今ここと自己という物語の変容

さて私が何のために、何を大切にして、どのように生きていくのかのベース、「私が生きる知」を探求する上で、今ここにある実在に裏打ちされた言葉で語られた物語かどうかを見分けることが大切であることを考えてきた。私は実在のない恣意的な言葉で語られる物語に注意する必要がある。

 

ところでもう一つ注意が必要と思えるのが、こうした実在に裏打ちされた言葉で語られる物語は常に変化しうるということだ。新たな経験によって常に新たなフェルトセンスが今ここに生起し、その象徴化によって自己の物語、そして世界の物語は塗り替えられていく。このことは何を意味するだろうか。

 

一つはこの世界の中で私が「何のために」、「何を大切に」「どのように」生きるかのベースを求める過程には終わりというものがないということだ。新たな経験によって自己や世界の物語は変化するから、生きるベースもまた変化する。この物語には完成形はなく、常に経験に開かれている。

 

もし世界や自己についての物語が閉じられたもの、変化しないもの、つまりは究極のものと主張されたなら、その世界は非常に危険だということだ。私をその世界に閉じ込め、エージェント状態に貶める可能性を持つ。そしてその物語は今ここの実在に裏打ちされていないだろう。

 

逆に言えば常に変化することだけが変わらない。世界や自己の物語は、新たな経験の中で今ここで新たに起きてくる実在によって常に塗り替え続けられる。だから私には物語の中味と同様、「今ここに新たに起きてくる実在」の流れこそ生きるベースを求める上で鍵になると感じられている。

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