教育と科学的方法〜経験を巡って

Tグループを中心としたラボラトリートレーニングはよく研究が少ないと言われています。CommentsAdd Star

確かに論文を検索してみると、60年代の草創期から10数年間にまとまって生み出された後、十分な数の論文がありません。論文の数が多いのはちょうどTグループの流行期にあたり、この研究で研究者になれた時期にあたります。


論文の数が少ないのはこれだけが理由ではないと思います。まずTグループではとても深い体験が起きるので、これを研究の枠組みで解き明かすことはとても難しいと感じます。論文として広く認められる実証研究ができないわけではないのですが、それが取り扱える範囲はいわば「浅い体験」にとどまる傾向があり、Tグループの実践者にとって、意味が薄く感じられるのです。またそのとらえ方が非常に一面的に感じられます。


しかし考えてみると、これは「教育」という実践にもあてはまることでしょう。ボルノウはその著書の中で、経験ということを再吟味して、例えば経験を積んだよい教師に成長するという「経験」をいわゆる実証主義的に解き明かすことが無理であることを述べています。


これはこれまでその教師が持っていた子ども観(世界観)を打ち破る新しい体験(例えば失敗体験など)が起こり、それによって子ども(世界)への自分の見方自体が変化するという痛みを伴いながら新しい認識や知恵を得るプロセスです。従って元の世界のとらえ方をベースにいくら実証的に数値を積み上げても、経験を語ることはできないからです。


つまりこれは狭い意味での経験論的な科学では語れないものであり、逆に言えばこうした狭い意味での科学の枠に入るものしか取り扱えないとしたら、教育実践は全く無味乾燥な人の成長に意味を持たないものになるでしょう。


この時私たちにできることは、新しい世界観、子供観をもたらしてくれた経験を解釈し言葉にしていくことです。つまりこの経験の前にもっていた自分の世界や子供についての認識はどのようなものであったのか、それがどう変化したのかを言葉にし他者と共有していくことです。


実際には私たちは日常生活を送るうち、自分でも意識しないまま、世界(例えば子供)をどうとらえるかの認識を作り上げ、それに沿って世界をとらえていきます。しかしラボラトリーでもよくいわれるように、そのとらえ方では新しい事態に対応できない危機的状況(例えば失敗体験)が起きた時、私たちははじめて自分の過去の認識を意識し、それに修正を加えていくことが可能になります。


こうした取り組みこそ、ラボラトリーを含めた教育実践の意味を広い意味で明確にしていくための「科学的方法」と言えると思います。こうしたボルノウの認識論が私は好きです。

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