身体の知恵

前回、これから私が何のために、何を大切にして、どのように生きていくのかのベース、つまり「私を生きる知」を学び問うためには、私が「私を生きる専門家」として、現実状況に向き合い、それを「省察」すること、つまり体験から学んで行くことが必要であると書いた。

 

ところでここで学び問う「知」は、もちろん大学入試で測られるような知ではないだろう。また科学的知見や技術的方法についての知でもない。それはこの私が本当にこれでいいのだと心から腑に落ちるように生き、そして死ぬことを可能にしてくれる「私についての知」である。

 

こうした知についてより理解を深めるには、フォーカシングを創始し『体験過程と意味の創造』という本を書いたジェンドリンの考え方が役立つように思う。彼は哲学者として自分のテーマを追求する過程で、心理学者のカール・ロジャースに弟子入りし、共同研究をすすめた。

 

ロジャースは、自分についての見方、捉え方である自己概念と経験の関係を追求した。そして、自己概念とあわない経験を排除してしまうのではなく、新しい経験を受け入れ、新しい自己を発見していく中で、自己概念と経験の一致が起こり、自己成長が促されると考えた。これが「経験の受容」の考え方である。

 

ところでジェンドリンによると、物事や問題・人に対し「どう感じる?」と問われた時、何かが感じられていてもそれが何だかわからない、よくわからないけど、もやもやしている、胸が重苦しいなどの「感じ」が起きることがあるという。はっきりしたイメージ、言葉、感情になる前の未分化な「感じ」である。

 

これをジェンドリンは「フェルトセンス」と呼んだ。これを無視してしまうと、経験の受容による自己成長は起こらない。ジェンドリンはこの未分化の「感じ」に注意を向け、それが言葉やイメージになっていく(象徴化される)ように丁寧につきあうことで、経験の受容が促進されると考えた。

 

具体的にはこのフェルトセンスは、(例えばある人とのかかわりにもやもやした違和感がある)現状の自分を示すとともに、自分がよりよくあるための変化の契機を含んでいる。(何がこんなにもやもやするの?何が必要なの?)そしてこれが象徴化され受容されることで、その変化が実現していく。

 

そしてこうして体験が言葉やイメージ(象徴)になっていくことで自己概念の中に取り入れられるプロセスが「気づき」である。これはまさに「私についての知」が生まれる瞬間と言える。このように彼は、私たちが受容を求められる経験について、頭でとらえるより前に身体は知っていると考える。

 

ところでフェルトセンスに丁寧に焦点を当て、経験が受容されると、身体的特徴として、必ず身体に何かがほぐれた、気持ちのいい感じが伴うとする。それは「そうそう!」「そうそれ!」と感じられるものであり、まさに「腑に落ちる」感じを伴うものなのだ。

 

このように私は、「私を生きる体験」から起きるフェルトセンスを大切にし、「腑に落ちる感じ」を頼りにすることで、これから私が何のために、何を大切にして、どのように生きていくのかのベース、つまり「私を生きる知」を学び問うことができる。これは頭だけではない、身体の知によって可能になるのだ。

 

 

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