式の体験学習の研修をしているが、グループワークなどが入るため三密になりやい。今週も一つ研修の予定があったのだが、英国株がどのくらい感染しやすいかがまだわかっていない中で実施するのは受講者にも自分にもリスクが高いように感じられていた。

 

●しかし私に研修を依頼している組織は実施することを決定したのである。私としては意味を感じてやってきた大事な研修でもあるし、長年お付き合いしてきた先でもあるので、何とかやりたい気持ちが強い。また私が断ると研修の中に穴が開く時間が生じるが、研修担当者は困るだろうなという思いも湧く。

 

●こうした葛藤のなかで先方の担当者と何回も話し、結局お断りすることにした。もともと感染拡大している状況では私の方からお断りすることを事前に了承してもらっていたので、こうして自分の“今ここ”を大事にすることができた。しかしこの決断に至るのは私には大変だった。

 

●そしてそれが可能だったのは組織の外の人だからだろうなと感じている。組織の中にいたら、自分に命令できる誰かが実施を決断すれば私がどれだけ危ないと思ってもやらざるを得ない。一方私には責任もなくなる。その中では私は自分の“今ここ”を大切にすることを諦めざるを得なかっただろう。

 

●でも「“今ここ”を大切にすることを諦める」ということは重大な意味を持つように感じる。これは何が大切かを感じ考える責任、それが引き起こす結果に対する責任を人に委ねて、他の人の意図にそのまま従う状態になっていると言えるからだ。そしてその他者が悪い意図、間違った意図を持つ時、私はその意味を検証せずに実行してしまう。

 

●そしてコロナの状況は、こうした仕事場面はもとより、人と会うかどうかという何気ない行動においても、葛藤を引き起こしている。会いたいという想いと会うことの怖さが常に今ここで葛藤する。本当に“今ここ”を大切にして私が私であることを全うするのは大変だと思う。でも今こそそれが大切であるようにも感じられている。

お問い合わせ