新型コロナウィルス危機と私

●今新型コロナウィルスが世界で猛威を振るっている。ヨーロッパで感染者、死者ともに急増し、外出や移動の制限や国境封鎖、集会の禁止などの措置が取られている。まさに一ヶ月前には世界の誰もが想像できなかったような状況が起きている。

 

●中でもイタリアではあまりにも患者が急増したため、生き残る可能性の高い患者を優先して治療するトリアージが行われていると報じられている。余命が長いもの、治る確率の高いものに医療リソースを集中するのだ。そしてこのことはすなわち、余命の短い高齢者が見捨てられることを意味する。

 

●こうしたニュースに接すると、選択をしなければならない医療者はどんなに辛いだろうか、また見捨てられる患者の家族はどんな気持ちなのだろうと思ってしまう。そしてそこに住む人々、とりわけ高齢者や基礎疾患のある方はどんなに恐ろしいだろうと想像してしまう。

 

●また私が情報収集する限り、こうしたヨーロッパで起こっていることが、日本で起こらない保証は何もないように感じている。楽観的観測も伝えられているが、このウィルスが報じられている通りの性質を持つなら、いつかのタイミングで日本でも流行と呼べるものが起きざるを得ないように思う。

 

●こうした中、今私には色々な気持ち・感じ、反応が生じている。一つはこうした事実や知見を歪曲して軽視したい気持ちである。データを直視しないで根拠なく「大丈夫だ」と思いたくなる。多分これはあまりにストレスが高くなりすぎたため、脳が防御しようとするからだろうと思う。

 

●もう一つは、自分が揺さぶられる感じである。日頃しているラボラトリー、研修、勉強会などが全てキャンセルとなり、改めて自分が何者でもなく、何の役にも立たないように感じている部分がある。なんだかんだ言ってもそうした自己概念の部分で自分を保っていた私があるなと改めて感じている。

 

●さらには恐怖心やもどかしさである。私は80代後半の母と同居しているが、私自身が感染源にならないようにしたいと強く願っている。しかし当然そのリスクはゼロにできない。だからちょっと咳が出ただけで、大丈夫かと怖くなる。それなのに母が平気でリスクを冒すのを見て、もどかしく感じている。

 

●こうした中、いま改めて今年の初めに病の中で立てたねらいの言葉を思い出し、慰めを得ている。それは次のようなものだ。「見通しのつかない変化(来年があるかわからない)の中で、今ここを安らかに信頼することに力がある。そして今ここでできることに集中する」。

 

●こうした危機の中でも、私には「今ここ」の実在の流れが与えられている。そしてこれまでもそうだったように、私にはこの「今ここ」の流れに従い、委ねること以外に、生きるベースはない。このベースに立ち返って初めて、私は心安らかに、いま起きている現実に対処できると感じている。

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