「何故」の力、「何故なし」の力2

●この「なぜ」「何のため」という問いは、時に私を断罪し、無意味さを感じさせる力を持つように思う。若い時私は、どうしてもやりたい仕事を見出せなかった。「何のため」に働くかに答えを見出し、着実に歩みを続ける友人を見て自分はダメだなと感じさせられた。

 

●今新型コロナウィルスのために家にいる時間が長いが、医療者の奮闘などを見て、ふと何の役にも立たない自分がふがいなく思えてくることがある。今この時間を「何のため」に過ごしているかという問いに答えることのできない私、つまり何の役にも立たない私に軽い絶望を覚えるのだ。

 

●こうしたことは過去にもあった。銀行を辞めて今まで生きてきた世界から落ちこぼれてしまったように感じていた時、平日の昼間から家にいる自分を責める私がいた。この文章にしても今「何のために」を問うと、誰も読まない文章なのに書く意味はあるのかと感じられ、やめてしまおうかなと思う。

 

●そして私を断罪し無意味さを感じさせるのは、特にこの「何故、何のため」という問いが「生きる」ことに向けられる時であるように思う。私のなかに社会や人に役立つこと、認められることが必要であるという考えがあるので、そうでなく生きている自分をゆるせなくなる。

 

●無意識のうちに自分に絶望し、生きる意味がないと断罪する方向に向かってしまうのだ。そしてこの問いは自分にだけでなく他者にも向かう。そうすると相模原事件のように「生産性のない障害者は生きる価値がない」などと他者を断罪する方向に向かってしまう可能性がある。

お問い合わせ