それでも私は「怖い」と言う

●今再び日本の多くの地域で新型コロナウィルスの感染者が増加している。4月ごろの感染者数より多くなる地域もあって、世論調査などを見ても多くの人が心配していることが感じ取れる。私自身も残念だが、毎年家族で行っていた温泉旅行をキャンセルせざるを得なかった。

 

●こうした状況において、職場や学校に行く必要のある人々の中で葛藤が強まっているように見えている。普段通り働いたり、学んだりしなければならないというプレッシャーと、感染したくない、愛する人に感染させたくないというプレッシャーの板挟みが起こっているように感じるのである。

 

●そして今私は、ウィルスが怖いという事実を認めること、怖さを感じて感染を避ける行動を取りたいと率直に言うことが難しくなっているように思う。端的に言うと「普通」の生活を危うくするような議論や意見を言いにくくする社会的な空気があるように感じるのである。

 

●まず私が恐ろしいなと思ったのは、第一波の際ウィルスの危険性を強く主張してくれた北海道大学の西浦教授が、発言を非難され、公安警察に守ってもらわなければならないほどだったと言われていたことだ。こうした「攻撃」のせいか、今危険について警鐘を鳴らしてくれる専門家の声が届いてこない。

 

●また私の住む大阪では知事が学校を一斉休校しないと宣言されている。つまりインフルエンザのように、ある程度の感染は仕方がないと考え、発生状況にあわせて学年単位や学校ごとに休校するに止めるのだ。そして今多くの学校では、分散登校もやめて、いつもの通り授業が行われている。

 

●他の組織に対しても同様の考え方がされていて、基本的に休業は求めない方向で行政は進んでいる。このゼロリスクを求めない「withコロナ」、「新しい日常」という考えを私は理解できるし、感染がある程度抑えられている状況では必要な考え方と言える。

 

●しかし感染が再拡大する中では、この方針は下手をすると「普通」に生活を続けることへの圧力となる。例えばエアロゾル感染が確認された以上、閉鎖空間である地下鉄に一定の危険性があることは明らかだ。しかし「普通」を求められると、満員電車が怖くて通勤できないとは言えなくなる。

 

●また学校に通う子どもたちの中には、三世代で暮らしている人、既往症を持つ人と暮らしている人もいるだろう。自分は感染してもリスクは少ないが、こうした家族に感染させてしまうかもしれない怖さは想像するに余りある。しかし「普通」であることを求められると、学校に行かない選択肢は取りにくい。

 

●しかもこのウィルスは初めて人の世界に出てきたものなので、私たちの知識は十分ではない。例えばなぜ日本などのアジアで欧米に比べ感染者や死亡者が少ないのかの理由は完全には分かっていない。仮説の段階である。またエアロゾル感染が起こると言うことすらもようやく明らかになったばかりだ。

 

●そしてある地域内で感染者が急増しエピセンター(震源地)化すると、エアロゾルが増え、空気感染のように広がるために、日本でもちょっと前のニューヨークや今のフロリダのような爆発的な感染が起こる可能性があると指摘する人もいる。今このウィルスに関する知見は日々刻々と更新されているのだ。

 

●さらにこのウィルスは人から人へと感染を繰り返す中で今まさに変異の最中にある。スペイン風邪のように強毒化する恐れも当然ある。こうした中では私には警鐘を鳴らすものも含め、ウィルスに関するあらゆる最新の研究や知見に開かれ、それらをベースに柔軟な対策を打っていくことが必要と思える。

 

●だから今、誰かが「普通」と言っていること、当然のように求めてくることを鵜呑みにするのはリスクが高いと感じている。そして私は今こそ自分の中に起きている「感染への怖さ」や「愛する人にうつしたくない」と言う想いから目を背けず、いつも以上に焦点を合わせていく必要があると感じている。

 

●そして周りがどれだけ「普通」を求めてきても、「それでも私は怖い」、「それでも私は愛する人を守りたい」と勇気を持って伝え、行動することが大切なのかなと感じている。私や愛する人が感染してしまった時、誰も私の代わりに責任をとってはくれない。これは取り返しのつかないことなのだから。

 

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