「役に立つ私」というラベルを剥がす

●2度目の緊急事態宣言によって予定していた研修がなくなるなど、年明けから再びステイホーム中心の生活をしている。身体に無理のない生活ができるという良い面もあるが、心理的には揺れを感じている。コロナへの恐怖が強くなる時、家族内の安穏とした暮らしに過度に依存していると感じる時もある。

 

●中でも最近私が特に気になっているのが、世間から取り残された感じ、自分が何の役にも立てなくなってしまった感じである。自己有用感と言うのだろうか、そうしたものが感じられなくなっている。そして何でもいいから動いてみたい、仕事をしてみたいという気持ちが湧いてくるのだ。

 

●もちろん冷静に考えれば、今ステイホームすることは、自分にも他者にも大切なことだし、高齢の母がワクチンを打つまで感染をできるだけ避けるのは理にかなっている。それにもかかわらずこうした不合理な焦燥感が私の中にあり、しかもそれは何か渇望のような強いものを含んでいるのだ。

 

●そこで思い切って時間をとってこの気持ちに焦点を当て、感じ、考えてみた。そして気づいたのが、私がこれまでの仕事や活動の中で本当に意味ある体験をしてきているということだ。グループで他者と共に生かされた体験、研修で参加者が“今ここ”に開かれたように感じられた体験などがそれに当たるだろう。

 

●こうした体験は私が「私であること」に満足をおぼえ、自信を与えてくれている。自分が人の役に立つことができるという自己有用感を持つことができる。これは生きる上でとても大事なことだと感じる。しかしよく見てみると、この自己有用感のようなものこそ、今の私の焦燥感や渇望を生んでいる原因のように思える。

 

●いつの間にか私は、人の役に立てるという満足感やそうした自信のある「私」でいることが、当たり前であると認識してしまっていたようだ。そしてこの自己有用感を再確認できる体験を繰り返し求めてきた。ところが今コロナでこうした体験を得ることが難しくなり、焦燥感や渇望が湧いてきていると気づいたのだ。

 

●これは怖いことである。私は “今ここ”で生まれてくる気持ちや想いを大切にすることの大事さを仕事や活動で伝えている。それが自分や人を大切にすることにつながると思うからだ。しかしいつの間にか自己満足や自信を保ちたいという私欲のために行なってしまっている可能性があるからである。

 

●こうした気づきの中でいくつかのことを思った。まずナラティブ心理学では人生の組織化原理としてナラティブ(語り・物語)を捉える。この人生を物語にして意味にまとまりをつけると考えるのだ。そして自分が無意識で持っているストーリーを書き換えることでよりよく生きることが可能になるとする。

 

●そして私は無意識のうちに、これまでの体験をストーリーとして組織化し、人の役に立つ「私である」という意味を受け取ってきたように思う。これはこれまで私を生かしてくれていた。しかしこのストーリーは繰り返し再確認を求めてくる。だから今の私にとって焦燥感や渇望の源になってしまっている。

 

●こうして想いを巡らせる中で私は、先日長尾文雄さんに紹介してもらった「障害受容」という言葉を思い出した。WHOでは障害を「心身機能・構造」に問題が生じた状態、「活動」に問題が生じた「活動制限」、「参加」に問題が生じた「参加制約」の3レベルが統合されたものと捉えているらしい。

 

●このWHOの定義からするとコロナの中の私は、活動も参加も制限されるという障害を持っているとも言えるだろう。だから今までできたことができなくなることが生じても不思議はない。そこではこれまで築いてきた自己が揺るがされる。今私には「役に立たない私」を受容していくことが求められているのだ。

 

●そしてこれと関連して昨年南山大学人間関係研究センターの講座で自己概念を再検討する実習をしたことを思い出した。それは自己概念を何十個かの言葉にしてラベルを作り画用紙に貼り、もう一度今の自分にフィットしたものを探る実習だった。この自己概念はまさに昔の体験を基盤とした物語によって作られている。

 

●私はその際、たくさんのラベルが剥がされたこと、つまり今の自分に必要な自己概念(=物語)が少ないことに驚いた。これを思い出し私はイメージの中で「有用である私」「役に立つ私」というラベルを自分から剥がしてみた。すると不思議に焦燥感や渇望感は消え去り、心安らかにいられるようになったのだ。

 

●この時、多分次のようなことが起きたのだと思う。私は刻一刻と変化していく。その中で自己概念やそれを支える物語も変容せざるを得ない。しかし私や他者、世界を変化させる力、つまり私を生み、私を私にならしめ、物語を生み、時に障害を与え、最後には死に至らしめるこの力は常に“今ここ”に存在している。

 

●この力はまた、物語や意味を超えてただ存在し流れている。いのちに「なぜ」はないのだ。そして私が今までの物語に頼れなくなった時こそ、その実在を感じやすくなる。そしてこの流れの実在を感じる時、生きることに条件は要らなくなる。役に立たない私にも、ただいのちはこの瞬間も与えられ続ける。

 

●うまく言葉にできないが私はこのようなことを感じ、心安らかになったのだと思う。これからも私は“今ここ”を大切にする活動を続けていきたいと思っているが、それが自分を支える条件になってしまわないようにしたいと思っている。そのためにもいつもこの“今ここ”の実在を感じていたいと思うのだ。

お問い合わせ