『十牛図〜自己の現象学』(上田閑照)を読んで5

●もう一点、この第八図の解説で私に役立つと思えたのは、「何故なし」ということである。上田は西田哲学の考えを取り入れ、もともと「自己」というあり方が場所的であると指摘する。例えば「父親としての自覚」が生まれるということは、自分をでて、家族という場に自分を見出すことから生まれる。

 

●場に連関して自分を捉えることは、自分がどのような世界に住んでいるかということであり、そこに「なぜ」「何のため」という意味が生まれてくる。そして親子の問題はその場だけに終わらず、その底に人間の問題を含む。そうすると今度は一人の人間、死すべきものと死すべきものとの関わりという場から「自己」を見出す必要がでてくる。

 

●こうして次々に底の底まで探っていくと最後にあらゆる区分けや対立を超えた場、つまりすべての形を超えた場に至る。それは禅の世界や西田哲学では色々な述語で呼ばれているが、私にはそれが前述の、形を生み出し維持し、変化させ壊していく力・流れとしての「今ここ」であるように感じられている。

 

●そしてこの底の底では、家庭の中での自己の意味<社会の中での自己の意味<人間としての自己の意味の場というように、あらゆる意味連関そのものの意味、最後の意味が問われる。しかし上田によるとここは意味空間ではあるが、もはや「なぜ」「なんのため」と問うことのできない。

 

●あらゆる形を超えた場では、意味を言葉という形で表現することはできない。しかし意味がないということではない。むしろ「今ここ」は実在としてあり、それを実際に感じ取ることができる。この存在に触れ、そこに充足を感じた時、私はもはや「なんのため」を問う必要がなくなるのだ。

 

●行動において「何のためにそれをするのか」というミッションや使命が重要だという考え方がある。私もそれは否定しない。しかし「何のため」を本当に突き詰めて考えて行った時、私は形を超えた「今ここ」の実在の流れに触れることになる。そしてそこには「何故なし」が出てくるように私には感じられている。

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