2021年

6月

16日

新型コロナウィルスと私〜ワクチンについて

●ワクチンの接種が進んでいる。高齢の母も昨日2回目の接種が済み、妻も28日に2回目が決まっている。64歳以下の接種も始まろうとしていて明日明後日にも私にも接種券が届く。こうした中、2日も連続してワクチンに関する夢を見た。“今ここ”で何が起きているのかを確かめるために、これを書きつつリフレクションしてみたいと思う。

 

●ワクチンを巡って私に今起きていることを見てみると、まずは母と妻が接種をして、私はとてもホッとしている。彼女たちのリスクが減ったことが嬉しい。同時に私が仕事などを通じて感染し、無症状で彼女たちにうつしてしまう可能性が減ったことに、重たい肩の荷を下ろしたような感じがしているのだ。

 

●またワクチンを打つと引き受けている授業や研修に行くことができるし、仕事も対面で会えるなという期待感がある。特に8月の初めに長岡の看護学校の授業があるのだが、そこの授業でラボラトリーの仲間と会えると嬉しいという気持ちもある。支援している学校にも安心して伺うことができるようになる。

 

●次に焦りも感じる。64歳以下の接種が始まると、またワクチン不足のようなことが起きて、なかなか順番が回ってこないのではないかという恐れがある。その中でインド由来のベータ株が流行るとリスクがかなり高くなる。だから自衛隊の大規模接種などを急いで予約したい気持ちになる。

 

●一方で今ワクチンを打つことに対する前向きでない気持ちもあるようだ。副反応の対する怖さもあるが、むしろワクチンを打つことによって「普通」に生活しなければならなくなることへの躊躇が大きいようだ。つまり電車に乗って対面で会ったり、私の場合、研修をしたりという生活に戻ることへの躊躇である。

 

●この躊躇はまず、今のステイホームの期間中にこうした生活に慣れ、私の身体に優しい、それなりに意味ある生活を築いてきたことを手放さないといけないと感じているところから生まれているようだ。書いているうちに、コロナ以前の生活に完全に戻りたいとは思っていない私がいるのだなとわかってきた。

 

●この躊躇はまた、4〜5月にかけてコロナのために1000人以上が亡くなり入院できない人が続出した大阪の苦しみとも関連しているようだ。なぜ大阪でこうしたことが起きたのかも共有されず、その死を悼む機会のないままで、ワクチンを打って「さあ日常に戻ろう!」とできない私がいるようだ。

 

●またこの躊躇は、基礎疾患のある人など重症化リスクの高い人たちがまだ接種を終えていない中で、私のような者が先に打ってもいいのかという気持ちから生まれている。焦って急いで予約を取ることは、こうした人たちの席を奪ってしまうのではないかという恐れを感じる。

 

●こうして書くことでリフレクションしてみて、いくつかの気づきが生まれてきた。まず私はワクチンを打つこと自体に躊躇を感じてはいないということだ。二度と5月の大阪の苦しみを繰り返さないために、ワクチンは打つ必要がある。ただワクチンを打つことで、コロナ前のような「日常」に戻ることに躊躇を覚えているのだ。

 

●私はこの躊躇を大切にしたい。ワクチンを打ったとしても、元に戻るのでなく、コロナを体験した今の私にふさわしい生活を築きたいと思う。私の希少な注意力をオリンピックには向けないで、5月の大阪の苦しみに心を寄せ、祈り、二度とそれが起こらないために何ができるかを私なりに考えたい。

 

●そしてワクチンの予約を焦らないで、他人の席を奪うことなく、私が接種するのにふさわしい与えられる時を待ちたい。そこで起きる副反応は全て受け入れたい。また接種前までにベータ株が流行し、感染することがあってもそれは受け容れようと思う。こんな時こそ今ここを大切に生きていきたいと願っている。

2021年

6月

08日

温故知新〜パウル・ティリッヒ『生きる勇気』(1995)「The Courage to Be」1959)

●パウル・ティリッヒは哲学、思想にまで大きな影響を与えたプロテスタントの神学者である。キリスト教という枠の中にいる人だが、信条に閉じこもらず、人が現にある時代や状況の中で問われる問いに対して、キリスト教の真理によって答えることが神学の役目であると考えていたと言われている。

 

●この本でも、人が生きることを妨げる要因(“無”に直面する不安)を分析し、それを克服して生きるために何が必要なのかを真摯に検討している。無への不安から病に冒されていた人が、この本を読んでたちまち平癒した出来事は有名で、まさに生きる勇気を与える本と言えるだろう。私にとっても生きる上で大切な本である。

 

●ティリッヒによれば生きる勇気とは、「人間がその本質的な自己肯定に反逆する諸要素に抗してかれ自身の固有な存在を肯定する倫理的行為である」。この勇気についてはソクラテスの死に向かう勇気から始まり、ニーチェなどの生の哲学に至るまで哲学の流れの中で常に取り上げられてきた。

 

●彼によれば勇気とは「それを妨げるものに抗して、“それにもかかわらず”自己を肯定することである」。だから「無(存在を否定するもの)の問題を考察しなければならない」。この無の姿の一つが“不安”である。不安は「存在が非存在(無)でありうる可能性を自覚している状態、無が人間存在の一部であるという自覚である」。

 

●つまりそれは「自分の有限性の自覚(死すべき人間)」である。この不安は対象を持たない。死の不安は不安である限り、それは認識の対象にならない。人間はそれ自身の存在を保持することができない。それは虚無の脅かしであり、永遠の死に関連する。恐怖のように対象がある場合は闘争も、愛も可能だが不安においてはそれはできない。

 

●ところで存在なしに無はない。だから無はそれが否定する存在に依存している。そして存在との関係で無は性質を得る。彼によれば、無が存在を脅かす不安の3類型を区別することができる。その第1は絶対的には死、相対的には運命という形で存在的自己肯定を脅かす。

 

●死は不可避であり、人間の自己の完全な喪失を意味する。私たちは消滅を免れる一瞬の時も持たない。人間はそれでも自分自身を肯定する勇気が必要となる。この死の不安は、その内側で運命の不安が作用する。運命という偶然性の支配は、無の脅かしの相対的現れであり、背後に死という絶対的なものがあり不安を生み出す。

 

●第2に絶対的には無意味性、相対的には空虚さで人間存在の精神的自己肯定を脅かす。意味の領域で創造的に生きると精神的自己肯定が生起する。無意味の不安とはすべての意味あるものに意味を与える意味、つまり究極的関心を喪失する不安である。どの対象も意味を失い、何一つ満足を与えない。懐疑によって真理に対し絶望が生まれる。  

 

●第3に絶対的には断罪、相対的には罪責という形で人間存在の倫理的自己肯定を脅かす。人間はなるべきものになるよう、運命を成就するよう求められる。しかし人間にはそれに背く力がある。最善の善行にも無が顔を出す。完全さを妨げる。この曖昧性の自覚が「罪責感」を生む。そして審判者として自分に否定的な判断を下す。これが罪責である。

 

●勇気とはこうした“無”にもかかわらず、自己自身の存在を肯定することである。どのような時代のどのような社会もある程度、その構成員にこの勇気を与える制度や伝統を持っている。例えば中世ヨーロッパでは教会が無への守りとなっていた。しかし例えば懐疑という思想が広がるなど大きな時代の変化があるとその守りが崩れてしまう。

 

●ティリッヒによると「近代末期は精神的無の不安、つまり空虚と無意味の不安が生じた。絶対主義の瓦解とリベラリズム、民主主義の発展、技術文明の勝利がその原因である。3つの主要な不安の時代は、各時代(古代、中世、近代)の末期に現出した。それは日常構造と化した意味、権力、信仰、秩序の構造の崩壊で顕在化した」とする。

 

●こうした“無”に直面するためにいくつかの道がある。その一つが集団との完全な同一化を図ることである。それは自己自身の喪失でもあるが不安の解消にもなる。集団の大義に身を投げ出すことは犠牲でなく生の完成と感じられる。運命と死は自分の一部であるそれを破壊できない。これは死の超越である。ただ全体主義やカルトはこれを利用する。

 

●またノイローゼの中に逃避することで絶望という最後決定的状況を回避することもできる。「ノイローゼ的人格は無に対する大きな感受性と深刻な不安ゆえに、固定された(制約され非現実的でも)、矮小化された自己肯定にしがみつく。自分を守る城を築く」。それを崩そうとする人に激烈な抵抗を行う。もちろんこれでは変化に対応できない。

 

●一方アメリカなどでは1930年代以降、体制順応(コンフォーミティ)が増大した。そこでは人間の潜在的可能性は無限であり、人間はミクロコスモスで宇宙的諸力が潜在していると考えられた。人間は大宇宙の創造的過程への参与者なのである。現代の進歩は潜在的なものを顕在化、現実化する動きに他ならない。

 

●これは自然や歴史の創造的過程に参与しその部分となる存在への勇気と言える。その意味は、「生産的行為それ自体の中に現れる。生産それ自身が無限性のシンボルであり、歴史の創造的過程への参与(進歩の理念)、つまり生きる勇気となる」。ここから失業が生きる勇気を喪失させることがわかる。ただ「何のための生産か」という懐疑は抑え込めない。

 

●また個人主義という、自らを個的自己として肯定する道がある。これは個的自己を無視して全体の部分として自己肯定する集団主義の対極にある。個人主義はデモクラシーの翼の陰に守られ成長し、実存主義運動の内部であらわれた。実存主義とは特定の哲学形式で、自分自身であろうとする存在への勇気の最もラディカルな形態である。

 

●こうした分析の上でティリッヒは「勇気は無を超克する力を必要とする。勇気は人間の力、世界の力よりも大きな存在の力に根ざす必要がある。生きる勇気は宗教的根底を持ち<存在それ自体>に参与する。それは無に脅かされたとき感知できる」。と述べ、その宗教的根底、信仰の形態を細かく分析していく。

 

●この本を読んで私は自分自身もこの死による存在の消失、無意味と空虚さ、罪責感という“無”から逃れることはできておらず、いろいろな人生の局面で現れてきたことを認めざるを得なかった。そして今もなお、こうした“無”の脅威にさらされ続けている。

 

●そして私の場合、この“無”に直面する力が体験から与えられているように思う。主な体験としてはラボラトリーを何回も行う中で、グループや関係を動かす力が個人を超えて存在することを体験したこと、また父の死に際し誕生から死に至るまで人を促していく力を感じ取れた体験などがある。結婚という体験もその力を感じさせてくれた。

 

●この力を私は“今ここ”で感じていて、まさにティリッヒのいう「人間の力、世界の力よりも大きな存在の力に根ざす」ものであると感じる。この“今ここ”の流れと共にある時、私は“無”の前でも安らかにいられる。死を恐れないですむし、“今ここ”が生み出すことそのものに意味を感じる。また罪は “今ここ”で常に許されると感じる。

 

●しかし私にとって常にこの“今ここ”の流れと共にあることはとても難しい。そしてこの力を感じていない時、すぐに“無”が忍び寄ってくる。今回この本を読み返して特に私の場合、この“無”への不安は(人や組織に対して)“役立たない”という絶望の形で起こることが多いように感じる(もちろん死への不安もあるけれど)。

 

●“役立たない”とお金を稼げず、生活が維持できない。それは死への不安に直結する。他者や社会に“役立たない”と認められない。これによって自分の存在の意味を見失い、罪責感を感じるようになる。また社会という大きな存在とのつながりを失い、それが持つ意味や許しを得られなくなってしまう。

 

●こうして私は“無”から逃れるために、強迫的に他者や社会に役立つことを求める。しかしそこにはもちろん落とし穴がある。ナチスのような集団が生まれた時、そこに“役立つ”ことは他者の存在を抹殺することにつながるからだ。そこには生きる勇気は存在しない。この行為は“無”を包み込んでいないと言えるだろう。

 

●表面的にどんなに意味ある良い行為に見えても、それが“無”から逃れるために強迫的に行われるなら、それは自分も人も生かすことはない。一方、私が “今ここ”の流れと共にいることで不安を克服し、なお目の前に人のために何かをしたいと思うなら、それは生きる勇気と言えるのではないかと感じる。

 

 

2021年

6月

01日

新型コロナウィルスと私〜5月の大阪の体験に心を寄せる

●私の住む大阪ではコロナの感染者数がようやく減少傾向になり、昨日は約2ヶ月ぶりに100人を下回ったと報道されている。確かに私の家の周りを走る救急車の数も少し減ってきているし(それでも日常よりはかなり多いけれど)、陽性者が出て休校になる市立の学校も週2〜3校程度までおさまっている。

 

●こうした中、母も1回目のワクチン接種を終え、妻も今月末くらいには接種の予定が立ち、私は心理的にだいぶホッとしてきているところがある。これは私だけではないのだろう。大阪の人出はまた増えてきているし、研修など仕事においても普通にやっていこう、前に進もうというような動きも出てきている。

 

●特にワクチンの接種が本格化して、日常に戻れる見込みが生まれている今、私にもそれは理解できる。一方で私の中にはこうした“普通に日常に戻る”ということに、まだついていけない感じもあるようだ。そしてこの感じは5月に大阪が体験したことをまだ消化しきれていないところから生まれているように思う。

 

●大阪では4月以降の急速な感染拡大の中、5月の一時期、入院できないで自宅で療養する人が1万5千人を超えた。重症者数も400名を超え重症病床数を上回り、中等症病院で診療せざるを得なくなった。結果的に軽症・中等症病院に入院できる数が減り、自宅療養者への医療的管理がますます難しくなった。

 

●そして自宅などで病状が悪化した人の入院が遅れ、手遅れになる悪循環に陥った。救急隊員も全力を尽くしてくれたが、数十時間も入院先を見つけられない事例が相次いだ。高齢者の施設においても感染が起こっても入院させることができず施設における療養が求められ、次々にクラスターを引き起こした。

 

●この病に感染してしまった人々は、家族や知人にうつしてしまったのではという罪悪感と、重症化する恐怖心と戦う必要がある。しかも保健所にも電話がつながらず、医療からも見放され、全くの孤独のうちに置かれる。症状が悪化し、死に行く時でさえ一人でいるしかない。

 

●周りの人も辛い。施設で働く人々は世話している高齢者が目の前で医療も受けられない中でなくなるのを無念の思いで見つめるしかない。訪問看護師などの医療従事者も、症状が悪化しても適切な治療を施せず、入院させてあげることもできない中で、「命が手からこぼれ落ちるような」体験をした。

 

●そして結果的に大阪では5月だけで859人の死者が出た。5月31日現在でも自宅療養者や入院調整中の人は5千人を超える。今なお何千、もしかしたら何万もの人々がこの病やその後遺症、さらには恐れや罪悪感に苦しんでいる。大切な人を失った悲しみの中にいる。大阪が受けた傷は深い。

 

●そしてそれはその人の落ち度から起こったことではない。大阪で広がった英国株の特徴は、感染者の多くが「どこでかかったのかわからない」ほど感染性が強いところにある。つまり偶然に左右される程度が大きい。感染したのがたまたまその人であったのであり、それが私であったとしてもなんら不思議はなかったのだ。

 

●私にはこの苦難が降りかかったのが私でなくて「運が良かった」と片付け、この出来事を私から切り離して“普通に日常に戻る”ことはできないと感じる。もちろん私も日常は取り戻したいし、私の中にも、長い冬の終わりに生きものたちが感じるであろう、かすかな動きのようなものがあるのを自覚している。

 

●しかしこれは決してこの大阪が受けた傷を見ないようにして前に進むようなものではない。むしろその痛みと共にあり、その中で生まれてくるようなものだ。かつて震災の体験が長い時間をかけて私という人間を変化させたように、この5月の大阪の体験もまた、私を変化させざるを得ないし、まさに変化させつつあると感じている。

 

●そしてそのためには時が必要だ。だから私は今はもうしばらく静かにここにいたい。そしてできれば施政者やリーダーの方々にも充分時間をとってこの大阪の体験に心を寄せてほしいと願っている。そうしてはじめて二度と大阪の悲劇を起こさない知恵と今苦しんでいる沖縄や札幌の人への祈りが湧いてくるように思うからである。

2021年

5月

27日

温故知新〜『対話の奇跡』 R.L.ハウ ヨルダン社(1970)

●今日はラボラトリーの関係者の間で広く読まれている本書を取り上げたい。訳者によると著者の「ルウィル・L・ハウ博士は、アメリカの実践神学にユニークな位置をしめる気鋭の神学者であり、神学ばかりでなく教育学・心理学にも造詣深く、その貢献は、広く宣教・牧会・教育・カウンセリングの分野に及ぶ」と紹介されている。

 

●神学者の書いた本だけに、神や精霊、教会などの宗教用語も出てくるが、彼は決して何かの信条を押し付けようとはしない。むしろ対話の本質に迫り、それを妨げるもの、そしてそれが生み出すものを考察している。私としては私の関わりの体験を、これほど上手く表現してくれる本は数少ないと感じている。

 

●ハウによれば「人類の将来は、人々の共存能力、すなわち、破壊的にではなく建設的に、防衛的にではなく創造的に、共に生きていく能力いかんにかかっている。」私たちは「お互いに心を開き、孤立の道を歩むかわりに、お互いに補いあいながらその相違を生きていけるように」対話を必要としている。

 

●彼によれば対話とは、「各人の存在と真実が他者の存在と真実に対決させられるような、2人またはそれ以上の人たちの間の真剣な語りかけと応答である」。対話は人を人格的存在にし、共同体を生み出す。死んだ関係を回復させることもできる。これこそまさに「対話の奇跡」である。

 

●私がこの本を読んで改めてハッとさせられたことは次の3点である。第一にこの対話を妨げる土壌として「各個人が自分自身の存在のために感じる(人間の存在論的欲求からくる)必要と配慮」があるとされることだ。簡単にいうと私たちは自分の存在への脅威を常に感じ、存在への保証と確認、生き続けていく勇気を常に求めている。

 

●こうした自己への関心が他者の存在論的配慮を求める叫びを聞くことを難しくする。これがひどくなると独白(モノローグ)が生まれる。自分の存在が確かめられることを求め、人格的な出会いを恐れ、自分自身と自分の意見に賛同する者にだけ寛大である。他者は自分に仕える者、自分の存在を確認するための存在としか考えられなくなる。

 

●一方対話(ダイアログ)とは意味の交流がある人たちの間の呼びかけと応答である。ありのままの自分を相手に与えようと努め、相手をありのままに知ろうと求める。自分自身の真理や意見を他者の上に押し付けようとはしない。これが対話の本質を示す関係、対話的コミュニケーションの前提となる。

 

●私がハッとさせられた第二の点は、この対話には危険があるという指摘である。彼によれば対話的人間は「他者に向かって全存在をかけて応答し、理性だけではなく心情を持って聴くことができる。本当にそこにいる自己防衛的ではなく、仲間と関係を持つことを喜び、彼らに負っていることを認める」

 

●こうした対話では自分自身を差し出す行為が求められる。しかし「差し出したものが床に落とされてしまい、誤解を受けてしまうこともある」。例えば子どもは差し出したものが喜ばれないと自分を閉ざしてしまう。グループで批判が喜ばれないと、グループに貢献するのを躊躇する。対話には危険がつきものなのだ。

 

●従ってハウは対話においては「みずからを与える訓練」が不可欠であるという。それはどんな危険があり、その成り行きがどうであろうとも、語られるべき時には語り、行動が要求される時には行動する責任を負う訓練である。対話に携わるのを差し控えると起こるべきことが起こらない恐れがあるのだ。

 

●だからこうした対話が実現するには、誰かが恐れつつも危険をおかして対話を始める必要があるということだ。ハウはいう。「話しなさい、そして言語と行動を解き放ちなさい。それが応答を呼び覚ますことがあるだろう。それが私たちの責任である」。これは対話を呼びかける勇気と言っていいだろう。

 

 

●そして私がハッとさせられた第三の点は、まさにこの呼びかける勇気が今の私に欠けていることに気づかされたことにある。これまで私はラボラトリーに参加し対話と呼べるような関わりを体験してきた。しかし考えてみるとこのラボラトリーは私の師匠の呼びかけで生まれたもので、私がイニシアティブをとったのではない。

 

●そしてこの本を読む中で、今この呼びかけをすることに怖さと躊躇を感じている私がいることに気づいた。私は対話というものが豊かな実りをもたらすこと、つまり今この世界に起こっている分断や人間を道具としてみる見方を克服し、私が私となることを可能にしてくれる道だとわかっているように思う。

 

●しかし同時にそこに内在する危険や障害がいかに大きいか思い知らされてきた。そこには受け入れられないこと、無視されること、馬鹿にされること、利用されること、攻撃されることなど私には耐えがたい過程が含まれている。だから及び腰になっている自分に気付かされているのだ。

 

●ただこうした私の勇気のなさにも関わらず、私の身体の奥底から他者への呼びかけが今ここに生まれてきているように感じる。可能な限り自分や人を無駄に傷つけることのないように周到に準備をして、私なりにこの“今ここ”で生まれている想いや感じに従っていけるといいなと思う。

 

対話の奇跡 (1970年)

対話の奇跡 (1970年)

 

 

2021年

5月

20日

確実なもの、安定したものにしがみつく心

●最近私は、自分がこの世界を“確実で安定している”と信じたい欲求がとても強いなと思っている。逆に言えば私には、自分自身も含めたこの世界には何一つ確実で堅固なものがなく、常に流動し不安定で予測できないものなのではないかという直感があって、それを怖く感じる気持ちがあるのだ。

 

●この新型コロナの問題でも、感染の原因を特定したい気持ちが強い。飲食やマスクを外した会話などをしなければ大丈夫と思いたくなる。しかし実際には感染している人の飛沫が私のところに「たまたま」飛んで来ても感染してしまう。でもこうした偶然を受け入れるのは私にはとても怖く感じる。

 

●これが怖いのは多分、この偶然を受け入れると災厄から逃れる確実な方法がなくなってしまうからだと思う。物事が起きる原因を突き止め「こうしていれば大丈夫」という方法が明らかになると、私は自分の安全を保てる。それがないと私は心理的安定性を保ちにくい。世界の不安定化に耐えられないのだ。

 

●また社会も確かなものではないなと感じる。ある時は飲食店や観光業界の苦境が取りざたされ「外食や旅行をしなきゃ」となる。しかしある時は病に苦しむ人々や医療現場の大変さが報じられ、自粛が呼びかけられる。ここには確実なものは存在しない。寄せては返す波のように常に流動している。

 

●話は大きくなるが、今の生物学による人間の見方もこうした不安定化に拍車をかけている。私は従来自分の身体を確実で安定した“もの”と信頼していた。ところが実際には3ヶ月もするとほぼ全ての細胞は入れ替わっている。つまり“もの”自体はインプットされ、一時身体を形成し、常に流れ去っているのだ。

 

●だから身体とはこうした“もの”ではなく、それらが集まり入れ替わりつつ一定時間だけ身体を形成する“場所”と捉える必要がある。水流の関係で水が集まり入れ替わりつつ形成される“渦”のようなものだ。“渦”が消え去るように私自身もまた一定時間ののち消え去る。

 

●地学による世界の見方もこうした不安定化を後押しする。“堅固な地盤の上に”とは安定や確実を言い表す常套句である。しかし今地球は、ほんの表皮のような土壌の下でマントルなどが常に流動していることがわかっている。この地球も確かなものは与えてくれない。

 

●物理の法則のように確実に見えるものがある。しかしニュートン力学を相対性理論が包括したように、パラダイムが変わると世界や宇宙の見方も大きく変わる。また科学は目的のための手段的知識は与えてくれるが目的そのものは与えてくれない。それは限定された条件付きの確実性なのだ。

 

●こうして私は今すべてが流動し確かなものが何もない所にいる。ここは足元の確かな地面すら崩れ去り、また自分を確保する手がかりすらもない、極めて頼りない所だ。だから私はつい確かで、安定したように見える何か(指導者、宗教、組織、信条・・)にしがみつきたくなる。溺れる者のように藁をも掴む。

 

●しかし私はこうして無理に確かさや安定や求めることが災厄をもたらすことも知っている。出来事の原因を無理やり探し魔女狩りなどをしてしまいかねない。また牛の糞を体に塗り付ければコロナ感染を防げるといった迷信に惑わされてしまう。全体主義がもたらす悲惨な安定性に逃げ込みたくなる。

 

●だから私は諦めて自分自身に、またこの世界に確実で安定的なものは何もないことを認める。何かにしがみついていた手を放す。そして一見確かなものを映しているように見えるこの眼を閉じると、すべてをうつろわせる流れの中で、今ここにいのちの“渦”が形成されているのが感じられる。

 

●そしてここでは私はもはや怖く感じない。“渦”が崩れ、消え去ることも恐れない。自分を含めすべてが流れの中にあることに安らぎを覚える私がいる。しかし再び目を開けると堅固に見えるこの世界で、性懲りも無く確実さや安定性を求めてしまう私がいる。これからも私は何かにしがみついては手を放すことをし続けるのだろうなと思う。

2021年

5月

11日

温故知新〜「専門家の知恵~反省的実践家は行為しながら考える」ドナルド・ショーン(1983)

●久しぶりにショーンの「専門家の知恵」を読み返してみて、この本は今の私を形作ってくれている本だなと感じた。そして内側から生きる勇気のようなものが湧いてきた。簡単に流れを追ったのち、今の私にとって重要だなと感じたところを取り上げて検討を加えてみたい。

 

●ショーンはまず私たちが従来専門家についてどのような見方をしていたかを分析する。それは「技術的合理性」モデルと呼ばれ、そこでは専門家は、一般的な科学的原理をベースとした応用科学や技術をクライアントへのサービスに適用する技能を持つ人と捉えられる。

 

●そして医学などのように実践のベースとなる知識が基本的で一般的であるほどその人の地位は高くなる。例えば社会福祉士が専門職としてサービスに科学的方法を適用すればするほど、専門職の階層構造の中で上昇していける。知識も階層化され、科学的・一般的知識の地位が高く、実践の知識はその下に位置付けられる。

 

●こうした考えは、科学的な理論と技術を実践の問題に適用するものとして専門家の知識をみなす支配的な見解と言える。この「技術的合理性」は科学と技術の成果を人類の福祉に適用することをねらった社会運動として19世紀に成長した実証主義哲学が生み出したと言われる。そして第二次世界大戦を通じて世界中に広まった。

 

●しかし1960年代以降、「技術的合理性」モデルの限界が指摘されるようになった。「技術的合理性」の視点では専門家の実践は問題の「解決」過程であり、すでに確立された目的にとって最適な手段を選択することによって解決される。しかし現実世界では不確かな状況の中から問題を構成する必要がある。

 

●また「技術的合理性」は目的が明らかな時に力を発揮する。しかし目的が交錯し葛藤している場合は、技術の使用によって解決することはできない。達成すべき目的とその目的達成が可能な手段の両方を構造化し明らかにすることは、問題状況に枠組みを与えるという技術的でない過程を通じてなされる。

 

こうしたことから実践者が不確実で独自な価値葛藤をはらむ状況にもちこんでいる実践的認識論を探索することが必要となる。これが「行為の中の省察」である。例えば大リーグの投手はボールの感じをつかみ、その感じでうまくいったときと同じことを繰り返すノウハウと言う実践的な知識を持つ。

 

●ここで「感じ」は再びそれを実行することを可能にするものである。投手は自分の行為のパターン、状況、暗黙のノウハウについての一種の省察を行う。ジャスのセッションでも集団でつくり上げる音楽に対し、個々人が寄与できる音楽について行為の中で省察する。つまり「音楽の感じ」を通じて省察している。

 

●また教育現場においても、教師は指示に従う能力がないと見ていた子どもに困惑していたが、その感じをきっかけとして詳細にプロセスを観察することで、彼なりに教示に従っている事実を見出した。このように不確かな独自の状況の中で、感じや驚き、困惑、混乱を省察することで、現象の新たな理解と状況の変化とを共に生み出すことが生じている。

 

●ショーンはこうした知が十分に社会的に認知され、位置付けられていないことに問題意識を持っている。そして専門家が「実践の中の省察」を通じて知を生み出しつつ実践を行う反省的実践家になることを提唱するとともに、それを科学的な研究に結びつけていく必要を論じた。

 

●今思えば私の中でも、こうした「技術的合理性」から「行為の中の省察」への変化があったなと思う。私は子供の頃は「技術的合理性」モデルに疑問を持たなかった。しかし社会に出る頃になると、現実世界の中で不確実で独自な価値葛藤を体験するようになった。

 

●就職した銀行は自分には合わないように感じる。でも自立と安定のためには勤め続ける必要がある。どう生きたら良いのか?こうした人生の意味と目的に関わる問いには科学や知識はあまり役立たない。一方自分が持つ「感じ」なども、主観的で不完全でうつろいやすく、頼りにできるものとは思えなかった。

 

●しかしその後ラボラトリーと出会い、グループにおける関わりを通じて、「感じ」が持つ意味を徐々に理解することになった。今ここで生まれる「感じ」(例えばある人への違和感を伝えたいと言う感じ)を大切にして、必要であれば伝え聴くことで、体験からの学びが生まれてくる。また関係も深まっていく。

 

●またこの「感じ」を私は覚えていて、次の似たような機会にまたこの「感じ」が生まれているなと気づけると、同じように関わることができる。大リーグの投手のように「感じ」は再びそれを実行することを可能にするのである。こうして体験から「感じ」をある種の知恵として頼りにすることを学んでいったのである。

 

●その後この学びを日常に当てはめ、今ここで生まれた感じを頼りに銀行をやめることになった。今考えればその後自分らしく生きる道を歩む第一歩になったと思う。こうした文脈の中で私はこの本を読み、私は今ここでの「感じ」を大切にした「行為の中での省察」をしていたのだなと気付かされた。

 

●たぶん私は、自らの生の意味を問いよりよく生きるために「私を生きる専門家」になる必要があったのだと思う。自分に今ここで生まれてくる「感じ」を頼りに、利用できる科学や知識などもフルに活用して「行為の中での省察」を行い、私を生きる知恵を自分で築いていく必要があったのだ。この本は私が私を生きるのを手助けしてくれたと感じている。

 

 

2021年

5月

04日

大阪の苦しみに心を寄せる

●最近国のトップにいる人々や他府県の首長、感染症の専門家から、コロナの流行に関して「大阪のようになる」とか、「大阪のようにならないように」などの言葉を聞くようになった。もちろん私は他の地域にいる人たちに大阪のこの経験と苦しみから学んで欲しいと思うが、その前にもう少し大阪の今ここにある苦しみに心を寄せて欲しいとも思う。

 

●この大阪の苦しみを象徴しているように思えるのが救急車のサイレンだ。今朝も11時までに既に10台以上通り過ぎていったし、たった今この瞬間にもまた聞こえ始めた。こうした状況がここ10日ほど続き、街に緊迫感を生み出している。散歩していて、住宅の前に長い時間とまっているのを見ることも増えている。

 

●なぜこんなに救急車が必要なのか。それはもちろんコロナの感染爆発に関わっている。大阪市のホームページによると4月28日現在(それ以後更新なし)のコロナの患者数は10,426人である。今はもっと多いだろう。総人口は275万人なので、ざっと200人に1人くらい今コロナにかかっている勘定になる。

 

●そのうち入院できているのは10分の1の1,097人で7,758人は自宅療養、宿泊療養は234人、調整中が1,337人である。感染症専門医の忽那賢志さんのまとめによるとコロナ感染症では15%が中等症(呼吸不全で酸素投与が必要)に、5%の人が重症(人工呼吸器かEcomoを装着)になると言われている(英国株ではもっと多い可能性も指摘されている)。

 

●だから単純に考えると1万人の患者のうち、2000人は中等症や重症になり入院が必要となる。しかしベッド数には限りがあるからすぐ入院はできない。ここで救急車が登場する。症状が悪化しつつある人に当面の酸素投与を行い、何とか病院のベッドがあくのを待って搬送する。

 

●大阪ではこうして救急車が、容体が悪化した患者を抱えて数時間から数十時間待機することが続いている。この他にも重症化した患者の転院などでも救急車が必要となる。通常の救急も行われているのだから私の家の周りでサイレンが鳴り響くのも無理はない。

 

●私にはこのサイレンの音が、大阪があげている悲鳴のように感じられている。もちろん今重症化し苦しんでいる人が数百人もいる。しかしこの病はいつ急激に悪化するかわからない。軽症の人でもこうした懸念は払拭できない。特に医療や看護の手の届かないところにいる1万人の自宅療養者は今どれほど不安だろう。

 

●この自宅療養者には家族がいるはずだ。患者自身は同居している家族にうつしてしまわないかさぞかし心配しているだろう。看護している家族にも、感染への恐れと患者の病状悪化への不安があるに違いない。加えて経済的に苦しい場合は、生活をどうしたら良いかという悩みも出てくる。今この時に数万にのぼる人々がこうした苦しみを味わっている。

 

●最近大阪府の入院の調整を行う部署のトップが、「高齢者の入院の優先順位を下げざるを得ない」と保健所などにメールを出して問題となった。しかし現実に重症者用のベッドは溢れ、数十人もの重症者が中等症の病院で見ざるを得ない状況にある。この中で「誰を助けるか」の問題に直面する医療者が今ここで受けている心の傷はいかばかりだろうか。

 

●そして病院を支える医療者にも負荷がかかり続けている。もちろん休みなく働く辛さもある。しかし特に今もっと早く診ることができていたら助かった命が、ベッドの空きがないために手遅れで運ばれてくるがゆえに助けられないケースが増えているという。想いを持って働いてくれる医療者にとってその無念さはいかばかりだろうか。

 

●特養などの施設では陽性者が出てもすぐに入院できない状態も生まれている。そのため施設のスタッフは自ら感染するリスクの中で、世話をしてきた高齢者が目の前で症状が悪化していくのを、ただ手を拱いて眺めるしかできない。これはどんなにか辛いことだろう。その家族もどんなに歯がゆいことだろう。

 

●病院のICUなどは大阪ではほぼコロナ専用にされているが、そのため他の病の患者を後回しにせざるを得ないと言われている。癌や心臓病、脳梗塞など緊急の病はいくらでもあるが、その手術などを待たされるのは本当に辛いだろうなと思う。その家族も気が気ではないだろう。

 

●このようにコロナ感染症による苦しみは、今患者となっている1万人の人だけのものではない。その家族や施設スタッフ、医療者、他の病の患者も当事者として苦しんでいる。それは数万人にも達するだろう。明日自分や親しい人が感染するかもしれない不安や恐れも含めれば膨大な市民が今ここで苦しんでいる。

 

●こうした中、私は滋賀県が重症者を一人受け入れてくれたこと、鹿児島県や山梨県など全国の看護師さんが助けに来てくれたというニュースを聞くと泣きたいほど嬉しく感じる。本当に辛く苦しい時は、小さな支援が支えになる。だから大阪の今ここにある苦しみに心を寄せて欲しい。そして「大阪のようにならない」ために備えて欲しい。

2021年

4月

27日

温故知新〜『共同と孤立に関する14章』第2部 A・V・カーム/B・V・クロウネンバーグ/S・A・ムトウ共著/巽豊彦訳 中央出版社(1979)

●4月13日に取り上げた第1部に続いて、第2部も序から始まり、関心、離脱、与える、受ける、創造、同化、回帰について各章が割り振られている。今回は第2部を一章ずつ検討した後、ラボラトリーでよく読まれる「共にあること」を引用してみたい。それはこの言葉がこの本のエッセンスと言えるように思うからである。

 

●まずその人のありようを示すものに、他者に対してどのように「関心」を向けるかがある。人に関心がない自己中心的な人もいる。支配するため、自分の打算のために他者に関心を向ける人もいる。昆虫をピンで留めて拡大鏡で観察するように見つめる人もいる。

 

●一方でその人が“今ここ”でどのような気持ちや想い、身体の感じを与えられているのかに目を向ける人もいる。他者もまた私自身と同じように“今ここ”に応答することを求められる存在として尊重する時、私はその人がその人であることに敬意を払い、受容することになるだろう。

 

●しかしこうして他者に関心を向け近づく瞬間には「いつも遠のいて動機を調べ直す瞬間がともなっていなければならない。近づこうとするのは、ただ好奇心を満足させるためだけなのだろうか。それとも、人間の尊厳を重んじる気持ちがそこに加わっているのだろうか。」

 

●このように人を大切にする共同のためには、私はまず自分の動機、つまり“今ここ”にある思考、感情、空想などを確かめるための「離脱」が必要となる。またこの離脱によって、私ははじめて、(他者に対し)どこで賛成しどこで反対なのかがわかってくる。またわれわれが多くの領域で互いに異なっていることが自覚される。

 

●また「与える」ことは、ものを贈るにせよ自己開示にしろ、そのベースにある“今ここ”の想いや気持ちを分け与えることである。そして「愛を与える」とはその人がその人になる自由を与えることである。「私をして私自身たらしめてくれる人々、そういう人々が与えられているというぐらいすてきな贈り物は他にありえない。」

 

●同様に「受ける」ということは、提供されたものをわが物にするというだけではない。相手の人の“今ここ”の想いや気持ちを受け取ることである。そこを受け取ると気持ちよく関係を結ぶことができる。もちろん私の自由を束縛しそうな底意のある贈り物もあるが、それは丁重に拒絶することができる。

 

●また自分に向かい合い“今ここ”を大切に世界と関わるとそこに「創造」が起きてくる。しかし創造は常に歓迎されるわけではない。「創造的な生活ができなくなった人は、創造性が画一性をおびやかすかのように感じる。」こうした共同体の中で「私はこの賜物を軽んじて人格をしなびさせることもできるし、大事に育てることもできる。」

 

●さらにこうして離脱によって自分に向き合い、他者と共同する中でなじみのない思想とか感情と出会うことがある。これを放置しておくと「私の生活に害を及ぼしかねない。よそものの知識、いら立たせる意見、胸につかえる感情などが、分裂や混乱のタネになりうるのである。」

 

●つまりこれらの体験は「同化」、つまり体験からの学びによって自分の中に取り入れられなければならない。もちろんこの「同化にあたっては、自分なりのペースを見出すことが肝要だ。」さもないと「本来の私自身を忘れてしまいかねないのだ。」

 

●このように「他者に向かって身を乗り出したら、その出会いの成果を自分のものとするため、私自身に立ち戻らねばならない。」これが「回帰」である。「私が自己を最大限取り戻したとき、私の人生のあり方がもっともはっきり自覚される。回帰を伴わない行動は単なる消耗に過ぎず、群衆の支配に引きずられてしまうかもしれない。」

 

●「回帰するとき私は、自己と他者と世界のもっとも深い意味に参加するようになる。私は、全存在の一部になったと感じる。そういう参加は、攻撃的な征服というよりは謙遜な受容であり、語ることよりは黙することである。このような深遠な回帰、充実した自覚は、この世界に新たな仕方で存在せよという誘いとして、恵まれるものなのである。」

 

●この本を読み直すことによって、“今ここ”を大切に生きることは「私が真に私になる」ことであり、しかも同時に真に共同体の一部になることでもあることを再認識させられた。自分の“今ここ”をないことにして他者や世界に合わせることは、自分だけでなく共同体をも損なう行為なのだと改めて感じる。最後に「共にあること」の原文を引用しておこう。

 

「共同の秘訣は、昨日と今日、今日と明日をつないでいる何気ない出来事を、一つ一つしっかり生き抜けるようになることだ。共同とは、われわれのなかに、またわれわれの周囲に現実に存在するものを、見たり聞いたり、それに触れたり、味わったりすることだ。思考、感情、空想といった個人的能力を結集することだ。つまり人格としての自己に面と向かうことである。」

 

「共同とは、ささやかなものに心を寄せることだ−一枚の草の葉、飛び回る虫、ふくらみゆくつぼみ、巣立ったばかりの小鳥など。共同とは、美しい旋律に耳傾けることでもあるが、それと同時に、聞き馴れた音にも注意を向けることだ−吹きすさぶ風の声、軒端うつ雨の響き、道ゆく人の足音、幼子のすすり泣き、工具のうなりなどに。共同とは彩色豊かな絵画に接することでもあるが、それと同時にありふれた物の姿に美を見出すことだ−バラの花の赤さ、思いにふける顔、新緑のみずみずしさ、優雅な裾さばきなどに。」

 

「共同とは互いに耳を傾けあうことだ。友情を持って接する時、自分には役割があるという生き甲斐が感じられてくるのである。共同とは、自己と他者の織りなす世界にかかわることだから、一人楽しむ想像の世界にかくれこんだりはしない。むしろ人々の苦悩と努力に力をあわせるのだ。」

2021年

4月

22日

新型コロナウィルスと私〜私が私であることの大変さと大切さ

●ひと月ほど前、英国株に備える必要性を感じ焦燥感に駆られていると書いた。あの時は私なりに事前の準備を促すことで救える命があるかもしれないと感じ焦っていたのだ。しかし今現実に大きな感染の波がやってきて、あの時予測した通り大阪では入院できない人が溢れ、子供達にも感染が広がってしまっている。

 

●これから起こることを予測すると恐ろしくなるが、こうなってしまってから私にできることはほとんどない。だからかえって心の負担は軽くなっている。とは言ってもこのひと月感染拡大の中で、“今ここ”で起きてくる気持ちや想いを大切にするという単純なことがとても大変なことだと再認識させられた。

 

●例えば私は仕事でラボラトリー方式の体験学習の研修をしているが、グループワークなどが入るため三密になりやい。今週も一つ研修の予定があったのだが、英国株がどのくらい感染しやすいかがまだわかっていない中で実施するのは受講者にも自分にもリスクが高いように感じられていた。

 

●しかし私に研修を依頼している組織は実施することを決定したのである。私としては意味を感じてやってきた大事な研修でもあるし、長年お付き合いしてきた先でもあるので、何とかやりたい気持ちが強い。また私が断ると研修の中に穴が開く時間が生じるが、研修担当者は困るだろうなという思いも湧く。

 

●こうした葛藤のなかで先方の担当者と何回も話し、結局お断りすることにした。もともと感染拡大している状況では私の方からお断りすることを事前に了承してもらっていたので、こうして自分の“今ここ”を大事にすることができた。しかしこの決断に至るのは私には大変だった。

 

●そしてそれが可能だったのは組織の外の人だからだろうなと感じている。組織の中にいたら、自分に命令できる誰かが実施を決断すれば私がどれだけ危ないと思ってもやらざるを得ない。一方私には責任もなくなる。その中では私は自分の“今ここ”を大切にすることを諦めざるを得なかっただろう。

 

●でも「“今ここ”を大切にすることを諦める」ということは重大な意味を持つように感じる。これは何が大切かを感じ考える責任、それが引き起こす結果に対する責任を人に委ねて、他の人の意図にそのまま従う状態になっていると言えるからだ。そしてその他者が悪い意図、間違った意図を持つ時、私はその意味を検証せずに実行してしまう。

 

●そしてコロナの状況は、こうした仕事場面はもとより、人と会うかどうかという何気ない行動においても、葛藤を引き起こしている。会いたいという想いと会うことの怖さが常に今ここで葛藤する。本当に“今ここ”を大切にして私が私であることを全うするのは大変だと思う。でも今こそそれが大切であるようにも感じられている。

2021年

4月

13日

温故知新〜『共同と孤立に関する14章』第1部 A・V・カーム/B・V・クロウネンバーグ/S・A・ムトウ共著/巽豊彦訳 中央出版社(1979)

●ラボラトリー・トレーニングには夜の集いというものがある。一日集中的なグループ体験などをした後、夜に静かに過ごす時を持つのだ。そしてそこではよく「共にあること」という短い詩のような言葉が朗読される。その出典となっているのがこの本である。それだけに私にとってはとても馴染深い。

 

●この本には著者たちがその実存を生きる中で培った知恵が書かれている。それだけにパッと読んで理解できるものではない。また客観的事実を知るようにスッキリとは受け取れない。ただ自分に起きた深い体験を内省した後に読むと、言葉のいくつかがふっと心に染み入るようなわかり方が起きるように思う。

 

●そして今この時期に読み直してみて、ここに書かれている知恵もまた “今ここ”を生きるということと、とても関連しているように感じている。またこのコロナ禍の中で生きる私にとって励まされるところもある。そこでまずその第一部の7章を取り上げ検討してみたい。

 

●この本はその名前の通り、共同(共にあること)と、孤立(一人でいること)の関係を洞察した本である。第一部は序から始まり、交わり、隠退(身を引くこと)、労働、余暇、経験、評価、共同が一章ずつ取り上げられている。この第1部で私の心に染み入ったのは「交わりが実現するためには、まず身を引かねばならぬ」という言葉であった。

 

●著者によると「身を引くのは人生からの逃避ではなく、人生の深奥をきわめるための旅立ちである」。つまり何かをやりとげるとか、手に入れるとか、そういうことから身を引いて、自分の内面から“今ここ”で湧いてくる「本来の自己であれ」という招きの声に耳をふさぐことなく応えることである。

 

●何らかの社会運動に身を投じ、自己の一切を捨てて没入する瞬間は、自己からの完全な逃避の瞬間である。著者は言う。「私が一番逃げたがっている相手、それが自分自身にほかならぬことに気づくだろう」。人との交わりは自分の内から湧いている“今ここ”の想いや感じに目を向けるところから始まるのだ。

 

●そして「本来の自己であれ」という“今ここ”の声に応える時、労働は単に生活費を稼ぐためのものではなく創造の心を持つものとなる。それは「利益と生産を追い求めながら、同時に人格的成長に役立つ。楽しむこともでき、人類への奉仕もでき、崇高な目的に献身することもできるのである」。

 

●そして余暇は「日々の義務にあくせく追われることから離れて、人生と世界における楽しく聖なるものへの参加を求める」ものとなる。つまり余暇によって詩の一行、草の香り、愛する者の死など「読んだこと、感じたこと、苦しんだことが、私のものとなりうる」。こうして経験が深まる時、人生は豊かになる。

 

●もちろん経験とは「思い切って変化し、思い切って適応することである」から、経験の吸収には終わりというものがない。また日常において私たちは自由と制約の緊張関係におかれているが、こうした制限は「束縛の中の自由」に創造的に働きかけよとの誘いである。制約は新たな経験へと私を導く。

 

●こうした経験は評価されることによって、その実態を明らかにし、全体的な人生の意味に組み入れられる。起きた出来事や自分の言動を“今ここ”でどのように感じているかに目を向け、手段を目的としていないか、改めてそれは「何のためか」を吟味する。これによって他者の反応で生きるだけにならずに創造的反応が可能になる。

 

●そして「人生が私にとってもつ意味、それをあらためて主張する勇気がそなわったとき、私ははじめて私自身となり、私の信念に内容を与えることができる」。こうして孤独のうちに人生に耳を傾けるとき示されるのは何世代にもわたって積み重ねられてきた英知であり、それが共同に向かう心の準備となる。

 

●こうして孤独の内に自分の内面と向き合い、私自身が自己と一致するとき、他者との交わりが始まる。自分は何のために人と交わるのか。羨望と嫉妬と貪欲にとらわれている場合もある。権力への意志を胸にかくしている場合もある。しかしその場合の関わりは、人を自分の支配のもとに置くためのものとなる。

 

●しかし孤立の中で自己の奥底までくだった私が、人間世界の根底に目を凝らす時、そこに人間同士を結びあわせる要因が見出される。人間は協力しあうことがなければ、みずからの人間性を失う。ただ自己の内面での心の準備なしに協力すれば、一つの人格としての私は破滅してしまうかもしれないのだ。

 

●この第一部を読んで私は思った。コロナ禍は確かに私にとって大きなストレスになっているし、人との接触が制限されていることも苦しいことがある。しかしその制約は同時に私に、自分の内面の声に耳を傾け、人間世界の根底で人間同士を結びあわせる要因を考察する時間を与えてくれている。

 

●例えばキルケゴールをじっくり読むことも、温故知新をすることもコロナ禍で初めてできたことだ。この時間がなければラボラトリーの活動が自分にとってどのような意味を持つかを言葉にすることもなかっただろう。こうして見ると、このコロナ禍の期間は改めて私が共同に向かうための貴重な準備の時間となっているようだ。

2021年

4月

06日

温故知新〜「サーバントリーダー(The Servant as Leader)」ロバート・K・グリーンリーフ(1991)

●何週間か前に「サーバントリーダー(The Servant as Leader)」を読み直した。著者のグリーンリーフは優れた経営者として名高い。以下を見ていただくとわかるが、彼の説くリーダーシップはとても格調高い。それだけに私は最初近寄りがたい感じがして、ブログにも何を書いていいか思いつかなかった。

 

●もう少し言うと、私はとてもこんな強い人にはなれないと感じ、私には関わりがないと思ってしまったのだ。しかし別の仕事で“今ここ”が何を生み出すのかを考えていた時、ふとここで書かれているリーダーシップこそ“今ここ”を大切にすることで自然に生み出されてくる影響力なのではないかと気づいた。

 

●彼によれば社会を動かす活動を支える本質的な力は、奉仕し導く能力を持っている人々の信頼関係が醸成されることにある。つまりより良い社会が築かれるかどうか、すべてはどのようなリーダーが出現し、私たちがどのようにリーダーに反応するかにかかっている。

 

●だからこそグリーンリーフはより多くのサーバントがリーダーとして出現すべきであり、私たちはサーバントリーダーにのみ従うべきだと主張する。このサーバントリーダーは何よりもサーバントである。初めに奉仕したいという自然な感情があり、奉仕することが第一であり、その上で導きたい感情がある。一方権力欲、物欲のある人は奉仕を後回しにし、リーダーシップが優先される。

 

このサーバントリーダーにとって優先順位が高いニーズは、奉仕を受けている人たちは人間として成長しているか奉仕を受けながら、より健康になり、賢くなり、より自由になり、より自律的になり、自分たちもサーバントになりたいと感じているか。社会で最も恵まれない層に与える影響は?その人は恩恵を受けるだろうか?少なくともこれ以上搾取されないだろうか」である。

 

●こうしたニーズを実現するためのサーバントリーダーの役割は「常に誕生しつつある本質的な動きに目を凝らし、耳をすまし、そして待つ」ことだ。そして予言的な声を聴き、「自分たちが合理的で実現可能と思う社会と、本来社会に奉仕するために存在しながら、組織維持だけに動くあらゆる組織の愚行の間のギャップと激しく戦う」ことである。

 

●具体的には自らイニシアティブをとり、他者に方向性を示す。洞察力によって予見し、地図にない領域を進む。時に身を引いて本当に必要なものを見出す。粘り強く他者に耳を傾け理解し、共に歩む人たちに共感と無条件の受け容れを提供する。そして他人の重荷を背負いながら、先頭に立って道を示す。

 

回りの状況から感じとれる兆候を生かせるように知覚というドアを開き、すべての物事をありのまま見る。反対運動ではなく穏やかな説得によって一つずつ物事を進めていく。新たなコンセプトを作り、周りを癒しコミュニティを形成する。より大きく・より健康に・より強靭に・より自律的に成長する人たちの集団を作り上げる。

 

●こうしたリーダーが実際に担う役割はさまざまである。ある人は制度上の大きな重荷を背負う。又ある人は静かに一度にひとりの人間とだけ向き合う。いずれにせよそこでは人を支配するパワーではなく、サーバントの説得力と模範が機会や選択肢を与え各人が自律の道を歩めるようにする。

 

●グリーンリーフが説くこうしたリーダーシップはどこから生まれてくるのか。それがもし意志の強さから生じるのなら私には到達できない理想に過ぎなくなる。しかしもし今ここ”を大切にすることで自然に生み出されてくる影響力(リーダーシップ)なのであれば、それは私のような弱い者にも関係したものとなる。

 

●例えばグリーンリーフはサーバントリーダーはまず聞くことを学ぶ必要があると述べる。そして受け容れること、共感することが必要と言う。リーダーとともにいる人々は、自分を導く人が自分に共感し、ありのままの自分を受け容れてくれると、能力や成績を批判されてもぐっと成長する。

 

●これはまさに“今ここ”を大切にすることが自然に生み出すものだ。他者の今ここ”に起きている気持ちや想い、感じを大切に聴き受け取ることで、受容と共感は生じる。また同時に今ここ”で感じたことを伝えあう関わりの中で自分も相手もより自分らしく成長することができる。

 

●また今ここ”を大切にすると言うことは、今ここで現実に起きていることを見て、触れて、感じて、そのまま受け取ることでもある。つまり否定的な感情や、過去に作り上げた考えと相反するデータ、周りの人に生まれている自分とは違う想いを否定せず、そのまま受け取ることである。

 

●これは自分や組織の維持のために都合の悪い“今ここ”からから目をそらし、否定することがないと言うことだ。これによってその人は「誕生しつつある本質的な動きに目を凝らし、耳をすまし、そして待つ」ことができる。自分と人々、世界に起きていることをありのままに見ることができる。

 

●ここから自然に予見が生まれることがある。そして今後苦しむ人、困る人、人を苦しめる社会の問題などが見えた時、その人たちのために「何かできないか」という、止むにやまざる想いが“今ここ”で湧いてくる。その“今ここ”に応答する時、自分から動くと言うイニシアティブが生まれてくる。

 

●ただこうして“今ここ”を大切にすることは大きな危険を伴う。“今ここ”で湧いた気持ちや想いを相手よりも先に自己開示するのは決して簡単なことではない。受け容れられない怖さ、それを利用されて自らが傷つくリスク、不利になる危険を冒す必要がある。

 

●またあるがままに見ることから生まれる先見性は、多くの人の無理解にさらされる。例えば未来に起こりうる災害を予見し、備えようと訴えることは、多くの人にとって受け容れられない。予見できない人にはただの時間とコストの無駄でしかないからだ。だからこうした予見者はリーダーの地位にとどまることが難しくなる。

 

●さらに自分や組織の維持を大事にする人にとって、“今ここ”をあるがままに見てその事実を示されることは大きな脅威になることがある。見たくないものを見せる人には容赦ない攻撃が加えられるだろう。グリーンリーフの言うように“今ここ”を大切にすることには「激しく戦う」と言う側面もあるのだ。

 

●こうした困難にも関わらず、サーバントリーダーはどのように「奉仕する心」を持ち続けるのだろうか。その人の強靭な意志によってであろうか。これも私はそうではないと思う。“今ここ”を大切にすると、自然に予見が生まれ、想いが生まれ、他者や世界に関わらざるを得なくなっていく。

 

●「奉仕する心」はこのように“今ここ”に導かれて生まれてくる。こうして見ると、おそらくサーバントリーダーシップとは強い人のものではない。むしろ私には弱いがゆえに自分には頼ることができないと知っている人、だからこそ“今ここ”に自分を委ねそれを大切にする人に与えられる影響力のように感じる。

2021年

3月

29日

 備えることで救えるいのち〜コロナ第4波に向けて

●このところ新型コロナ感染症の第4波が始まっているという報道が出始めている。しかし私の見る限り、新たな流行に対応しようと備える動きは鈍いように見える。それも当然なのかも知れない。本当に頑張って今年度を乗り切り、苦労して今のコロナへの対処法を確立させたばかりだからである。

 

●しかし私の中では焦燥感といってもいいほどの危機感が膨らんで来ていて、周りとのズレを耐え難く感じ始めている。そこでなぜ私がそんなに危機感を感じているかを探ると次の4つの情報がその背景にあることがわかってきた。それはコロナの変異株についての情報である。

 

●まず信頼できる情報によると英国型の変異株は、感染力が従来株より70%程度高い可能性がある。1人の感染者から何人に感染するかの割合(実効再生産数)も、従来のウイルスより0.52から0.74程度高い可能性が示唆されていている。致死率も同程度高くなると言われている。

 

●実際札幌などでの集団感染において感染する人の割合が倍増していることが明らかになっている。第二に特に大阪では、陽性になった人を検査すると3〜4割が英国株であることがわかっていて、変異株が既存株に取って代わる過程にあると言える。これはいずれ全国に広がるだろう。

 

●第三に英国株では小児への感染性が高まることや、死亡リスクの増加などを示す結果が報告されている。実際、日本でも子供への感染例が増えている。専門家は「(小児が感染のけん引力である)インフルエンザに近い状況になるため、対策が変わってくる可能性もある」と述べている。

 

●第四に英国の研究から知的障害や精神疾患の人は死亡率が高いことが確認されていて、日本でも療育手帳などを持つ人をワクチンの優先接種にするかどうかの議論が始まっている。学校現場にも一定割合こうした子供たちはいるが、実は高齢者や基礎疾患を持つ人と同じくハイリスクグループであるということになる。

 

●これらの情報を総合すると、これから英国株が蔓延すること、そしてインフルエンザのように学校が主な感染経路の一つになることが予測される。もしかするとこれまでは安全とされてきた接触でも、感染率が高まる英国株では安全でなくなる場合もあると覚悟する必要があるだろう。

 

●これはハイリスクグループである子供たちや、子供と同居している高齢者などが大きな危険にさらされることを意味する。また英国株をこのまま放置すると、急速な感染拡大のため医療体制が逼迫するのも予測できる。悪くするとまた入院調整の名の下に、実質的な命の選択が行われる可能性もある。

 

●私にはこれらはあてずっぽうの予想ではなく、ほぼ確実な未来であるように思える。しかも今後2〜3ヶ月くらいに起こる可能性が高い。それにもかかわらず私には、英国株によってもたらされる災害を最低限に抑えるための備えが十分にできていないように感じる。これが私の危機感やズレの根本にある気持ちなのだ。

 

●英国株に備えるにはコストも時間もかかる。「もう嫌だ!」となっている人々に働きかけるのは大変だ。備えを説いて、もし起こらなかったら責任を問われるかも知れない。しかし起こってからでなく事前に備えることで助かるいのちがあるように思う。私も今一度より安全に行動することに気を配り、また周りの人々に事前に備える大切さを伝えていきたいと思っている。

2021年

3月

20日

温故知新 『感受性訓練−Tグループの理論と方法』より 第6章 Tグループ理論の現状 J.R.ギッブ要約

●今週は『感受性訓練−Tグループの理論と方法』より6章Tグループ理論の現状を読み返してみた。改めて私のような実践家にとって、理論や研究といったものが実践を導いてくれるものであるかを再確認している。ここでは実践家にとっての理論の意味について書かれた部分を要約しておきたい。

 

●以下要約

「まず理論はTグループで取りうるいくつかの行動の選択肢を明らかにできる。どの程度意図的に働きかけるか、どの程度個人のレベル・集団過程のレベルで働きかけるか、どれほど「いま・ここで」あるいは「あのとき、あそこで」という立場でふるまうか、自分自身や他者の敵意をどの程度までかきたててよいのか、自分の感情・態度・動機づけはどこまで露呈してもよいのか、成員や自分自身に対してどこまで庇護的であればよいのかなどである。

 

 論文で明らかになる第二の選択肢はTグループの目的をどこにおくのかにある。例えば治療なのか、技能の開発なのか、行動の変革なのかである。第三の選択肢はトレーニング・コミュニティの形成において、Tグループをラボラトリーの中にどのように組み込むかである。ただ上記の指針となる研究を見出すこと困難である。これらの論文は、トレーニングの手引きを与えはしない。

 

 トレーナーはトレーニングの理論が彼らの理解している行動科学や社会科学の全知識体系にも合致し、さらに自己の価値体系や存在論との統合をもたらすことを期待してよい。これはグループに自己を投入するトレーナーには必要とされる。対人的役割、成長と精神的健康にも不可欠である。」

 

●特に私が感じたのは要約の最後の部分に書かれた理論と知識、そして「自己の価値体系や存在論との統合」についてである。こうした活動をしていると、自分の存在にも関わる「何のために」という問いに答えざるを得ないし、次は知識や理論に基づく「どのように」にも答える必要がある。これを統合していくことが実践家には求められるように感じている。

 

要約はこちら

2021年

3月

17日

バイアスとラボラトリー・トレーニング

●先週バイアスについて書いたのだが、その後もこのテーマが私の心を離れないでいる。特にピークエンドの法則(ピーク時の体験の強さと終わり方でどれほど良い体験(または悪い体験)だったかが判断される)の持つ意味が気になり、そこに想いが戻ってしまう。それで書きながらもう少し考えを深めてみようと思う。

 

●私たちは生きていく上で大量の情報を処理する必要があるので、情報を短時間で自動的に処理する(例えば顔認識など)システム1と、それがうまくいかない時に注意して情報を処理する(計算など)システム2を進化させてきた。システム1はあまり考えないで直感的に物事を捉え処理するが、大体の状況ではそれでうまくいく。

 

●しかし特定の状況では繰り返し判断と選択についてエラーを起こしてしまう。だからよほど注意してシステム2の助けを借りないと正しく認識できない。ピークエンドの法則についても実験用のモルモットでもみられる特徴というから進化の過程で生存を確保する上で有利な点があったに違いない。

 

●しかしこれが前回取り上げた「講釈の誤り」(過去の出来事や体験について誤った因果を組み立て、過度に単純化したストーリーとして捉えるバイアス)と組み合わされると、人間やいのち、社会、歴史など私たちが生きる上で大切なものを直感的に誤って捉えてしまう可能性があるように思える。

 

●これらのバイアスはまず人の見方に影響する。特によく知らない人の場合、今の地位や置かれた状況(エンド)と過去の業績や事件(ピーク)で「あの人はこんな人」と判断することがある。そして今に至った原因についても、一流大学卒だから、容姿が美しいからなどと勝手に因果をつけて捉えてしまう。

 

●こうした人の見方は、人の成長とは何かという考えに影響を与えずにはいない。ここでは成長とは好ましいとされているエンド(地位や状況)を得ることと捉えられる。そしてそのための教育と努力がなされる。一流の会社に入った人、アスリート、学者、政治家など「何者か」になった人が目指すべき模範となる。

 

●こうなるとこうした人の見方は生涯にわたって人を評価する基準となる。好ましくないエンドを持つ人は過去の過ちや罪を探られ、避けられ、低く見られる。職を失った人、結婚に失敗した人、罪を犯してしまった人などは、それまでにどれほど良いことをしていても、それがエンドとして認識されて悪く判断される。

 

●この評価は自分にも向けられる。私自身大学卒業後一流と言われる銀行に入ったが、途中でやめることになった。しかし仕事がない自分、昼間から遊んでいる自分、名刺を出せない自分が受け入れられず、自分への評価が大きく下がってしまった。

 

●こうした考えが行き着くと、歴史の流れが有名な一握りの人によって作られたと考える歴史観を生み出すことになる。この歴史観では業績や貢献が知られていない(ピークのない)「何者でもない」人々は、他者や社会に影響を与えることのできない価値のない人々と捉えられてしまう。

 

●さらにこうした見方は罪の意識や罪責感に関連する。それが典型的に出てくるのが病に犯された時だ。私の父は晩年ガンで苦しんだのだが、よく「俺は悪いことをしていないのになぜ?」と問うていた。今の状態を、本来因果関係のない過去の自分の行為で説明する事例は枚挙にいとまがない。ここには罪のゆるしというものがない。

 

●これは例えば認知症になってしまった自分や老いた自分をどう捉えるかにも関わってくる。ピークエンドの捉え方では、認知症や老いによって自分は「役に立たない人になった」(エンド)と捉えてしまいがちになる。もう用済みの人間として自分を捉えてしまうと生きる希望を失ってしまいやすい。

 

●私はこうした人間観、社会観、歴史観、罪の捉え方、病や老いの捉え方はピークエンドと講釈の誤りというバイアス、つまり認知と判断の系統的エラーから生まれたものだと知っておくことが大切だと感じる。つまりシステム2を使って深く考えることなく、直感的に捉えることで起こる過ちである。

 

●こうした意味でラボラトリー・トレーニングが、こうしたバイアスを乗り越える力を与えてくれたように思う。ラボラトリーでは「今ここ」を大切に人と関わる体験をするが、日常から離れ集中してこうした体験をしてその意味を吟味することで、システム2の助けを得られるのである。

 

●ラボラトリーで私が学んだことは、人は皆今ここで想いや気持ち、感じを与えられながら生きていること、それをベースに人と関わることで、人とのつながりを感じ、また新たな考えや価値観を生み出すということだ。そしてそれは人を大切にしようという関わりや時には事業を生み出す。つまり社会や歴史に影響を与えていく。ただの人が世界を変えるのだ。

 

●またこうした体験を繰り返す中で私は人間や歴史、罪などの捉え方が変化した。例え昼には死ぬとしても、今朝の最後の一息まで、目の前の人に「今ここ」で影響を与え続けることになる。認知症になって記憶する自己は失われても、今ここを生きる経験する自己はなくならない。最後の最後までその人には生きる責任があるのだ。

 

●例え今仕事がなかろうが、罪を犯そうが、次の瞬間に新たな「今ここ」が与えられる。その「今ここ」を大切にして関わることで、自分も周りの人もよりその人らしくなる。つまり「今ここ」による新たな生成に参与する時、その人は他者との相互関係の中で生かされている。ここには罪のゆるしがある。

 

●こうして見る時私は、私が私になる過程で多くの人々の影響の渦の中にいることに気づく。赤ん坊の時に向けられた笑顔、また子供が赤ちゃんの時に向けてくれた笑顔、ちょっとした気遣い、先生が叱ってくれたこと、こうした小さな関わりの積み重なりが私を私にしてくれている。歴史は誰か有名な人が動かしたのでなく、こうした人々の相互の影響力の網の目が動かしている。

 

●これから生きていく中で、自分に生きる価値がないと思え、「何者か」になれないことに苦しみを覚えた時、私はこのバイアスについて思い出したいと思う。そしてこれまで私を私にならしめてくれた、名もない人々の関わりに感謝したいと思う。そして今ここを大切にする、ただの私であることに満足していたいと思う。

2021年

3月

10日

バイアスと物語、“今ここ”

●ここ数ヶ月、集中的にバイアスについて学んできた。私が“今ここ”を大切にするための示唆を含んでいるように思えたからである。バイアス研究の第一人者であるダニエル・カーネマンによると、バイアスとは「判断と選択についてのエラーのなかで、特定の状況で繰り返し起きる系統的エラー」である。

 

●系統的であるがゆえにバイアスが生じることはある程度予測できる。例えば自信たっぷりの美男子が講演すると、聴衆は彼の意見に本来以上に賛同をおくるだろうと予測される。これは美男子という一つの特徴しか見ていないのに、他の全てに好感を持ってしまう「ハロー効果」と言わるバイアスである。

 

●この他、例えば津波などは思い出しやすいがゆえに発生確率が実際よりも高く見積もられると予測できる。これは「利用可能性ヒューリスティックス」と呼ばれるバイアスだ。そしてこのバイアスの一つに私たちが物事を実際以上に因果関係によって捉えてしまうと言う系統的エラーがある。

 

●例えば空軍のパイロット養成において、多くの教官は「叱る」と次に上手に飛べると認識し、そうした指導スタイルをとっていた。しかし実際にはまだ訓練中のパイロットは1回ごとの出来不出来の幅が大きい。だからうまくできた後はできない確率が高く、できなかった後は成功する確率が高い。つまりこれは偶然なのだ。

 

●しかしバイアスは因果関係をつけて物事を説明するのが好きである。そのため「単なる偶然」の出来事なのに、「叱る」とうまくいくと捉えるエラーをしてしまう。これは株価の上下の解説においても起こるし、コロナなどの災害の発生の説明でも起こる。誰かのせいにして犯人探しをしたがるのもここからくる。

 

●これに関連してもう一つ面白いなと私が思ったのは、私たちが過去の経験を評価する際、ピークエンドの法則が働くということだ。つまりピーク時の体験の強さと終わり方でどれほど良い体験(または悪い体験)だったかが判断される。一方、その体験の持続時間はほとんど考慮されない。

 

●これは過去の体験の評価は「記憶する自己」が行い、“今ここ”を体験する「経験する自己」とは別であるということだ。例えば旅行に行くと“今ここ”で美しい自然に触れる経験ができる。しかし調査によると体験の記憶や写真などが全て失われると仮定した時、旅行に行く意味を感じない人が多いことがわかっている。

 

●このように私たちは過去(出来事や体験)について偶然の出来事も才能や意志で説明するなど誤った因果を組み立て、過度に単純化したストーリーとして捉えがちである。そしてこのストーリーが私たちの世界観や将来予測を形成する。これが自分の周りの様々な出来事を説明するおおもとになるのである。

 

●つまり人間は過去について根拠薄弱な説明をつけ、それを真実と信じることで、のべつ自分を騙すところがある。これは講釈の誤りと呼ばれるバイアスである。これには多くの知識人や評論家なども陥っている。だから長期予測や歴史による決定論は信頼できないとカーネマンは述べている。

 

●ただこうしたバイアスは私自身にもあると思う。私は知らないうちに自分の人生を物語にし、総括し評価してしまう。ナラティブ心理学が言うように、その物語はその時に思い出される人生の印象的な出来事を星座のように繋げて形成されている。それは事実ではなく過度に単純化された講釈なのだ。

 

●もちろんこうした物語は大切なものだ。もし私が人生で起きたネガティブな出来事ばかりを思い出し、自分は人生に失敗した落第者であると言う物語を構成してしまえば、これから先の人生をよりよく生きるのは難しくなるだろう。だからよりポジティブな体験を思い出し、人生を語り直すことは大事だと思う。

 

●しかし同時に私の作る物語がバイアスのかかった講釈に過ぎないことも心に刻む必要があると感じている。もし良い人生の物語にこだわると、ピークエンドの法則から人生の最後を汚すことを避けたいと言う保守的な気持ちが湧いてくる。これは人生の評価を上げたいと言う私欲と言えるだろう。それは私が“今ここ”を生きるのを妨げる。

 

 また考えてみれば“今ここ”の関わりは一人一人をより自分らしく生成していくが、これは強い体験であるとは限らない。また実際の結果も目に見えない。つまり終わりがない。だから“今ここ”はピークエンドの法則に当てはまらず、物語では重要なものとして登場しない。しかし実際にはこの“今ここ”こそ私を生かしてくれるものである。

 

●このように良い人生の物語に拘泥すると、“今ここ”を妨げることがある。自分についても他者についても、物語を見てしまい、“今ここ”で見て感じることを忘れてしまう可能性がある。人生の物語は大事だが講釈に過ぎない。物語は常に“今ここ”を大切にして語り直されるところに初めて意味が生まれるように感じている。

 

 

ファスト&スロー (上)

ファスト&スロー (上)

 

 

2021年

3月

03日

温故知新〜スティーヴン・ハッサン 「マインド・コントロールの恐怖」第3章、第4章(1993)

●今週は大昔に神戸大学の経営学大学院に行っていた時の課題図書だったスティーヴン・ハッサン「マインド・コントロールの恐怖」を読み返し、第3章、第4章をまとめてみた。この著者はかつて統一教会というカルトの中心的なメンバーとして精力的に活動していた。

 

●そして激務のあまり交通事故を起こし、それがきっかけになって家族やカウンセラーの介入を受け、カルトを脱退した。その後他のカルトでの集団自殺事件をきっかけに心理学などを学び直し、本を書いた当時は脱会カウンセラーとして多くのカルトメンバーとその家族を支援していた人である。

 

●私がこの本が重要であると感じるのは、カルトに巻き込まれたメンバーがそこから抜け出す際に、「本当の」自己からのメッセージが鍵を握っているとされているからである。つまり私の言葉で言う“今ここ”を大切にすることで初めてカルトから抜け出せると言うのだ。

 

●ハッサンによれば「カルトは教え込みによって古い人格を破壊し抑圧し、それにかわる新しい人格に力を与えようと大いに試みる」。つまりマインド・コントロールによってカルトの押し付ける教義を信じさせ、行動をコントロールする。そして恐怖と罪責感でその人をがんじがらめにしてしまう。

 

●しかし彼は言う。「それは決して完全には成功しない。本人の内部の深いところにある本当の人格は、カルト内部での矛盾や疑問や幻滅的な体験に気づき覚えている。その当時も感じていたのだが、カルトの人格が支配している間は、その体験と向き合ったり、対決できなかったのである。」

 

●そして続けて言う。「本当の自己が語ることを許され、励まされた時に初めて、これらのことが意識に上ってくる。脱会カウンセリングの本質的部分とは、彼または彼女が、自分で自分の体験を処理できるよう、それを明るみに出してやることなのだ。」

 

●私はラボラトリー・トレーニングの真骨頂はまさにここにあると思う。つまり一人一人が安全な環境の中で自分の中に湧いてくる“今ここ”の想いや気持ちや感じという本当の自己の体験にそのまま向かい合い、それを「自分自身になる」ために受け容れ、学び、成長していく。

 

●そして自分も他の人がその人自身の体験に向き合い、その人として成長していくことを支援する環境となる。それはただ一人の人として関わるというだけなのだが、マインド・コントロールのなかで本来の人格を破壊され、本当の自己を見失っている人からすれば、それはそこから逃れるために唯一頼りにできるものとなる。

 

●そして私の経験から言って、この世界で生きている限り本当の自己を見失うことは少なくないのではないかと感じる。もちろんカルトほどひどくなくても、恐れや罪責感、組織の圧力などから、自分の内なる声をないものとしてしまうことはある。それを長く続けると内なる声を見失ってしまうこともある。

 

●だから私にとって自分の中に湧いてくる“今ここ”の想いや気持ちや感じという本当の自己の体験にそのまま向かい合うことを促してくれる場は本当にありがたいと思う。そして私も自分が他の人がその人自身の体験に向き合い、その人として成長していくことを支援する環境でありたいと願う。

 

●しかしハッサンのこの本を読んでいて気づいたのは、そのためには私は自分の影響力により意識的になる必要があると言うことだった。無意識にも私は他者の環境として影響を与え続けている。そしてそれは他者が自律的に成長していくことを阻害する方向でも働く。

 

●例えば私が「先生のおかげで・・」と感謝されたい、講座の満足度を上げお金を儲けたいと無意識に思っていれば、私は他者をそうした形で支配し利用することになる。人との親密な関係を無意識に求めている場合、私はその他者をその相手として縛り付けてしまう。

 

●私が他のスタッフに対して無意識に忠誠心を求めているなら、それはそのスタッフの心に自分になることとの間の葛藤を引き起こすだろう。つまり私は他の人がその人自身として成長していくこと以外の影響を与えないように、まず自分を育てなければならない。そしてこのことが“今ここ”を生きると言うことなのではないかと感じている。

 

PS これまで温故知新としてブログで取り上げた本や論文は要約をまとめています。必要な方はそちらも見てください。<こちらからどうぞ

 

 

2021年

2月

24日

温故知新〜カール・ロジャース「エンカウンター・グループ」~人間信頼の原点を求めて~(1982)

●今週は昔南山大学の山口真人さんの研究生をしていた時に、課題図書として読んだカール・ロジャースの「エンカウンター・グループ」を読み直してみた。私が体験から感じていたことを、本当に上手く言語化してもらえて「そうそう!」と思う点も多いし、また読んでいて胸が熱くなるところもある。

 

●私にとって重要だなと感じたのは、ロジャースもまたグループを“今ここ”を大切にする場であると捉えていることだ。具体的には彼は自らの経験を敷衍して、グループに何の目的もやり方も持ち込まなくても、“今ここ”で起きてくる気持ちや感じを分かち合う中で、自然にグループが進むと確信している。

 

●そして彼は自らの哲学と態度として、グループ・プロセスへの信頼を挙げている。彼は言う。「グループは、グループの潜在力とメンバーの潜在力を発展させる促進的な風土を自ら持っている。これは個人の心理療法の過程で、指示を与えるより促進的である方が個人を信頼するようになるのと同じである。」

 

●そしてこの“今ここ”を信頼するエンカウンター・グループの哲学と態度は、彼の独創ではなく「(エンカウンター・グループは)哲学的価値としては人間の感情と生き方について<いま、ここで>を強調する実存的意義を持つ。マズロー、メイ、キルケゴール、ブーバーの哲学的姿勢を反映している。」と述べている。

 

●私自身もラボラトリーを行う上で、“今ここ”を大切にすることが大事だと感じてきた。しかし少し前まではこれは私のこれまでの経験から生み出されてきた個人的な考えに過ぎないのではないかと感じていて、他の人におおっぴらに言い表すことはできないでいた。

 

●しかしこのコロナ禍の中で時間ができ、キルケゴールの著書に深く触れる機会があった際、これは私が感じていた“今ここ”と同じことを言っているのだと感じた瞬間があった。またその後、ロジャースが別の論文に彼の言いたいことをキルケゴールが言語化してくれていると感じていると述べているものを見つけた。

 

●こう考えると“今ここ”を強調するありようは、私一人が持つものでない。キルケゴール以来、ロジャースも含めた先人が連綿と伝えてきてくれたものだ。その大きな流れの中に私もいるのだと言うことに喜びを感じるし、勇気を持って“今ここ”を大切にすると公に言い表していきたいと思うようになった。

 

●最後に読んでいて胸が熱くなったくだりを共有しておきたい。それは今も問題になっている孤立・孤独についてである。“今ここ”を大切にすることがどのようなことを起こすのかを示す一つだと思うので、少し長いが第6章「孤独な人―そのエンカウンター・グループ体験―」の要約を以下に載せておこうと思う。

<以下要約>

「現代は歴史のどの時代よりも内面的孤独を自覚している。真実に思える2つの側面 が孤立性と分離性である。私であるとはどういうことか、あなたにはわからない。あなたであるということはどういうことか私にはわからない。誰もが1人で生き、1人で死ぬ必要があり、それとどう折り合うか。自分の分離性を受け入れ、喜び、自己を創造的に表現する基盤として利用できるか。それともこれを恐れ、そこから逃避しようとするか。人が他人と真の接触がないと感じる時存在する孤独が、人との断絶を感じさせる要因となる。

 

 もっと深くもっと共通な孤独の原因は、世間に見せる顔を脱いだ時、一番孤独であることだ。あからさまに示した自己の内部を理解し受け容れ、構ってくれる人はいないと感じる。人生の初期に、自分の感情をありのまま表わすより、重要な他者から認められるような仕方で行動するほうが、愛されるらしいことを学ぶ。そのためみせかけの行動でもって外界と関係を保つ殻を身につける。薄い殻である時も、装甲のようになり内にある真の人間を忘れ去っている時もある。

 自分を見つめようと、または攻撃で防衛が砕かれ、自分の仮面を(一部)取り去る。それによって例えば、子供っぽく、感情豊かで、欠乏感と満足感、創造的衝動と破壊的衝動を伴った自己、不完全で傷つきやすい自己があらわになる。この隠された自己を理解したり受け容れたりできる人は絶対にいないと感じる。そして人生の意味が自分の仮面で外的現実とかかわるところに存在しないと悟る。孤独は絶望に変わる。

 孤独にはいろいろな水準、いろいろな程度がある。しかし孤独が一番こたえるのは、個人が何らかの理由で防衛なしに、評価的世界では拒否されるような傷つきやすく、おびえた、孤独な、しかし真実の自己を見出した時である。

 

 エンカウンター・グループでは、個人がしばしば自分の孤立、他人との関係の欠如をいやす。第一段階では自分にさえ隠している孤独感を腹の底から経験する。例えば友達がいないが欲しいと思わないと思っていたが、深く通じあう関係をどれほど求めているか気づく。

 自分の孤独をひそかに隠す要因として、真実の自己、内的自己、他人から隠している自己はだれからも愛されないと確信していることがある。それは子どもの真実な態度が大人から叱責されたことから生まれる。例えばあらゆる人が魅力ある愛すべき少女だと思う本人が、こころの中で自分を全く愛されない者とみている。多くの人生の一部になってしまっている深い個人の孤独は、他人に真実の自己を示す勇気を持たない限り改善されない。真実の出会い、冒険することによってのみ得られる。

 恐れるものは何もないことを学び、武装を解いて防衛せず、ただの私としてあらわれる。弱点・欠点を持ち、過ちを繰り返し、無知であり、偏見を持つ、状況に合わない感情を持つ事実を受け容れることで、はるかによく真実でありうる。そしてこの時多くを学び、非常に近い関係になる。

 傷つきやすいことを受け容れる。勇気をふるって内的自己になることで、グループの全員が仮面より真実の自己に容易に好意を持つことを発見する。これは本人、メンバーに感動の体験となる。尊敬と愛に値する人間であると実感できるのは、ありのままの自分が愛されるということを人間として発見する時だけである。自他の真実の自己がお互いに触れ合うことで、ブーバーのわれと汝の関係が生じる。これによって疎外が解消される。

 エンカウンター・グループは現代文化の多数が持つ孤独・疎外の感情を解決する現代的発見であると言える。」

 

2021年

2月

18日

温故知新〜早坂泰次郎 「フロムライヒマンにおける「役割」の問題−精神療法とTグループ−」(1978)立教社会福祉研究2.1−11

●ラボラトリーでグループを担当していると、スタッフの人はどんな「役割」をするのですか?と聞かれることがある。ラボラトリーでは通常の学び場のように、スタッフが教師となり教えることもしないし、司会をしたり指示したりしてグループを切り回すようなこともしないからである。

 

●また私はグループを促進しようとしすぎないことを気をつけている。スタッフだからと役割意識を持ちすぎると、つい教科書通りの定型的な反応をしてしまい、“今ここ”で生まれた気持ちや思い、感じを大切にすることが難しくなる。結果としてメンバーも“今ここ”を大切に関わることが難しくなり、体験から学ぶことが阻害されてしまう。

 

●このようにスタッフはまず一人の人として“今ここ”を大切に関わる必要がある。しかし一方ラボラトリーが学びの場である以上、スタッフに何らかの「役割」はあるはずである。そしてそれはラボラトリーが何のために行われるかの意味と連動しているだろう。その役割とは一体何なのだろうか?

 

●こうした問いにヒントを与えてくれると私が感じるのが、早坂泰次郎の論文、「フロムライヒマンにおける「役割」の問題−精神療法とTグループ−」である。早坂泰次郎さんは、私自身は面識がないのだが、初期のラボラトリー運動を担われた先達の一人である。

 

●この論文では役割には2つの捉え方があることが指摘されている。一つ目は、役割は社会の秩序が作られる中で生まれると考える。そしてその役割には社会的に期待される行為が求められる。そのためこの役割についた個人は、その社会的期待に沿うように役割演技(role playing)することが必要となる。

 

●例えばこの種の役割を重視すると、スタッフは自分の中で湧いてくる今ここの気持ちに蓋をして、メンバーから期待されるグループを促進するように見える行動をとるようになる。ここでは「内にある真の人間」としての自己自身と役割とは完全に別のもの、対立するものとみなされている。

 

●これは例えば上司としての役割、看護師として役割など通常言われている「役割」概念に近い捉え方であると言えるだろう。しかしもう一つの役割の捉え方が社会心理学者ミードによって提唱されている。それは人間の相互作用において生まれてくるもので、「役割採用」(role taking)と呼ばれる

 

●まずミードは人間の相互作用の基本的特徴を、意味あるシンボル〜具体的にはことば、身ぶり、記号など〜による媒介の働きにおく。そして「相互作用は他者の意図を読み取ることによって成立する。」と考える。つまり「人は相手の動作の主観的意図を読み取り、これに応じた反応を示す。」

 

●それは言い換えれば「一時的かつ想像的に自分を他者の立場におき、他者の眼を通して自らを見るということである。それは他者の意図を知ることによってその行動を自らがとるためである。」ここでいう役割とは人間的な相互作用を可能とするために意志される関わり方と捉えられるように思う。

 

●ラボラトリーはまさにこうした相互作用の中で、自分と他者が共に尊重される関わりを探るためのものである。スタッフはこの相互作用が実現するよう意識的に関わる。こうした関わり方は普通「役割」とは呼ばれていないかもしれない。しかし考えてみるとここには幾つもの「役割」が必要となる。

 

●まず相手の話を聴く役割、自分のことに引きつけて話してしまうことを避ける役割、感情を爆発させ相手を傷つけないようにする役割がある。また自分の怖さや不安のゆえに相手をコントロールしないようにする役割、さらに自分の偏見、因習への囚われが相手に悪影響を与えないようにする役割もある。

 

●そして自分自身であることを恐れず、また相手が相手のままであることを受け入れようと意志し、その上で一人の人として“今ここ”に起きてくる気持ちや感じを大切にして相互作用を行う役割が必要となる。これは常に自分の至らなさに直面させられる極めて厳しい役割である。

 

●この関わりは役割演技(role playing)では実現できない。しかし単なる一人の人として自由に関わるだけでも十分ではない。自分と他者を共に大切にするという思いの中で、それを実現するための相互作用のあり方を自ら選んで引き受け、そのあり方に向けてトレーニングしていく必要がある。それはまさにrole takingなのだと感じる。

 

2021年

2月

10日

温故知新〜C.R.ロジャーズ 『ロジャースが語る自己実現の道』(2005)第1章、第8章

●今週は昔日曜クラブで取り上げたロジャースのロジャースが語る自己実現の道』第1章、第8章を読み返している。そして最初に読んだ時よりも静かな深い感動を覚えている。そして今の私にとってとても大切なことを教えてくれているなと感じている。

 

●まず第1章「これが私です」では、改めて自分であることの意味を感じさせられた。彼は言う。「同じように感じたり、考えたり、信じなければならないという文化の共通パターンがある。しかし一人ひとりの人間は自分と言う一つの島である。まず自分が自分であろうとし、それが許された時、他の島との間に橋を架けられる。」

 

●「私は自分や他者のうちなるリアリティに開かれていればいるほど、急いで物事を処理しようとしなくなるようである。自分の内側で進行中の体験過程に耳を傾けようとし、他の人にも同じ傾聴の態度で接するほど、生命の複雑なプロセスに対して敬意を感じる。ただ自分が自分であり、その人がその人であることに満足である。」

 

●最近コロナの新規感染者数が減ってきて、仕事などで外に出て人と会うことをどうしたらいいか悩んでいた。他の人はほとんど対面で行っているのに私だけわがままを言ってテレワークをお願いしていることが少し心苦しかったのだ。しかし一方で高齢の母に感染させたくはない。こうした複雑な気持ちが私にあった。

 

●しかしロジャースの話を聞いて、改めて私は他者の期待に応える必要はないこと、自分の中で起きてくる体験過程(刻一刻と流れる気持ち、思い、感じなど)を大切に、私そのもので行動すればいいと感じられた。彼はこうした自己信頼の気持ちを後押ししてくれる。

 

●「私は自分の体験を信じることができる。ある行動が価値があるとか、するに値すると感じられるならば、それは実際に行うに値する。自分の知性より自分の生命体全体で感じることの方が信頼に値する。馬鹿げているように思えても、正しいと感じられる方向に進むと後悔しない。」

 

●また第8章「自己が真にあるがままの自己であるということ」—人間の目標に関するある心理療法家の考え−においても自分であることの重要性を書いている。彼は言う。「人生の目的を表現する最も適切な言葉は、キルケゴールの言った「自己が真にあるがままの自己であること」である。」

 

●そして言う。「これはバカバカしいほど単純に思えるし、これは目的というより明白な事実に思える。しかし自己探求からこうした奇妙な見方に到達した。人がこの見方に到達するのは、自身の経験をとおして、それが真実であることがわかった場合だけである。」

 

●私たちは成長過程の中で、自分でない所の自己から遠のいていき、「べき」から離れ、期待に応えることから離れる。他者を喜ばすことから離れ、「汝自身に誠実であれ」というシェイクスピアの言葉を再発見する。自分自身であるという自由は、驚くほど責任の重い自由である。

 

●注意深く、恐れを抱きながら、最初は自信なしに進む。これは常に健全な選択をするということではない。自分が選ぶこと、その結果から学ぶことを意味する。その中で私はある過程や流動性や変化であることに向かう。絶え間ない流れの中に身を浮かべ、この流れの中に身を委ね続けることに満足していて、結論や結果に向かおうとはしなくなる。

 

●いつも新しい、冒険、それは今ここにあるものである。真に実存している人間についてのキルケゴールの言葉に「真に存在する人間は常に生成の過程にある。」がある。さらに複雑さに向かっていく。自分自身の感情が非常に複雑であることを意識する。

 

●思ったのだが、例えば異性と関わる時には複雑な感情が生まれてくる。恐さや拒否することの罪悪感、性的なことへの恐れや躊躇、欲求。恥の感情。さらには自己確認やプライド、拒否される怖さ、異なるものへの好奇心、理解のし難さ、面倒臭さ。

 

●様々なことで起こるこうした複雑な感情全てを受容し、統合して私らしくいると言うのは至難のことだ。しかし今私はこうした小さな一つの感情もないことにしないで生きていきたいと思う。ロジャースと共に「自分自身に隠すものは何もなく、恐れるものもなく、その瞬間瞬間に豊かさ、複雑さのすべてでありたい。」と思う。

 

C.R.ロジャーズ 『ロジャースが語る自己実現の道』(2005)第1章、第8章の要約はこちら

2021年

2月

05日

温故知新〜『感受性訓練−Tグループの理論と方法』より 第2章 ラボラトリ

●相変わらず昔読んだ文献を読み返しながら、“今ここ”を大切にするということについて思いを巡らせている。ラボラトリーの歴史についてはだいたい読み終わったので、これからはラボラトリーが何を目指しているのかの意味について書かれた文献に取り組みたいと思っている。

 

●今回取り上げたいのが『感受性訓練−Tグループの理論と方法』より第2章「ラボラトリ法」である。私自身はラボラトリーを“今ここ”を大切にするためのトレーニングとして理解しているが、ここにはそれが生まれた際に目指された目標が書かれているからである。

 

●著者たちによるとラボラトリーの一般的目標は、「人が団体成員として所属、事業に参加する際の、参加の質を改善できる機会を与えることにある。」これは言い換えれば「外部の諸力に受動的に順応することを拒否し、外部環境を修正し変革することを目指す。」ことである。

 

●これは私の言葉では、自分を殺して外の人や集団に身を合わせてしまうのではなく、互いが“今ここ”で生まれた気持ちや思いを大切にできる人間関係や組織を作っていくということになる。そしてこれを実現するには“今ここ”に気づく力、受け取る力、それを伝える力、学びにつなげる力などが必要となる。

 

●これらはベネたちが指摘するラボラトリーの5つの重要な学習領域と重なっている。少し引用してみよう。

(1)感受性を高めること 

 自他の情緒的反応、感情表出に気付く。こうした意識化がないと、人間の目標・価値観の行為などが全人としての実存と不協和になる。結果的に半ば盲目状態で行動してしまう。

(2)自他の感情に注意 

 自分の行為の結果を認知し、それを通じて学習する能力高める。そのために他者の行動から与えられる手がかりへの感受性を高める。フィードバック技法の活用能力の開発に力点が置かれる。

(3)社会的で、かつ個人的な意思決定や行為の問題に対する民主的、科学的アプローチと両立する価値観や目標を発展させるよう参加者を刺激

 特に気づかずにいた自己の価値観の矛盾に、公の場で直面し、食い違いの解決の途中で、評価や批判を伴わぬ心理的支持が他者から与えられる場合に重要な学習が発展する

(4)自己の個人的な価値観、目標、意図を行為と結びつけ、内外からの要請と矛盾せずに行為できる道具として有効な諸概念や理論的洞察を発展させること

(5)参加者の環境に対する行動のしかたを有効なものにする助力を与える

 人間的努力の大きな無駄は、意図並びに診断と行動のアウトプット(影響)に脈略ない事である。意図と行為のよりよい結合に資する行動技術の発達に焦点をあわせる

 

●感受性を高めることや感情に注意することは、“今ここ”に起きている気持ちや思いを大切にすることと直結している。そしてこのことは時に自分が過去に身につけた行動パターンと自分の価値観、今の自分の想いが食い違っていることに気づかせる。

 

●ラボラトリーとは、参加者相互の援助の中で、より良い行為を試し、確かめ、身につけることで、こうした自分の中での矛盾を統合し、より私らしく成長していくことを可能にする場なのである。そしてこうした学びを最終的に確固としたものにするための道具として概念や理論が重要となる。

 

●また今回読んでみて改めて私は “今ここ”を大切にすることの中には、「今ここで起きている事実」を大切にし直面することが含まれているのだと気づいた。考えてみれば“今ここ”で感じたことを伝え合うということは、私の言動がどう影響したかの事実に直面することに他ならない。

 

●また何もないのにスタッフに反発心が起きるという“今ここ”が起きることがある。それはある種の投影と言っていいだろう。しかしラボラトリーではその反発心を含んだ言動に対し、他のメンバーやスタッフが“今ここ”で感じたことを伝え、吟味するということが起きる。

 

●この中でそのメンバーは自分の反発心に根拠がないこと、それが投影であるという事実に直面する。こうしたことは投影だけでなく、言葉を間違って解釈する認知の歪みなどでも同様に起きる。“今ここ”を大切に関わることは、事実に基づく関係を築くことでもあるのだ。本当に厳しい学びだなと思う。

 

●長くなるのでこの辺りにしておくが、この文章では他にも科学的民主的価値と方法の重要性やラボラトリーがベースにしている学習理論にも触れている。さらに学びを阻害する要因についても論じられている。興味をお持ちの方は要約を読んでいただければと思う。

 

『感受性訓練−Tグループの理論と方法』より第2章 ラボラトリ法(K.D.ベネ、L.P.ブラッドフォード、R.リピット)の要約はこちら

2021年

1月

28日

「役に立つ私」というラベルを剥がす

●2度目の緊急事態宣言によって予定していた研修がなくなるなど、年明けから再びステイホーム中心の生活をしている。身体に無理のない生活ができるという良い面もあるが、心理的には揺れを感じている。コロナへの恐怖が強くなる時、家族内の安穏とした暮らしに過度に依存していると感じる時もある。

 

●中でも最近私が特に気になっているのが、世間から取り残された感じ、自分が何の役にも立てなくなってしまった感じである。自己有用感と言うのだろうか、そうしたものが感じられなくなっている。そして何でもいいから動いてみたい、仕事をしてみたいという気持ちが湧いてくるのだ。

 

●もちろん冷静に考えれば、今ステイホームすることは、自分にも他者にも大切なことだし、高齢の母がワクチンを打つまで感染をできるだけ避けるのは理にかなっている。それにもかかわらずこうした不合理な焦燥感が私の中にあり、しかもそれは何か渇望のような強いものを含んでいるのだ。

 

●そこで思い切って時間をとってこの気持ちに焦点を当て、感じ、考えてみた。そして気づいたのが、私がこれまでの仕事や活動の中で本当に意味ある体験をしてきているということだ。グループで他者と共に生かされた体験、研修で参加者が“今ここ”に開かれたように感じられた体験などがそれに当たるだろう。

 

●こうした体験は私が「私であること」に満足をおぼえ、自信を与えてくれている。自分が人の役に立つことができるという自己有用感を持つことができる。これは生きる上でとても大事なことだと感じる。しかしよく見てみると、この自己有用感のようなものこそ、今の私の焦燥感や渇望を生んでいる原因のように思える。

 

●いつの間にか私は、人の役に立てるという満足感やそうした自信のある「私」でいることが、当たり前であると認識してしまっていたようだ。そしてこの自己有用感を再確認できる体験を繰り返し求めてきた。ところが今コロナでこうした体験を得ることが難しくなり、焦燥感や渇望が湧いてきていると気づいたのだ。

 

●これは怖いことである。私は “今ここ”で生まれてくる気持ちや想いを大切にすることの大事さを仕事や活動で伝えている。それが自分や人を大切にすることにつながると思うからだ。しかしいつの間にか自己満足や自信を保ちたいという私欲のために行なってしまっている可能性があるからである。

 

●こうした気づきの中でいくつかのことを思った。まずナラティブ心理学では人生の組織化原理としてナラティブ(語り・物語)を捉える。この人生を物語にして意味にまとまりをつけると考えるのだ。そして自分が無意識で持っているストーリーを書き換えることでよりよく生きることが可能になるとする。

 

●そして私は無意識のうちに、これまでの体験をストーリーとして組織化し、人の役に立つ「私である」という意味を受け取ってきたように思う。これはこれまで私を生かしてくれていた。しかしこのストーリーは繰り返し再確認を求めてくる。だから今の私にとって焦燥感や渇望の源になってしまっている。

 

●こうして想いを巡らせる中で私は、先日長尾文雄さんに紹介してもらった「障害受容」という言葉を思い出した。WHOでは障害を「心身機能・構造」に問題が生じた状態、「活動」に問題が生じた「活動制限」、「参加」に問題が生じた「参加制約」の3レベルが統合されたものと捉えているらしい。

 

●このWHOの定義からするとコロナの中の私は、活動も参加も制限されるという障害を持っているとも言えるだろう。だから今までできたことができなくなることが生じても不思議はない。そこではこれまで築いてきた自己が揺るがされる。今私には「役に立たない私」を受容していくことが求められているのだ。

 

●そしてこれと関連して昨年南山大学人間関係研究センターの講座で自己概念を再検討する実習をしたことを思い出した。それは自己概念を何十個かの言葉にしてラベルを作り画用紙に貼り、もう一度今の自分にフィットしたものを探る実習だった。この自己概念はまさに昔の体験を基盤とした物語によって作られている。

 

●私はその際、たくさんのラベルが剥がされたこと、つまり今の自分に必要な自己概念(=物語)が少ないことに驚いた。これを思い出し私はイメージの中で「有用である私」「役に立つ私」というラベルを自分から剥がしてみた。すると不思議に焦燥感や渇望感は消え去り、心安らかにいられるようになったのだ。

 

●この時、多分次のようなことが起きたのだと思う。私は刻一刻と変化していく。その中で自己概念やそれを支える物語も変容せざるを得ない。しかし私や他者、世界を変化させる力、つまり私を生み、私を私にならしめ、物語を生み、時に障害を与え、最後には死に至らしめるこの力は常に“今ここ”に存在している。

 

●この力はまた、物語や意味を超えてただ存在し流れている。いのちに「なぜ」はないのだ。そして私が今までの物語に頼れなくなった時こそ、その実在を感じやすくなる。そしてこの流れの実在を感じる時、生きることに条件は要らなくなる。役に立たない私にも、ただいのちはこの瞬間も与えられ続ける。

 

●うまく言葉にできないが私はこのようなことを感じ、心安らかになったのだと思う。これからも私は“今ここ”を大切にする活動を続けていきたいと思っているが、それが自分を支える条件になってしまわないようにしたいと思っている。そのためにもいつもこの“今ここ”の実在を感じていたいと思うのだ。

2021年

1月

22日

温故知新〜中堀仁四郎(1985)「JICEラボラトリー・トレーニングの変遷−その2」南山短期大学紀要『人間関係2.3』

前回に引き続き、中堀さんJICEラボラトリー・トレーニングの変遷についての続きを見てみたい。これは1968年から71年の間に行われた、第11回から第20回までのJICEラボラトリーの記録である。私が興味を持ったのはラボラトリーの基本的方向性の変化についてである。

 

●まず第11回から「教会生活指導者研修会」が「JICEラボラトリー・トレーニング」と改称された。これは教会以外からの参加者が増加しつつあったからとされている。このラボラトリーで強調されたのは“共同体の生活”“創造的に生きる”ことであり、感情表現の自由さを増すようなプログラムが取り入れられている。

 

●69年に行われた第12回でも「ラブを行うからにはコミュニティ意識を念頭に置いてやるという姿勢がなくてはならない」、「Tグループトレーナーの意識だけでなく、ラブ全体の共同体づくりにもっと配慮することが必要だ」、「至れり尽くせりの配慮をし、準備をすると、かえって共同体意識の生成を抑えてしまうことになるのではないか」など、共同体が強く意識されている。

 

●第14回においても全体会には共同体としての意識を参加者が持つような要素を入れることが意識されている。また礼拝は“人と根源的なものとに出会わせるものに気づき、他者の介入を受け入れ、創造的に生きる力を得る時”としてトレーニングの一環と考えられている。

 

●しかし71年に行われた第17回になると現場適用ということが意識されてくる。これまでのラブではTグループが終わりの日まで続いていたが、このラブでは最終日の前日でTグループが終了し、その後、全体会でアッセンブリーゲームを行い現場に帰る準備としている。

 

●また同年の第18回では参加者との間に心理的契約を結ぶ機会を持ち、参加者が学習方法についてある程度の知的枠組みを持って出発できるようにしようとした。その順序は(1)委員長のパーソナルな挨拶(2)学習過程の理論としてのEIAHの説明(3)学習例として実習とふりかえりの実施(4)ラブのねらいなどを示す(5)一人になって自分の持ってきたねらいと提示されたラブのねらいの統合を試みる(6)聖書朗読、賛美歌であった。

 

●このラブの準備会ではこうした心理的契約によってトレーナーの役割やそこで行うことを明確にしてしまうことが、Tグループの学習に必要でありその学びの素材である“不安”を解消させてしまうことにならないか、との意見も出された。しかしねらいや学習場面での枠組みを明確にして無駄な不安をなくし、共通のレベルで出発するのも良いというような意見も出されている。

 

●そして同年に第20回ではラブ学習の現場適用を重視しようと話し合っている。個人の内的経験に止まらず、そこにあるプロセスに気がつく人になる。現場で効果的に働ける人になることが目標として話されている。このラブは北海道で行われている。

 

●こうした10回のラブにおいて、直後の感想としては自己・他者についての新しい肯定的認識、他者との出会いというものが非常に多く挙がったようだ。つまり自己・他者、および相互関係の領域での参加者の受けたインパクトは大きかった。ラボラトリーが生まれた当初強調された組織社会の変革推進体になる、ということは参加者には身近なこととしては受け取られなかったらしい。

 

●こうしたこともあるのだろう、徐々に“共同体”への意識は薄くなっていく。しかし私自身は意識できなくても、“今ここ”で感じたことを語り聞くような共同体が生まれることなしに、自己・他者・相互関係の部分での学びは生まれないだろうと感じている。実践する際に私はそこをもう少し意識していきたいと思う。

 

●また面白いなと思ったのは、“不安”を学習の要素とはっきりと捉えていることだ。心理的契約をして例えばスタッフの役割を事前に説明することは、この不安を解消させてしまい、学びの要素を減らしてしまう可能性があるという意見が出されている。

 

●私自身はラボラトリーや研修をする時、出来るだけ参加者の抵抗感がないように気を配るタイプである。もちろんこれは当初のねらいに皆が向かいやすくなるという意味で良い部分もあるが、学びの要素としての不安や抵抗感を参加者から取り去ってしまう可能性があるということはもう一度意識したいなと思った。

2021年

1月

14日

温故知新〜中堀仁四郎(1984)「JICEラボラトリー・トレーニングの変遷−その1」南山短期大学紀要『人間関係』創刊号

●前回は『感受性訓練』からアメリカにおけるラボラトリーの誕生とその後17年の歴史を見た。そしてこのラボラトリーはいくつかのルートで日本に伝えられたと言われている。その一つがアメリカ聖公会というキリスト教の団体が、キリスト教教育という枠組みの中で日本に持ち込んだ流れである。

 

●この流れはその後立教大学キリスト教教育研究所(通称JICE)、南山短期大学を経て南山大学などに受け継がれ、現在に至っている。著者である中堀仁四郎さんは、日本におけるラボラトリーの受け皿となったJICEに在籍し、日本のラボラトリーの創成期からこの運動に関わってきた。

 

●そしてその後南山大学短期大学に移られ、そこを退官後もHIL(ヒューマンインターラクション・ラボラトリー)研究会を主宰し、年3回のラボラトリーを実施している。私も中堀さんに誘われこの活動に関わり始めた。だから彼は私のラボラトリーの師匠ということができる。

 

●今回はこの中堀さんが南山大学短期大学時代に2回にわけて紀要『人間関係』に投稿された、1958年から1970年までのJICEラボラトリー・トレーニングの変遷についての文章を読み直してみようと思う。まずは1984年の紀要に書かれている第10回までの流れを見る。

 

●1958年に行われた第1回から第10回までのラボラトリーは、「教会集団生活指導者研修会」と呼ばれた。その目的には次のような文言がある。「教会の共同体生活は、キリスト教信仰の伝達のための基本的媒体である。」この共同体の生活をより良くするための研修会と考えられたのである。

 

第1回は11泊12日の日程でアメリカ聖公会およびカナダ合同教会より10名の指導者をスタッフとして迎え、参加者には日本のプロテスタント教会各教派の教職者など英語ができる35名が選ばれた。そしてプログラムにおける学びの構成要素としては次の3本柱が強調された。

 

●まず研修会の1日はTグループで始まる。Tグループで、メンバーは参加者としてグループ内の様々の事象を経験し、同時にそれを観察する。メンバーが互いに認知した今ここの出来事を、フィードバックし、共有化する。その過程はまた新しい事象をグループの中に生み出すのである。

 

Tグループに続いて、理論セッションが持たれる。ここではTグループに起こっていることに関係のあると思われる理論が提示される。この提示は講義、スキット、バズなどの手法を用いてなされる。これはTグループの体験を整理し、理論として深めることを目指しているものと考えられる。

 

●午後には構成化された小グループで、グループ観察、ロールプレイング、司会者のスタイル、変革の技法などのグループ・スキルを参加者が現場で活用できるような学びを持つ。夜は自由またはその他の領域の問題—「神学と研修」など−を取り扱う時間として用いられている。

 

●第1回研修会の参加者のあるものは強力なインパクトをこの研修会より受けたようである。彼らはその後自主的研究会を続けた。その結果2年後に第2回研修会が開催されることになり、その後にJICEが設立された。第3回から初めて日本人のスタッフだけで開かれるようになった。

 

●第2回から第4回まではアメリカより移植されたラボラトリーを我が国の土壌に根付かせる努力がなされた時期であった。そして第6回は、大きな変化があった。Tグループの“今ここ”での体験を通して、個人が自己についてより深く学ぶ方向に進んだと見ることができる。Tグループを重視する動きが起こったのである。

 

●しかし一方では研修会の学習体験を現場に生かすという立場からグループ・スキルの習得に強い関心が持たれており、この2つの側面をいかに研修の場で結びつけていくかがその後の課題となっていった。第7回ではそこを意識したプログラム構成が試されているし、この問題意識は現在にまでつながっている。

 

●その後第10回では研修期間を7日に短縮した。それは研修を2つに分けて、Tグループ中心のものを基礎訓練とし、現場適用のためのスキルトレーニングはある期間を置いてから行うことが効果的であるという考え方から行われたことでもある。

 

●以上を通し中堀は、「初期のものは教会のリーダーとしてのスキル習得、責任ある、創造的なあり方を目標としているのに対し、後のものはより個人の成長と自分らしい生き方を見いだすことが表面に出ている。」と指摘している。また中堀は“pre-Lab”というスタッフによる”ラボラトリー“に触れている。

 

●研修会の都度そのスタッフチームが編成されると、開催の数ヶ月前に準備研究会を3泊4日あるいは2泊3日で行い、それまでの研修会の結果の検討、そこからお互いが今回の研修会に持つ期待を出し合い、研修会のねらいを作りながら、どのような新しい変革をしていくかを話し合い、それについてのお互いの分担を決め宿題として持って帰る。

 

●そして研修の始まる丸2日前から第2回目の準備会、pre-Labを行う。今度は実際の参加者を念頭に置いて準備がなされる、という風であった。前回を踏まえて新しいものを作り出す作業がなされてきたのである。ここまで手をかけて作っていたというのは本当に驚きである。

 

●中堀は最後をこう締めくくっている。「何事もそうであるが、トレーニングも定形化してくると安定はする。また参加者の満足にもムラがなくなる。しかし“ラボラトリー”ではなく“ラボラトリー・トレーニング”という定形訓練になってしまう。しかし時には“ラボラトリー”の冒険が必要なのかもしれない。」

 

●私は「今ここ」で起きてくるものを大切にそこから学ぶということを大事にしたいと考えている。しかしこの文章を読んで私は、それは一人でできるものではなく、自分や他者に生まれてくる「今ここ」を相互に大切にしあう「共同体」の中でこそ実現できるものだと改めて感じた。そしてそこにこの運動の原点があるのだと再認識させられた。

2021年

1月

11日

温故知新〜『感受性訓練−Tグループの理論と方法』より 第4章「ラボラトリにおけるTグループの歴史」 K.D.ベネ

●温故知新という言葉がある。昔読んだ大切な文献であっても、しばらく触れないうちに忘れてしまっている所が出てくる。コロナ のおかげで時間的余裕のある今、こうしたものを読み直すことで、新たな意味を見出し、さらに自分のものにすることもできるのではないかと感じている。

 

●そこで今年はこのブログでもこうした温故知新の取り組みから生まれてきたものを書いていきたいと思う。具体的な文献としては、過去に読んだもののうち、今の私にとってラボラトリや日常で「今ここ」を生きるための血肉となっていて、今この時に生きる勇気や希望の湧いてくるものを取り上げたい。

 

●そしてその第一回目として『感受性訓練−Tグループの理論と方法』の第4章「ラボラトリにおけるTグループの歴史」(K.D.ベネ)を選んだ。それは「今ここ」で起きる体験を学習の源泉にするラボラトリ方式体験学習という学び方のルーツがここに書かれているからである。

 

●この第4章ではこの学び方が生まれた1946年以降、17年に渡る発展が書かれている。生まれた当初はまだ「今ここ」に起きる体験を学習の源泉にするという考えはなかった。その後のラボラトリの経験から、「今ここ」の体験から学ぶ学習のやり方として「Tグループ」が開発された。

 

●これは10人前後の人が小グループになって椅子を丸く並べて座り、時間と場所とメンバーという枠だけを決め、特に議題を設けず、司会などもなしで関わっていくという方法である。当初はぎこちないが、徐々に「今ここ」で感じたことを伝え合える関係が生まれ、グループ自体も成長して行く。

 

●この学び方が発見された際は、社会科学における大発見として捉えられたそうである。その証拠に当初のラボラトリであるBST(基礎的技能訓練)では非常に壮大な目的が掲げられている(下記参照)。しかし徐々にそれが過大であることが認識され、目的は絞られてきた。

 

●その際どこに焦点を合わせるかによって、ラボラトリは様々な発展を遂げた。臨床心理系の専門家が加わり個人の成長や関係に焦点を当てるラボラトリ、組織開発や社会変革などのスキルを学ぶことに焦点を当てるラボラトリなどである。この際、Tグループをどう使うかも色々な試行錯誤が行われた。

 

●またTグループで深い体験をした後、それを日常生活や現場でどのように使ってもらえるかを意識したラボラトリも多く試された。そしてグループにおけるスタッフの役割も多様であった。非常に多くの役割を求めるラボラトリもあれば、スタッフはグループに入らず自分たちでグループを診断させつつ進める方法も試された。

 

●こうした17年の経験を経た上で、ベネはTグループ運営の中心的主題について次のように述べている。「これはメンバー全員が相互に学習の促進に専念するグループであり、学習の主な内容は“いま・ここで”の行動的事象の中で展開するグループやメンバーの経験である。」

 

●「Tグループについて、少なくとも“いま・ここで”の集団内のエピソードや事象に焦点をあわせることにより、自己・対人関係・小集団の機能について学習を達成する上で重要であることを否定するものはない。これは実証済みの事実である。またTグループの相互交渉過程は、より大きな社会体系のダイナミクスについても付加的学習をもたらせてくれる。」

 

●さらにベネはTグループの1つの大きな流れとして次のような目的を挙げている。「感受性訓練は、文化的標準によれば“正常”であるが、実際にはこの文化的標準そのものによって複雑・微妙に影響を受けている人間の人格的成長を促進する方法であり、個人の全人格をたかめる方向を目指すものである。」

 

●私はこれを読んで、連綿と今に連なる模索がすでにこの時代からあったということを再認識した。そして色々な考え方やアプローチの違いはあっても、「今ここ」を大切にするという点には異論がない。これからもこの「今ここ」を大切に体験から学ぶというコンセプトを大事にしていきたいと感じさせられた。

 

<参考 1947〜1948年のBST(基礎的技能訓練)の目的>

(1)「変革媒体者としての技能、諸概念を習得する場所」

自分の職務が他人を援助することである人が、個人・集団についての理解、態度、技能に変化をもたらすために活動するには以下の基礎的技能が必要とされる

①変革媒体者が自分の個人的動機付けや「被変革者」と自分自身との関係について行う評価の技能

②変革や診断的過程の必要なことを「被変革者」に自覚させる技能

③行動、理解、感情を手掛かりにして、変革媒体者と被変革者とが状況を共同で診断する技能

④他人と協力してその問題を決定し、行動を計画しそれを実践する技能

⑤成功裡にかつ生産的に計画を遂行する機能

⑥活動・思考の方法ならびに人間関係などの諸領域において、全体的な進歩が認められるかどうかを測定・評価する機能

⑦すでに達成された変化を持続させ、拡大させ、維持させる機能

 

(2)集団の成長と発達を理解し援助することを学習する場所

①集団成員間の相互コミュニケーションの卓越性(自由な気持ちで防衛的にならず討議するため、共通理解や発言の意味内容についての敏感さと許容性をもつこと)

②集団の機能様式に対し、集団としての客観性をもつこと(集団がその集団の機能様態の分析と評価を行い、それを許容することができる程度)

③成員としての集団の責任を受け入れること(成員が各自の潜在的な貢献について感受性を高め、励まし合うだけでなく、リーダーシップの機能とメンバーシップの責任とを受容し共有しようとする意志を持つこと)

④集団の凝集性もしくは自我の強さ(新しい成員と新しい企画との同化作用を増大させ、葛藤によって崩壊するのではなく葛藤を活用し、集団の長期的な目標を保持し、成功や失敗から学ぶことができるのに十分な程度)

⑤自らを知り、かつ正しく思考することのできる集団の能力(集団の内外において資源を活用する能力。集団思考の誤りを発見し、それを正す能力)

⑥集団の新陳代謝のリズム(疲労、緊張、速さ、ペース、情緒的雰囲気)を発見し、それを活用する集団の能力

⑦集団成長過程において、意味あるソシオメトリックな諸要因を認識し統制し、それを活用する集団の能力

⑧メンバーの理想、欲求、目標を、集団の伝統、目標、理想に統合していく集団の能力

⑨必要な時に新しい機能や小集団を作りだし、適当な時期に集団の存在を終わらせることのできる集団の能力

 

 

2021年

1月

05日

感染症という脅威のあることがデフォルトである世界

●新型コロナ感染症の蔓延の中で、私がずっと不思議に思ってきた妻の生活習慣の謎が解明できたように感じている。彼女は比較的几帳面なのに、なぜか換気扇だけをいつもつけっぱなしにする。もっといえば肌寒い季節でも家中を開け放つ癖がある。

 

●その他の時はわりとゆっくりとしているのに、食事だけはすごく食べるのが早い。また決して途中でお茶を飲まない。部屋の掃除にはそれほど神経質ではないが、洗濯だけは1日最低でも2回はする。比較的長く外出していても、外ではお手洗いをできるだけ我慢して家で済まそうとする。

 

●最初は何度かこうしたことを指摘したが、決して改まらない。そのうちこの人はそうするのが好きなのだなと受け入れ、慣れて何十年も経った。しかしこのコロナ感染症の中で、こうした彼女の持つ生活習慣への見方が大きく変わった。実はそれらは全て感染症予防の対策になる行動だったのだ。

 

●言うまでもないが、換気扇をつけることや家を開け放つことは換気のためになる。無駄口を叩かず食事を早く済ますと唾液の飛沫が飛ばない。食事中お茶を飲まないのは、胃液を薄めず雑菌を殺すためになると考えられる(現代の研究では常識的な量だと問題ないとされているらしい)。

 

●また家庭内感染を防ぐには外で着た衣類をすぐに洗濯するのが大事だ。さらに新型コロナでもお手洗いを通じた感染の危険が言われている。外でお手洗いに行かないのは感染予防になる。つまり私の妻の生活習慣は全て感染症を予防するためには非常に合理的な行動だったのだ。

 

●しかし聞いてみると、自分ではそこまで意識はしていなかったらしい。ただ彼女の父がシベリアに抑留されていた時、衛生兵として衛生管理を指導していたことがわかってきた。当時薬などは十分なかったので、感染予防のための生活習慣を身に着けることが生き残るために極めて重要だったのだ。

 

●そして義父は日本に帰ってからも家族に対し厳しくこうした指導を行なった。私の妻は知らず知らずのうちに、いわば家風のようなものとして感染予防のための生活習慣を身に着けた。そしてそれらは今でもこの新型コロナの蔓延の中で、我が家を守る働きをしてくれているのだ。

 

●こうしたことがわかって私は、妻や義父に思わず感謝の念を覚えた。同時に私たちよりたった一世代前の人たちにとって、命に関わる感染症という脅威が、とても身近なものであったことを思い起こさせてくれた。結核をはじめとして多くの致死的な感染症が存在したし、ただの風邪ですら特効薬のない時代には命取りだったのだ。

 

●言わばこうした感染症という脅威のあることがデフォルトである世界を、義父の世代より前の全ての人たちは生きてきた。そして身を守るためにできることを生活習慣として身に着け、世代を越えて引き継いできたのだ。こうしてみると感染症という脅威のない世界がどれほどありがたいものであったかがわかる。

 

●そして今、新型コロナウィルスの蔓延によって、私たちは再び脅威のあることがデフォルトである世界に引き戻された。確かに恐ろしいけれど、これは私たちの先祖が何万年も生きてきた世界でもある。義父を見習って、今必要とされる生活習慣を身につけ、あとは淡々と生きていきたいなと感じている。

2020年

12月

25日

クリスマスの夢

●今日はクリスマスである。私の家では特にツリーも飾らないし、ケーキも食べない。特別な日として扱っているわけではない。ところが昨晩、この聖夜にとても印象的な夢を2つ見た。一つは地下深くにある薄暗い回廊(ちょっと洞窟に近い)のようなところに部屋があり、そこを日々訪れている夢だ。

 

●最初私は怖かったようだが、毎日来ているうちにだんだんと慣れてきて、その部屋にはとても貴重なものがあることに気づく。その回廊は開かれていて、観光客のような家族連れも訪れるのだが、回廊自体をちょっと見物するだけですぐに帰ってしまい、その部屋や貴重なものには気がつかない。

 

●もう一つは、綺麗な部屋がプレイルームのようになっていて数人の大人と子どもがいる。そして何かの理由で、一人の子ども(あまり大きくない)が私たちの下で過ごすことになった。私たちはその子を迎えるために生活を改める準備をしているが、そこに大きな恵みが感じられていた。

 

●この夢について思いを巡らせていた時、ふと前回ブログで触れた、昔読んだ本を読み返しながら“今ここ”を大切にすることを考えていくという、今私が取り組んでいることを思いだした。実は昨日も私のラボラトリーでの関わりや日常を生きるベースになっている文献を整理し、ざっと見返していたのだ。

 

●これらの本の中にはよく知られている著者のものもあり、普通の人にも手に入るものである。ただ比較的昔の本でもあるし、それを手に取る人は少ないかもしれない。しかし私はたまたまそれらに触れ、自分が生きる上で不可欠で、それを助けてくれる宝と思えたので、読みこまざるを得なかったのだ。

 

●そして私が生きることを助けてくれると感じるのは、そこに私の言葉で言う“今ここ”が描かれているからだと思う。“今ここ”は、例えば気持ちや身体の感じが“今ここ”で起きてくると言うような、本当に何気ない身近なものだ。しかしこれらの本はその何気ないものの持つ意味の大きさを指し示してくれる。

 

●それは体験からの学びの源泉になるばかりでなく、一人一人を大切にする関わりの、一人一人の尊厳の源でもある。また私が誤った道を進もうとした時、それは違うと導いてくれた。コロナのような危機において、心やすらかに生きるための砦となっている。さらに絶望や無意味さに苛まれる時に与えられる希望でもある。

 

●今年の初めこのブログを書き始めた時から、私は今まで以上にこの“今ここ”を大切にできるよう生活を改めたいと思っていた。そしてこうしてクリスマスの晩に見た夢は、私がこうして生きていることがそれでいいんだなと深く感じさせてくれている。

2020年

12月

18日

温故知新

●新型コロナウィルスが流行してからこのかた、私の中では何かを前向きに取り組むことが難しいと感じていた。刻々と移り変わる状況の中で家族を守るために情報を集め対処する必要もあったし、これまでやってきたことをこのコロナの中でどう行うかに注意を集中する必要があったからだ。

 

●しかし流行後およそ一年が経って、コロナについて新たな情報・知見が出てくることは稀になった。私も家族も感染防止のために日常どう振る舞うかのルーティンも確立した。今日本では感染拡大が続いているが、私としてはやることはやった感じがしている。

 

●恐らくこうした理由からだろう。私の中では今徐々にこれからのことに思いを巡らせる時間が増えている。特にラボラトリーのことを考える時が多い。感染防止の観点から今年は一度も開催できなかったが、来年以降どんな風にラボラトリーをしていけばいいだろうということが私の大きな関心事になっているのだ。

 

●こんな風に考える中で、ふと昔、南山大学におられた山口真人さんの研究生をしていた時を思い出した。この時はラボラトリーに関わる本などが課題図書として与えられ、それを読んで抜き書きを作り、自分なりに検討してから、月に一度、先生の研究室で60〜90分ほど討議する。その中で学んでいく。

 

●私はこの時間がとても好きだった。それはもちろん学びが深まることもあるが、文献を読んで感じたことを、本当にきちんと聴いて受け取ってくださる先生のお人柄があったからだろう。また同じ実践をする者として、根っこの価値観を共有しあえるということに喜びが感じられていたこともある。

 

●さてコロナの状況からすれば、少なくとも来年上半期はまだ合宿のトレーニングは難しいだろうし、勉強会も避けたほうがいいように感じる。ただふと思いついたのだが、オンラインという道具を使えば、文献を読んで、“今ここ”で感じたことを分かち合う場を持つことはできるのではないか。

 

●私自身も昔読んで、ラボラトリーの実践のための血肉になっている文献ではあっても、しばらく触れないうちに忘れてしまっている所もある。こうした昔の文献を今読み直すことで、温故知新ではないが、新たな意味を見出し、さらに自分のものにすることもできるのではないかと感じている。

 

●そして山口先生としたように、ラボラトリーに興味・関心を持つ人と、“今ここ”で感じたことを分かちあいつつ、こうした学びを行えるといいなと思う。こうしたことが来年以降のラボラトリーの実践につながっていくような気がしていて、年明けには知り合いにこうした呼びかけをしてみよう思っている。

2020年

12月

11日

新型コロナウィルスと私〜コロナによる精神的不安と「今ここ」

●今私の住む大阪では、新型コロナウィルス感染症が広がりを見せている。ついに重症病棟の看護師さんが足りなくなって、自衛隊から派遣してもらわなければならないほどになった。死者数も12月9日時点で380人と、全国の15%を占める。人口は7%くらいなので、死亡率はかなり高いと言えるだろう。

 

●私の身の回りでも次々と感染が出ている。私の支援している学校でも陽性者が出たし、私の子どもは塾の先生をしているのだが、先週教えている生徒さんの中に陽性者が出た。それで彼は高齢の祖母(私の母)に感染させないため、急遽近所のアパートに引っ越すことになった。

 

●こうした状況の中で私は先週、かなり精神的にしんどくなり、自分でもうつ的な状態になって、周りにも迷惑をかけているなと感じることがあった。その原因としてまず感染拡大の中で家族を感染から守れないのではという恐れがある。感染拡大に対する対策の遅い政府や行政への怒りもある。

 

●また私が支援している組織でも、普通に仕事が行われていて、そこではテレワークはほぼ私一人という状態にある。そのため申し訳ない気持ちやそれでもテレワーク大事やん、と言いたい気持ちが葛藤を起こす。周りを見てもあまり怖がっていない人も多く、私だけが怖がっているのかとまた不安になる。

 

●こんな感じで一週間を過ごし、先週末これではいけないとふりかえりをした。そして今週は「心安らかでいる」ということを一週間の目標にして計画を立て臨んでいる。まず先週は怖くて自粛したテニスを再開した。これは何も考えないで屋外で体を動かす機会になっていて、精神的にプラスになっている。

 

●またニュースに接しすぎないように、夜意識してアニメを見たり、軽い本を読んだりしている。大阪府がようやく医療緊急事態を宣言し、不要不急の外出を控える呼びかけをしてくれてホッとしたこともあるだろう。だんだん不安が薄れてきて、昨晩は改めて「今ここ」を大切に生きて、あとはどうなってもいいやと安らかさを感じられるようになった。

 

●幸いもう還暦に近く、若い頃のように世の中を無理して回す必要はなくなりつつある。「今ここ」を大切にして仕事がなくなるとしても、まあなんとかなるだろうと思える。そして「今ここ」を大切にして万が一感染しても、それは本当にやるだけやってのことだからまさに仕方がないことなのだと諦められる。

 

●そして何より自分の中で「今ここ」で起きてくるものの存在感が何やらとても信頼できるように感じられたことが大きい。私は難しく考えすぎる必要はなく、ただ「今ここ」で起きてくる感じや気持ち、想いなどを大切にして生き、それが生み出す結果をそのまま受け入れればそれで良いと思えたのだ。

 

●こうして「今ここ」に委ねる心の有り様は、私はラボラトリートレーニングで学んできたものである。それはこれまでも私を導いてくれるものであったが、こうして大きなストレスのかかるコロナ禍の中で、私にとって唯一頼ることのできるものとして重要性を増しているように感じられる。

2020年

12月

04日

啓蒙主義と異なる人々の間の共通言語について

●ここ数年私は、アメリカの政治状況を巡って不思議に思っていることがあった。例えば地球温暖化という気候変動がいまだに存在するかどうかが争われることや、新型コロナ対策を巡ってマスクをするかどうかについて対立していることもそうである。

 

●これらはいずれも今の所、科学的に反証することのできないほぼ確実な知見なのに、それがなぜ争点になるのだろうと不思議に感じていたのだ。しかし前にも取り上げたスティーブン・ピンカーの「21世紀の啓蒙」を読んで、なるほどと腑に落ちるところがあった。

 

●彼が言うには、啓蒙主義とは「私たちは理性と共感によって人類の繁栄を促すことができる」と言う原則を持つ考え方であり、理念として理性、科学、ヒューマニズム、進歩、繁栄、平和と言うキーワードがある。つまり理性を用いて世界を理解し、その知識を用いて進歩と繁栄、平和を築くと言うものだ。

 

●そのモットーは「知る勇気を持て!」で、言論と思想の自由によって様々な因習やドグマから抜け出すことを大切にしている。実際17世紀後半から18世紀にかけてこの考えが広まってから、様々な側面での進歩が起こり、私たちが生きているこの世界に至っている。

 

●しかしピンカーによれば今この啓蒙主義には多くの攻撃が加えられている。そしてその一つの大きな流れを作ったのがニーチェであると言う。ニーチェにとって偉業とは啓蒙主義がもたらしたような病気を治療する、飢えた人々に食事を与える、平和をもたらすことでなく、芸術上の傑作や軍事上の征服によって達成される。

 

●つまり人生で重要なのは、善悪を超越し、意志を力に変え英雄的栄光を手にする「超人」になることである。このようなヒロイズムによって人類という種の可能性を引き出し、人類を存在の高みへと押し上げることができる、とする。啓蒙主義は文明を堕落させる女々しい退廃に他ならない。

 

●ニーチェにその意志があったかは別にして、彼の考えはファシズムやナチズムの思想的基盤となり、暴力と力の賛美、自由民主制度の破壊、人命への冷酷な無関心に結びついた。そして個人を国の一つの使い捨ての戦士として考えるような人権を軽んじる基盤ともなった。

 

●そしてピンカーは今のアメリカの政治状況をニーチェの流れを汲む「権威主義的ポピュリズム」の隆盛として理解する。この考えでは人々は文化、血統、母国から切り離すことはできない。淘汰の単位は個人ではなく集団であるというファシズムの考えが一つの要素となる。

 

だから国家が国際合意(例えば地球温暖化防止のパリ協定)のために国益の一部を譲るのは、偉大な国家を目指す生得権を放棄することになる。そして国家は有機的統一体であり、人民の魂を直接言葉にできる偉大な指導者がいれば、その指導者に国家の偉大さを託することができると考える。

 

●「権威主義的ポピュリズム」のもう一つの要素は反動主義である。この考えによれば啓蒙主義のお粗末なビジョンは、アノミーと快楽主義と不道徳の蔓延を生むだけである。社会は高みを目指すべきであり、より偉大な存在が指し示すより厳格な道徳規範を奨励すべきとされる。その拠り所が伝統的キリスト教とされる。

 

●彼らは過去のある時代に秩序立った幸せな世界があったと想定し、その後敵対勢力のせいで秩序が乱され、社会は衰退したと考える。そして今の社会を立て直して黄金時代を取り戻すことができるのは、古き良き時代のやり方を記憶にとどめている英雄的指導者だけなのだ。

 

●私はこうしたピンカーの話を聞いて、トランプさんは人民の魂を直接言葉にでき、今の社会を立て直して黄金時代を取り戻す英雄的指導者として振舞っているのだなと初めてわかった。そしてトランプさんの支持者が科学を軽視する理由もわかったように感じる。

 

●またこの本を読んで私は改めて啓蒙主義は、異なる文化や考えを持つ人々との間に共通の価値観や言語を築く上で極めて重要な役割を果たしてきたのだと理解できた。「権威主義的ポピュリズム」の考えでは、国や人種、民族、宗教が異なれば共有できるものが何もなくなるからだ。

 

●そしてこれは遠いアメリカだけで起こっていることではないように感じる。例えば私の従事しているラボラトリートレーニングにおいても、それが科学に基盤を置くことによって初めてそこに取り組む人々の間に共通の言語ができるように感じている。

2020年

11月

27日

新型コロナウィルスと私〜弱い立場にある時の感じ方

●今また新型コロナ感染症が蔓延してきている。私の住んでいる大阪は特に流行がひどく、10万人あたりの新規患者数も多いし、重症者も増えていて、重症者用の病床もほぼ埋まりつつあると言われている。さらに昨日は大阪だけで12人もの人が亡くなった。

 

●こうした中、私の中ではここ数日お腹の中にズンと重いものがある感じがしていて、今日はついに朝早く目を覚ましてしまった。それでフォーカシングの方法を使ってベッドの中でその感じに焦点を当て、それが何を言いたいのかに耳を傾けてみた。

 

●まず出てきたのは、私自身が感染することへの恐れだった。でも「怖いよ〜」という感じはあるが、今感じているほど重いものではない。次に出てきたのは「わかってもらえない」「助けてもらえない」という気持ちだった。もう一つ「打つ手がなくなる」という切羽詰まった感じもあった。

 

●何回かこのブログでも触れたが、私は4人家族で、感染すると重症化のリスクの高い既往症のある高齢者と同居している。致死率は少し下がったと言っても老人が感染すれば10数パーセントは死に至る病が目の前にある中で、どうにか皆元気でこのコロナ禍を乗り切りたいと心から願っている。

 

●そしてまず私は残念ながら世の中はこうした私の願いを助けてくれる方向には動いていないと感じているようだ。大阪では政治は「病床のある限り、感染は容認する」という方針をとっている。また国もGo toキャンペーンなど感染のリスクを一定とる方向で進んでいる。

 

●学校も特に10代の子供の重症化リスクが小さいため、「普通」に行われている。感染のゼロリスクを目指すと経済が行き詰まり多くの人が困るのだから、こうした政策は理解できる。また休校などをすると、生徒も保護者もより大変になる家庭が多い。それもよくわかる。

 

●しかし結果として市中感染が容認されると、私のような「感染した時のリスクが大きい立場の者」は、苦しい状況に置かれることになる。例えば今東京や大阪では、働く世代の人々が外で無症状者から感染し、家庭内で高齢者にうつす事例がとても多い。こうした「見えない感染」を防ぐことは困難だ。

 

●例えば私が今支援している学校でも、前期はオンライン授業や時差出勤、シフトを組んでの在宅勤務と感染対策に気を遣っていた。しかし今では「普通」に出勤することが当たり前になっている。これは「見えない感染」のリスクは仕方がないという考え方の元に成り立っているといっていいだろう。

 

●一方私はそれでもこうしたリスクも回避し、家族を守りたいと思っている。「感染した時のリスクが大きい立場の者」にとっては、このリスクは「仕方ない」では済まないものなのだ。だから私は「わかってもらえない」「助けてもらえない」「打つ手がなくなる」という気持ちになっているのだろうと感じる。

 

●今私はこうした「仕方がない」という風潮と戦う必要を感じている。労働災害も「仕方がない」で済ましていた時は減らなかった。そして労使双方が安全管理に注意をはらい出して改善されていった。だから私も少し頑張って感染拡大状況ではテレワークなど予防的措置をお願いして行こうと思う。

 

●実際、私の場合は今のところ職場で一人だけオンラインで会議に参加しても「気にしないで」と声をかけてもらえる。ありがたいなと思う。弱い立場にある時は、いつも以上に配慮のある言葉や対応が身にしみて嬉しく感じるのだ。私もそのことを忘れないで他の人に配慮できるといいなと思う。

2020年

11月

19日

オンラインでの体験学習の研修

●コロナ感染症が再拡大する中、初めてラボラトリー方式体験学習を使った研修をオンラインで行う体験をした。対象は山梨のある病院に新しく入られた看護師さん達である。もともと5月に清里の清泉寮で宿泊研修を行うはずだったが、このコロナ感染症のおかげで中止になりこの研修になったものだ。

 

●オンライン研修といっても感染拡大地域である大阪にいる私だけがオンラインで、スタッフや受講者は病院の一室に集まる形である。こうしたオンライン研修で、私が最も危惧したのは受講者の安全であった。つまり私が現地に行かない状況で、受講者への侵襲性をどうなくせるかである。

 

●体験学習では主催者側が計画した実習に取り組んでもらう際、またはグループダイナミクスの中で思わぬストレスがかかることがある。また少し学びへの参加が真面目でないと見える時、スタッフのかかわりいかんでは侵襲性が生じる。こうした時、傷つき体験になることもあるので安全性の担保が必要なのだ。

 

●またオンラインでは研修中に少し声をかけたり、グループワークの際にちょっと助けたりということもできない。実際、オンラインでは一人一人の顔は見えてもグループで何が起こっているのかはほとんどわからない。こうした役割をどうするかも問題だった。

 

●それで事前にこうした懸念を率直に伝え、先方と綿密に打ち合わせをした。そして昨年清泉寮での宿泊研修をご一緒し、体験学習を経験してもらっている教育委員の方々と一緒に企画を立て、運営することにした。また精神科に勤める心の安全に関する専門性を持った看護師さんに参加してもらうことにした。

 

●またコロナ感染症に対する対策もしなければならなかった。グループワークをするかどうかも議論したが、当然マスクをした上で、2時間と時間を区切り、グループの人数を少なくすることで実施することにした。現地での感染状況を見ながら最後までギリギリの判断だったが、幸い実施できた。

 

●こうして実施してみて私は、まず何より受講された1年目の看護師さん達に、同期の人とこうして何気ないコミュニケーションを楽しむ体験がとても必要とされていたのだと感じられた。現地の病院のスタッフにも、こんな芯からの笑顔を初めてみて安心したと感じられたようだ。

 

●コロナ感染症が蔓延する中で、いつものように先輩と飲みに行く機会もない。雑談することも著しく減っている。こうした中、ふと困った時に自分から先輩に声をかけたり、同期に話を聞いてもらったりすることも難しくなっていて、一人で抱え込んでしまいがちとなる人もいたのではないかと感じる。

 

●こうした中、研修という枠を作ることで、「何気なく他者と話せる」ということが実現したのだと思う。だからこんなに嬉しそうだったのだ。そして今ここで起きてくる気持ちや想いを大切にして、自分を少し開いてかかわることの重要性も感じられたのだと思う。

 

●私はこうした研修を企画する際、ついオンラインで体験学習を実施するリスクの方に目がいってしまう。しかし今回、現地のスタッフとチームを組むことで大きな懸念を抱くことなく実施できたし、何より受講者の様子を見て、実施しないリスクを強く感じることができたように思う。

2020年

11月

11日

“今ここ”と認知バイアス〜「21世紀の啓蒙」を読んで

●私は“今ここ”で起きる気持ちや想い、感じを大切に生きていきたいと思っているのだが、最近 この“今ここ”を大切にする上で、気をつけないといけないなと感じたことがある。それは「認知バイアス」によって、私が多くの思い込みをしていること、それによって“今ここ”を大切にできなくなる可能性があることだ。

 

●認知バイアスとは、人が物事を判断する場合において、個人の常識や周囲の環境などの種々の要因によって非合理的な認識や判断を行ってしまうことをしている。その代表が「利用可能性バイアス」である。これは記憶に残っているものほど、頻度や確率を高く見積もる傾向のことだ。

 

●例えば飛行機事故は印象に残りやすい。そのため飛行機に乗るリスクは高く見積もられやすい。同様に日々テロや気象災害、銃の乱射、汚職などのニュースを見ていると「世界は間違った方に進んでいる」と思い込んでしまう。人間には悪いことの方が簡単に想像できてしまう「ネガティビティバイアス」もあるので余計だ。

 

●しかし「21世紀の啓蒙」を書いたスティーブン・ピンカーによると啓蒙思想が起きたこの2世紀半で世界は確かに良くなっている。例えば世界の平均寿命は30歳から71歳になった。5歳未満の死亡率はかつて最も豊かな地域でも3分の1であったが、今は最貧国でも6%に過ぎない。致死性の感染症も減少した。極度の貧困は9割から1割に減少し飢饉もほぼ姿を消した。

 

●こうした認知バイアスに関して私自身危ないなと思ったのは、私の原発への嫌悪感である。福島原発の事故は大きく取り上げられ、印象に残るものであったので、私の中には原発への安全性に対する疑問符がある。また豊かな自然が汚染され、多くの人が故郷に帰れない事実もあり、私には「原発はダメ」と言う思いがある。

 

●しかしこの思いは認知バイアスからくる「思い込み」である可能性がある。前述の「利用可能性バイアス」やネガティビティバイアス」に加え、代表性ヒューリスティックも働いていると思われるからだ。つまり福島原発を原発の代表と捉え、そこで事故が起こるのだから全ての原発は危ないと言う思い込みに陥っているのだ。

 

●ピンカーによれば、こうした認知バイアスから逃れ、合理的に判断するためには「数を数えること」が大事であると言う。彼はまずエネルギーの利用なしに上にあげたような進歩を実現することはできないこと、そしていま環境問題は差し迫った現実の脅威であり、脱炭素化は人類の喫緊の課題としてあることを主張する。

 

●その上で石炭や石油による発電の死者数と原発による死者数を比較する。例えば石炭火力発電の場合、大気汚染などで毎年100万人が死亡していると推計されている。一方十分なエネルギーを供給できる原子力発電の安全性は高まり死者数も少ない。ちなみに再生可能エネルギーでは十分なエネルギー量にならない。

 

●もし私が認知バイアスからくる思い込みに囚われていたら、原発推進派の人がその必要性を説いても私はこの思い込みからくる嫌悪感しか感じないかもしれない。これでは自分もまた原発推進派の人も、さらに石炭や石油による発電で大気汚染に苦しむ人をも大切にできない。

 

●こうした認知バイアスによる思い込みから逃れることは難しい。一度思い込んでしまうと新たな情報が来てもそれをはねつけてしまう「代表性バイアス」があるから尚更だ。しかし思い込みである可能性を常に疑い、それを真実ではなく仮説として扱い、ピンカーに倣って数や論理で検証して見る姿勢を常に持つことは、思い込みをできるだけ防ぐために重要であると感じる。

 

 

2020年

11月

04日

人と共にいるということ

●コロナ禍のなかで、「人と共にいること」の意味が少しだけわかったように感じている。これまでは人と共にいるというのは、いわば当たり前の状態だったように思う。家庭でも職場でも友人と会うときも、普通に人と共にいて、いろいろなことをしてきていた。

 

●しかしコロナによって状況は一変した。私の場合、仕事はリモートが増えたし、研修を受けるのもリモートになった。そして9月・10月に少しだけ感染リスクのある仕事をしたので、万一感染していた時の用心のために、2週間家族に会わないように自主隔離をした。

 

●このように「人と共にいること」が欠如したことで、かえってこれまで見えなかったものが感じられるようになった気がする。まず家庭内での自主隔離中、食事などはラインを使って「一緒に」食べていた。ある程度コミュニケーションをすることも可能だった。

 

●それは助かったのだが、すぐに感じたのは、リモートだと無言でいると「一緒にいる」感じがしない。だからすぐに他のことをしてしまう。ラインをつなぎっぱなしにする気もしない。一方自主隔離が明けたあと、家族と一緒に居間にいると、何もしないでも一緒に「いる」ことができることに気づいた。

 

●また10月に南山大学の人間関係研究センターのリモートの2日間の研修を受けたのだが、そこでは自己概念の再検討という深いテーマを取り扱った。そして私は1日目が終わった後、魚を締めようとしているが、なかなか死なないというとても生々しい夢を見た。

 

●それは今になって思うと恐らく私自身の自己概念の内、今は必要ないものを捨て去る、ある意味「死と再生」に関わる何かだったのかなと感じる。いのちには生々しくグロテスクに感じられる部分があると思うが、こうした揺らいでいる状態の中で、恐らく私の身体からは何かの形でこうしたメッセージが発せられていたと思う。

 

●しかしそれはまだ言語化される遥か以前の状態に止まっていて、リモートの講座では講師や学んでいる仲間も気づくことは難しかったのではないかと感じる。しかし身体が共にある形での講座なら、私の様子を見て何かを感じ、働きかけてくれる人もいただろうと思うのだ。

 

●こうしたことから私は、私たちが共にいる時、言葉というレベルではなく何かをわかちあっているのだと感じている。だから一緒にいるだけで自然にリラックスして時を過ごせたり、まだ本人も意識できていないような身体の奥で起きている揺れを感じとれたりする。

 

●コミュニケーションの語源はラテン語のコムニカチオだが、それが「分かち合う」「共有する」という意味を持つ。私は魚が引き上げられてから「水」の存在に気づくように、「人と共にいること」が失われて初めて「分かち合う」ことの意味に気づいたように感じている。

2020年

10月

01日

半年ぶりの体験学習で思ったこと

●コロナ禍のなかで、私が関わるラボラトリー方式の体験学習の場はほとんど中止になってきた。組織研修も、Tグループを中心とするラボラトリーもである。この体験学習ではいわゆる3密を避けられないからだ。しかし先週の金曜日、久しぶりに毎年行っている看護マネジメントの研修を行うことができた。

 

●実施前には研修の担当者とずいぶんコミュニケーションをとって、グループワークをしないプログラムを検討したりして、感染防止に心を砕いた。しかし最終的に研修の必要性と今の感染状況を勘案して、グループの人数を少し減らす他は、グループワークも含めた通常通りの体験学習の学びを実施した。

 

●始まる前、感染防止に注意しなければならない立場の人は、グループワークに対する抵抗感があるかなと思っていた。そして希望者はグループに入らず観察役になってもらおうと思って、その準備もしていた。しかし蓋を開けると、そうした希望はなく全員がグループワークに参加された。

 

●やってみて驚いたのは、多くの人がグループでの実習を心から楽しんでいるように見えたことだ。何の変哲もない課題解決の実習だったのだが、身を寄せ合い、心から笑い、気持ちや意見のやりとりをする。こうした何気ない関わりがとても嬉しそうだったし、もっと言えば彼らを癒しているようにさえ見えた。

 

●後で聞いてみると、こうした研修を再開したのもごく最近のことらしい。恐らく職場では感染防止のために関わりに神経を使っておられるだろう。そして私は思った。こうした人と人とが身体をその場において対面で関わる時、私たちにとって何か不可欠な「何か」をやりとりしているのではないだろうか、と。

 

●コロナ以前は普段の関わりでその「何か」をやりとりできていたのに、コロナ禍のなか感染防止を徹底する関わりが求められ、その「何か」は徐々に欠乏してきていたのだ。だからこの実習での関わりの中で久しぶりにその「何か」をやりとりできて、あれほど楽しみ、満足されたのではないだろうか。

 

●そして私はその「何か」とは、私の言葉で言う「今ここ」なのではないかと思う。隣の人の顔色を見てふと大丈夫かなという想いが湧く。それはケアする視線を生む。ただ相手の息遣いを見て声はかけない。しかし相手の人はそれを察知して、この場は受け入れられる場だなと感じる。

 

●「今ここ」とはこうした言葉でないものも含めた気持ち、思い、感じである。身体をこの場に置いた関わりでは、こうした「今ここ」のやりとりが自然に半分無意識に行われている。そしてこのやりとりの中で、関わる満足感や充足感、相手への信頼などが生まれてくる。

 

●私の中にはこの研修によってこうした「今ここ」がよりよく流れたというイメージが与えられている。自分の中でもその場にいて起きてくる感じや想いがたくさんあり、それを受け取ってもらえた。関わりの中で、この「今ここ」がよりよくやりとりされると、そこには深い喜びが感じられるように思う。

 

2020年

9月

18日

『LIFE SHIFT〜100年時代の人生戦略』を読んで

●これもまたコロナ後の世界をイメージするために『LIFE SHIFT100年時代の人生戦略』(リンダ・グラットン/アンドリュー・スコット著)を読んだ。本の題名どおり100歳を超える長寿が一般的になる時代に、個人や企業、政府がどのように対処していったらいいのかを示唆する内容である。

 

●まずこの本では各種の統計に基づき長寿社会が訪れることが事実としてあることを示す。そしてその社会では従来の教育期間、就労期間、引退後という3つのステージを前提としたモデルが崩れていくという。例えば個人の人生設計や政府の年金制度、企業の人事制度などがその代表である。

 

●そしてこの長寿社会ではこれまでの3つのステージに加え、どのようなキャリアを形成すべきかを探るステージ、次のキャリアを形成する移行のステージなどが加わる。そしてその社会でよりよく生きるためには資金計画をはじめ、今までとは異なるスキルや資産の形成が必要であると説く。

 

●中でも著者たちはお金などの有形資産だけでなく、無形の資産がより重要になると言う。それはより良い成果を生み出すための知識やスキルからなる生産性資産、健康と幸福に関わる結びつきからなる活力資産、そして新たなステージへの移行を可能にする変身資産である。

 

●私が驚いたのは、これから重要性が増すと彼らが指摘するこうした無形資産が、私がいつも指摘している「今ここ」と深い関係にあるように思えることである。つまりこれらの無形資産は「今ここで起きてくる気持ちや想い、感じ」を大切にすることなしには形成できないものなのだ。

 

●まず生産性資産において、著者は経験学習の重要性を指摘する。テクノロジーとオンライン学習の進展によって簡単な知識はいつでも誰でも身につけられるようになる。こうした状況では、知識の量ではなく、その知識を使ってどういう体験をしたかで差がつく。これはポラニーのいう暗黙知と言っていいだろう。

 

●これは別の言葉で言えばリフレクションによって、実践的知識を身につけていく過程に他ならない。つまり実践をやりっぱなしにせず、そこで起きる体験(出来事と結果、その体験で起きる気持ちや想い、感じ)を意識化し、なぜそうなったかを考え、次の行動に向けて仮説を立てるのだ。

 

●また彼らは<ポッセ>という小規模の仕事仲間の重要性を指摘する。個人が知識やスキルを活かせるかどうかは周り次第であり、互いが信頼と評判を大切にするチームでは生産性は高くなる。そしてこの信頼関係はチームメンバーが「今ここ」を大切にして体験から学び培っていくしかない。

 

●次に活力資産だが、これは支えと安らぎ、自己再生をもたらす資産である。3つのステージが中心の社会では学校時代の友人がこの中心になることが多かった。しかし100年ライフの今は、私たちに多くの転機が訪れアイデンティティが変化するので、これまでの友人では活力資産にならないことも多い。

 

●私の経験ではこうした支えと安らぎ、自己再生をもたらしてくれる関係とは、「今ここで起こる気持ち、想い、感じ」を正直に出せて、受け取りあえる関係である。こうした関係のもとで初めて私たちはありのままの自分でいていいと感じられる。そして相互フィードバックによる成長も起きる。

 

●最後の変身資産だが、100年ライフでは変化と新しいステージへの移行が不可欠であり、多くの変身が必要となる。この際必要となるのが自分についての知識である。アイデンティティを自ら主体的に作るには、他の人からのフィードバックをもらって自分が何者かを内省する必要がある。

 

●この変身は単に表面をなぞるだけでは十分ではない。自己認識と世界認識を新たにする必要がある。これによって新たなアイデンティティが生まれるからである。そしてこれは簡単ではない。これこそまさにTグループを中心としたラボラトリーなどで行なっている深いレベルの体験からの学びに他ならない。

 

●例えばラボラトリーでは「今ここ」を大切に小グループで数日を過ごす。信頼関係の深化とともに、ありのままのその人を受け入れつつ、互いにその人をどう感じるか、どう見えるかを忌憚なくフィードバックしていく。こうした積み重なりによって、自己概念、ひいては人間関係感、世界観が変容していく。

 

●こうして見るとこれまで私が取り組んできたラボラトリー、リフレクションによる学び、今ここを大切に定期的に集うコミュニティ、信頼関係構築のチームづくりなどはこれからの社会でこそ必要とされるものだ。そしてこれらが「今ここ」を大切にすることによってはじめて可能になることはあまり認識されていないように感じている。

 

 

 

2020年

9月

11日

LIFE3.0〜人工知能時代に人間であること

●コロナ後の世界がどんな風になっていくのかを探る中で、『LIFE.0』という本に出会った。これは物理学者のマックス・テグマークが、超知能AIが出現したらどうなるかをシュミレーションしたものである。彼はAIの安全性研究を主流にのせ、有名な「アシロマAI原則」の取りまとめに尽力した人でもある。

 

●テグマークによれば、生命には3つの段階がある。まずはLIFE1.0は生き延びて複製できる細菌のような生命である。この生命は個体の段階では変化に対応できない。次にLIFE3.0は自らのソフトウェアを設計できる人間のような生命で、学習によって言語や技術などを習得し、世界観なども改められる。

 

●しかし人間はハードウェアとしての身体を大幅に設計し直すことはできない。この進化というハードウェアの制約から逃れ、ハードもソフトもデザインできるようになる生命の段階がLIFE3.0である。そしてテグマークは、このLIFE3.0AIの進歩によって誕生するかもしれないと考えるのだ。

 

●もちろんこうしたLIFE3.0への移行そのものをどう捉えるか、またこのことがユートピアを生むか、ディストピアに至るかについては様々な観点からの議論がある。しかし私がこの本で最も興味を惹かれたのは、このテグマークという人の生命観であり、宇宙観である。

 

●まず彼は「超知能AI」の誕生が生命の分岐点になると考える。これは人間の知能をすべてにわたって超えたAIで、自ら知能の改良に取り組める。いったんこのAIが生まれると物理法則などが次々に発見され、科学は飛躍的に進歩する。テクノロジーも物理的限界(例えば光速以上早く移動できない)まで進歩する。

 

●この中でLIFE3.0への移行も可能になる。そしてLIFE3.0になった生命が宇宙に広がることも可能になる。ところで彼は今地球に存在する生命はもしかすると唯一かもしれないと考えている。物理学者として彼はもし近隣の星に高度な生命体がいたなら、もう私たちは気づいていなくてはならないと指摘する。

 

●なぜなら超知能AIが誕生した星なら、短時間でテクノロジーは物理的限界に達する。そして宇宙へと乗り出すことが予測されるからだ。一方、あまりに遠くの星だと、宇宙の膨張により、地球の生命とは決して出会えない。光速で移動しても届かないからだ。

 

●こうして一人ぼっちの生命かもしれない私たちがもし滅びたなら、その後の宇宙は、観客のいない劇のように進む。つまり生命が持つ「意識」によって意義づけられることなく、意味なく物資の踊りを続けるだけになってしまう。宇宙の存在価値を意味づけるのは生命にしかできない。

 

●しかしもしこの地球の生命である私たちが、超知能AILIFE3.0を受け入れないなら、絶滅は時間の問題となる。最長でも太陽が冷えて生命が維持できなくなる間しか存続できない。彼はそうではなく、超知能AIによってLIFE3.0となり、この宇宙に生命を広げ宇宙に意義を持たせていきたいと願うのだ。

 

●だからこそ彼はこの生命を惜しむ。間違っても超知能AIの出現が、今の生命を滅ぼすことにつながってはならない。そのために彼はAIの安全性研究というこれまで傍流だった分野を、メジャーな研究領域にするために最大限の努力を重ねてきたのだ。

 

●これまで私は全く意識しないまま、例えば太陽の終焉が生命の終わりであるのは当然だし、小惑星の衝突などでもっと早く生命は滅びるだろうと思っていたことに気づいた。そして私は、もっと長いスパンでこの生命の行き方をイメージしている人がいるということに驚きをもって感じ入ったのである。

 

 

2020年

9月

03日

新型コロナウィルスと私〜コロナという禍が生み出す良いもの

●新型コロナウィルスの蔓延のせいで、生活が一変して半年が経とうとしているが、このコロナウィルスは私にも多くの悪影響を与えている。高リスクの高齢家族と同居しているため、20代の息子も含め感染リスクを最低限にする生活をしなければならなかった。

 

●だから楽しみである外食や旅行も控えたし、電車に乗るのもやめている。仕事面でも体験学習の研修などはほとんど中止となった。結果として収入も減少している。「今ここ」を生きるために欠かせないラボラトリーも開催できなくなり、友人や仲間と顔を合わせるのも少なくなっている。

 

●しかしこうした禍をもたらす一方、新型コロナウィルスは私にとって良いものも生み出している。まず何より出張や移動が大幅に減り、体への負担が軽くなった。ここ数年、年間数十日も宿泊を伴う研修やラボラトリーをしていたが、今は家でゆっくりと過ごすことができ、高血圧の症状もかなり改善されている。

 

●また新たな生活や仕事のやり方を見いだすことができた。例えば大阪市内の移動はこれまで地下鉄に頼ってきたが、最近はほぼ自転車で移動している。確かに雨の人は大変だが、早いし景色が見ることができるなど快適な部分もある。今までなぜこうした通勤手段を思いつかなかったのだろうと思うほどだ。

 

●仕事でも新たな発見があった。私はアドバイザーの立場で会議に出ているが、今はオンラインが多い。もちろん対面でしかできないこともあるが、オンラインでいいこともある。通勤がないので時間が節約できるし、私がそこにいないことで現場の人がより能動的に動いてくれることも起きている。

 

●あと今まで全く見過ごしてきた身近な自然に目が向くようになった。公園にある樹木や小さな花、夕暮れに浮かぶ彩雲、ビルの合間に浮かぶ三日月。これまで自然はどこかに遊びに行って見るものだったが、移動ができない今の私には、ふと目の前にある小さな自然が豊かなものに感じられている。

 

●さらに家族で過ごす時間が増えた。まず私たち同居家族4人でゲームをしたり散歩したりしている。夕食もほとんど一緒に食べている。こうしたことはこれまで旅行に行った時にはあったが、こんなに日常的に行えるのはほとんどなかった。気詰まりな面もあるが、こうした時間を豊かに持てるのはありがたい。

 

●また別居している兄の家族とオンラインを通じてやり取りすることも増えた。「集まれ動物の森」のソフトを私以外の一族全てが持っていて、アメリカにいる姪とも時間を合わせ、一緒にゲームを楽しんでいる。同様に遠くの友人とオンラインで楽しむ時間も増えたが、これもコロナの影響なしには考えられない。

 

●あと私が本当によかったと思うのは、これまで取り組めなかった本のまとめと考察に取り組む時間が与えられたことである。特にキルケゴールの「哲学的断片の結びとしての非学問的あとがき」という本には、私にとって大切なことが書かれていると思っていたが、忙しさの中でずっと後回しになっていた。

 

●ところがコロナの影響で宿泊研修がなくなったので、その時間を使って本を抜き書きし、それを読み直しつつ、私にとってどういう意味があるかを考察していった。それは今の私の実存のありようを意識化することを促し、これからの生き方に影響を与えてくれる本当に貴重な体験だった。

 

●このように新型コロナウィルスは私にとって悪影響を与えているだけでなく、様々な良いものも生み出している。まだしばらくこのコロナを意識した生活は続くと思うが、悪いところばかりを見るのでなく、いいところに目を向け、それらがより良い生成を生み出すように生活していきたいと感じている。

 

 

2020年

8月

28日

コロナ危機の中の私の選択的変化〜ジャレド・ダイアモンド「危機と人類」より

●前回記述したジャレド・ダイアモンドの危機を克服する12要因を見ながら、私がこの新型コロナウィルスという危機にどのように対処すればいいのかを考えていきたい。私はまずこの問題が私や家族にとって大きな危機であるとはっきりと認識している。

 

●このウィルスは80代の親がかかると三分の一の確率で死に至る、極めて恐ろしい感染症だ。私たち夫婦もいい歳だから、一旦家に持ち込まれたら皆が無事でいられる確率は高くない。しかも無症状でも家に持ちんでしまう。今コロナを怖がるなとの論調もあるが、これは私たちには大きな危機である。

 

●次に私は責任を受け入れている。私は高齢者と同居している家族のことをわかってくれないと国などの政策に不満を覚えることがある。しかし基本的にはこの危機を自分たちで乗り越えなければならないと覚悟している。何かあっても他者のせいにすることはできない。

 

●だから私たちは生活スタイルを選択的に変化させている。旅行や外食をやめステイホームし、仕事もできる限りオンラインや濃厚接触にならないようにしている。体験学習の研修などは一部を除き、ほぼ中止したり延期したりしている。家に来る人も制限し、運動などもクラブなどに出入りするのはやめている。

 

●こうした行動変容を支えてくれるのが、専門家の方々による研究成果だ。当初はわからなかった感染する可能性の高い要因が徐々に分かり始め、きちんと発表をしてくれる。この周囲の助けは絶対に必要だ。逆に国が無症状でも感染可能性があることを隠していたことを知った時は、本当に怒りを覚えた。

 

●手本だが、こうした状況に置かれている人は周りにあまりいない。しかし自己で責任を引き受けず、選択的変化をしなかった結果、高齢の親に感染させてしまい後悔している手記などを見ると、かなり思い切った形で意思決定と行動をする必要があると感じている。これは他山の石と言えるかもしれない。

 

●自我の強さについては自分では評価できないが、しかしこうした文章を書いて検討することは、自分が大切にしたいことを再確認し行動を軌道修正できる力を与えてくれていると感じる。また家族会議を時々開いて、何を大事にしたいかなどを合意できていることは家族の結束を高めていると感じている。

 

●公正な自己評価については、特に自分がどのようなストレスにさらされ、どんな気持ちが湧いているかを意識することができている。また定期的に専門家が発信してくれる情報を集めることで、このコロナ感染症という災厄の中で、私たちがどのような位置に置かれているかを把握しようとしている。

 

●過去の危機体験についてだが、個人的には銀行員をやめて無職になった時の危機を、そして家族としては十年に渡る父の病と死を一緒に乗り越えることができたことはある程度自信になっている。しかし家族の命を危機に晒すこうしたレベルの危機は初めて遭遇するものと認識している。

 

●忍耐力については、常に試されている。他の人が出勤する中、テレワークをお願いするのは後ろめたい。自粛生活に飽きる。コロナを恐れるなと言われ、Go toキャンペーンと言われると私たち家族だけが置いてきぼりにされた気もする。その中でこの危機に対応する責任を意識し続けるのは大変である。

 

●柔軟性については専門家の知見によって行動を変えている。初めは物品なども全て消毒していた。しかしそれは必要ないとわかった。スーパーに行くのも極力控えていたが、マスクなどの防御策をしっかりとれば、感染爆発期以外は感染のリスクはかなり低いこともわかり、気にしすぎないようにしている。

 

●基本的価値観としては、シンプルに「家族が全て元気に生き残ること」に置きそれを堅持しようとしている。マスコミなどでは、国や地方、飲食店、メーカー、旅行業者、医療者などのそれぞれの立場からの価値が発信されている。しかしそれらは高齢の同居家族を持つ私とは相対立するものが多い。

 

●個人の制約としては幸い恵まれた環境にある。子供も経済的に独立し、母も経済的に困っていない。私も研修などの仕事がなくなってもすぐに困る状況にはない。だから無理することなく感染対策を実行できる。家も長い自粛生活を送るのに十分な広さがあり、外に出かけないといられないことはない。

 

●こう見ると私たちには、異なる立場からの発信に惑わされず、「家族全員で生き残る」という基本的価値を堅持することが必要と感じる。そして専門家の知見の下、リスクを最低限にする行動習慣を身につけたい。そして後は一つ一つの行動を今ここできちんと納得して決め、悔いなく過ごしたいと感じている。

2020年

8月

21日

選択的変化2〜ジャレド・ダイアモンド「危機と人類」より

ジャレド・ダイアモンドは危機解決の成功率を多少なりとも上げる要因を12上げている。今日はまずはこの12の要因を概観したい。

 

●危機に陥っていると見て認めること

個人も国も問題を無視し、否定し、過小評価することがある。しかし危機と認めなければ問題に対処できない。また何らかの問題があると感じても、何が問題なのかを見極められないこともある。例えば彼は今の日本は先の大戦での歴史問題を否認している結果、中国・韓国との軋轢を生んでいると指摘する。

 

●責任を受け入れる(被害者意識や自己憐憫、他者を責めることを避ける)

私たちは「この問題は他人のせいだ」と言い訳する時がある。こうした自己憐憫や被害者意識は自分で問題に取り組もうとしない理由となる。問題を認めた後の次のハードルは自分で解決する責任を引き受けることである。原爆の被害を強調するだけでなく、戦争を起こした要因を検証することが責任を受け入れることと指摘する。

 

●囲いを作ること/選択的変化

今うまく機能していて今後も変える必要がないところと、古いものを捨て新しいやり方を取り入れるべきところを問い、選択的変化をしていく。これがうまくできないと個人では完全に自分をダメな人間と思い込んでしまう。明治日本でも漢字の使用や天皇制を維持した上で選択的に海外のモデルを導入した。

 

●周囲からの支援

危機を脱する時、物心両面での支援は有用である。明治政府が西洋諸国から得た支援や先の大戦後アメリカから得た支援は日本が危機を脱出する助けとなった。一方フィンランドのようにソ連との戦争でどこからも支援を受けられなかった体験はその後の国の外交政策を決める基礎となった。

 

●手本になる人・国

周囲に危機に対する手本があると助けになる。自分と同じ危機を克服できた人がそばにいればそれを真似ることができる。また先人の伝記などからアイディアを得ることもできる。明治日本の発展は西洋における成功モデルのうち、日本に移植できるものを選んだことによるところが大きい。

 

●自我の強さ(ナショナル・アイデンティティ)

「自我の強さ」は自信だけでなく、自分が自分であるという感覚を持ち、目的意識があり、他者へ意思決定や生活を依存せず、自立した自分でいられることが含まれる。具体的には感情の揺れに耐え、ストレス下でも集中力を維持し、自由に自己表現し、現実を正確に把握し健全な決断を下す力である。

国単位ではこれはナショナル・アイデンティティと表現される。その国を特徴付け、独自の存在にしている素晴らしいものについての共有された誇りである。言語、軍事的成功、文化、歴史などその源は多様である。明治期の日本はこの存在によって人々を結束させ外敵に立ち向かう勇気を持つことができた。

 

●公正な自己評価

危機に陥った人が適切な選択をするためには、自分の強みと弱みについて、自分の中のうまく機能している部分(何ができて)と、うまく機能していない部分(何ができないか)について公正な自己評価が必要となる。これは時に痛みを伴う。また過大にも過小にも自己評価しないことは難しくもある。

これには自分や国についての正確な知識とそれに対する公正な評価が必要となる。ドイツの優れた現実主義者ビスマルクは公正に自国を評価しドイツ統合を成し遂げた。皇帝ヴィルヘルム二世は公正な評価に失敗し、第一次世界大戦に敗北した。

 

●過去の危機体験

過去に切り抜けた経験があれば、新たな危機も解決できるという自信につながる。逆に過去の危機を克服できなかった時、何をやっても成功しないと感じられる。親密な関係の破綻などはその例である。明治日本も維新を成し遂げ、列強に戦争で勝つという体験から強い自信を得た。

 

●忍耐力(国家的失敗に対する忍耐)

自分を変えて危機を克服する際、最初は失敗するだろうし、不確かさや曖昧さもつきものだ。これらを許容する能力、つまり忍耐力が必要となる。これによって試行錯誤を経て、危機を解決できる。国レベルでも可能性のある解決策を探るため、不満、曖昧さ、失敗に対する忍耐や寛容が必要になる。

 

●柔軟性

危機を克服する上で柔軟な性格は頑固で融通のきかない性格(何事にも正しい方法は一つしかない)より有利である。これはある問題に対して今までとは異なる対処方法の検討を受け入れる能力である。国レベルではある面では柔軟だが、他の面で硬直的であるということが一般的である。

 

●基本的価値観

これは自我の強さと関連したアイデンティティの中核になる信念である。選択的変化をする際に「何があっても譲れない部分」とそうでないものを区分ける基盤となる。フィンランドのナショナル・アイデンティティは言語と文化にあるが、その基本的価値観は「独立」にあった。

ただ危機の時はかつて絶対の価値観と考えていたものを見直す必要が出てくる。変化の中で基本的価値観が的外れになったのにそれに固執すると危機解決の妨げとなる。

 

●個人的な制約、地政学上の制約がないこと

これはどこまで選択の自由があるかの問題である。例えば子育ての責任があったり、きつい仕事をする必要があれば、新しい解決法を試すことは難しくなる。制約があると危機を克服するのに余分な負担がかかる。アメリカは地政学上自由度が大きい。一方フィンランドはソ連との長い国境という制約が大きい。

 

2020年

8月

14日

選択的変化〜ジャレド・ダイアモンド「危機と人類」

●今ジャレド・ダイアモンドの「危機と人類」を読んでいる。この本は著者が馴染みの深い7つの国で起こった危機を取り上げ、どのようにその危機を乗り越えてきたのかを著述している。まだ途中なのだが、特に興味深かったのが、「選択的変化」と言う概念だ。

 

●例えば私が何かに失敗して危機に陥った時、私には自分の人格や関わり方などの全てを一度に変えることはできない。それは失敗に終わらざるを得ない。できるのは今のままでいい部分と変化を要する部分を見極め意識して選択して変化させていくことである。これは国家でも同じだ。

 

●フィンランドは歴史的にロシア帝国内部の自治領としてあった。その後独立を果たすが、第二次大戦前後に危機に見舞われる。ソビエト連邦がバルト三国とフィンランドの併合を狙ってきたのである。バルト三国はなすすべなくソビエト領として編入されるが、フィンランドは戦う。

 

●しかしフィンランドの思惑と異なり西欧諸国の助けは得られない。仕方なくフィンランドはゲリラ的に持久戦に持ち込み、ソ連と戦っていたナチスドイツと連合する。結果的に独立は維持するが、人口比で言えば莫大な数の死傷者を出す。また西欧諸国からはナチスドイツの同盟国と捉えられてしまう。

 

●戦後になりフィンランドの選択的変化が始まる。国のアイデンティティと独立の維持は変化させることはなく、外交政策を一変させる。それは戦前のソ連を無視し西欧諸国と結ぶ方策から、ソ連の思惑を理解し、それを叶え、ソ連を安心させ、信頼を勝ち取る戦略への大転換であった。

 

●これはフィンランドの地政学的な制約から来る。ナチスのソビエト侵攻時、もしフィンランドが北から攻めたらサンクトペテルブルグは陥落しただろうと言われる。フィンランドはソビエトにとって喉元に突き刺さる骨のような位置にあるのだ。ソ連が彼らを猜疑すれば、フィンランドの安全は成り立たない。

 

●結果的にフィンランドは報道の自由や選挙制度なども含め、西洋的価値を一部捨て去ってもソ連の信頼を得るための政策を保持し続けた。西洋からは惰弱な外交を痛罵されたが、それによって国のアイデンティティと独立の維持を確保し、徐々に西欧との関係を深めることができたのである。

 

●こうした選択的変化が成功するためには、自らが危機に陥っていることをありのまま受け入れる力、そして自分の置かれた状況や能力をありのままに認める力が求められる。その上で変化のためのモデルを探し、他からの助けを出来るだけ得て、勇気を持って選択的変化に取り組むリーダーシップが必要となる。

 

●そして今私たちが直面する新型コロナの問題は、私には選択的変化が求められる「危機」として捉えられている。そしてこの問題にうまく対処している国は何らかの変化を遂げている。台湾や韓国のようにITとビッグデータを使った資源の配分や感染のトレースの方法の開発などはその代表である。

 

●またニュージーランドのように首相のリーダーシップで人々の行動変容を導く国もある。一方コロナ自体の危険性を否認するリーダーやデータの隠蔽、不効率な行政システム(例えばマスクや10万円を配るのに時間のかかりすぎる)という問題に取り組んでいない国は、危機を増幅させている。

 

●私には今の所日本ではこの新型コロナの問題は十分に危機と認識されていないように感じる。だから「これまで通りこれまでのやり方で」対応しようとしているように見えている。しかし私にはこれは個人的にも国レベルでも大きな危機と捉えられている。まず私自身が必要な選択的変化を志向したいと思う。

 

危機と人類(上)

危機と人類(上)

 

 

2020年

8月

07日

再び市民プロデューサーの時代へ

●「市民プロデューサー」という言葉をふと思い出した。この言葉は、1995年の阪神大震災をきっかけにNPOが社会的に認知されていく中で大阪ボランティア協会が開いた「市民プロデューサー養成講座」をきっかけに、NPO業界ではかなり流行した言葉だ。

 

●私もこの講座の4期生であり、その後数年スタッフも務めた。もともとこの講座は「市民活動仕掛け人講座」として企画されたが、言葉工房を主宰していたライターでこの講座の運営に深く関与した吐山継彦さんが、「市民」と「プロデューサー」という言葉の組み合わせの面白さに気づきネーミングされた。

 

●「市民プロデューサー」という言葉にはいくつかの意味が含まれる。まずこれにはボランティアや市民活動と同様、「ほっとけないからやむに止まれずする」という意味がある。さらに国や自治体、企業が手を出さないニッチな領域に自分から、わたくしから働きかける自発・私発的な活動ということでもある。

 

●しかし市民運動とは異なり、ビジネスで必要な予算の立案、交渉、運営面もしっかり考えて活動するという含意もある。吐山さんはこれを「地球市民として地域に根ざし、アイディアとユーモアとネットワークを武器に、企業や行政にできない社会変革を、経済性をも無視せず造り出せる人」と定義している。

 

●私自身はそれまで会社勤めなどを中心に仕事をしてきたので、私発で自分の想いを大切に、事業を起こすということは考えもつかなかった。しかしこの活動に参加する中で、色々な人が自分の「やむに止まれない想い」を大切に、市場も資源も無視せず事業企画を立てていくのを見て考えが変わっていった。

 

●そしてもともと私は経営関係のキャリアを持っていたが、ラボラトリーに触れる中で一人ひとりが大切にされる「チーム」が組織にもできたらどんなにいいだろうという強い思いに駆られた。そして「市民」+「プロデューサー」を真似て「チーム」+「経営」という言葉を作り事業として展開したのである。

 

●今から考えるとその当時の私の思いには、現実に即していない部分もたくさんあったと思う。その後仕事をしながら想いや運営面を修正していき、今も自分が心から信じることができ自分を動かす想いを大切に、色々な研修や組織でのサポートの仕事に取り組めている。

 

●さてこうした「市民プロデューサー」を思い出したのは、他ならぬコロナ感染症の蔓延の中の社会状況を見ているためである。震災時に行政や企業では提供できないサービスの多くを市民セクターが担ったが、今またこの災厄の中でたくさんの必要性の高いニッチ領域が生まれてきているように思える。

 

●例えばまず心のケアだ。震災の時も被災地に多くの心のケアのボランティアが入ったが、今回は非常に多くの人々が大きなストレスにさらされている。感染への恐れ、同居している高齢者へうつさないかの不安、日常通り働くことを求める組織への対応、経済的不安、先の見通しが立たない不安・・。

 

●また聞くところではニューヨークでは路上に廃材を使ってテーブルを設置し、コロナ対策のために飲食店が外で営業できるようにする取り組みがされているそうだ。こうした配慮を受けたお店は本当に嬉しいだろうと思う。さらに高齢者や外国人、子どもたちなどへのサポートも今ほど必要としている時はない。

 

●今私はつい行政に対し、「もっと・・してくれるといいのに」と怒りを覚えてしまうことが多い。しかしこのコロナがもたらす禍を軽減するためには、まず自分が持っているものをベースに自分発でできることをできるだけ提供することから始める必要があると再認識している。

 

 

2020年

8月

01日

カミュの「ペスト」

●カミュの「ペスト」を読むことができた。コロナ流行の中で今再び注目されていると聞いた時は手に取るつもりはなかったのだが、この本は実際にはナチス占領下の人間模様をペストに託して描いていると知り、にわかに興味が湧いてきて読むことにしたのだ。

 

●実際意外だったのは、この本の舞台が1940年代のフランス統治下のアルジェだったことだ。私は勝手に中世のペスト流行の時をイメージしていたが、ここでは電車や自動車が走り、電話や電報が利用可能な時代が描かれている。まさにナチスがヨーロッパを席巻していた時代だ。

 

●人口20万を数えるある街で、ネズミが大量死し、続いて人間が次々と熱病にかかる。しかし医者と当局者からなる会議は数々の証拠があるにも関わらず、「ペスト」であるという事実を認めることをためらい、中途半端な対策しか取れない。それがもたらす破壊的な影響を受け止めきれないのだ。

 

●しかしついに本国からペストであることを宣言し、街を封鎖するように通知が来る。死者は急増し、毎日100人単位の人が死んでいく。そのピークはいつ終わるかわからないまま延々と続いていく。こうした中、人々が内面で抱えていたものが次々に露わになっていく様子が描かれていく。

 

●病疫のことを一瞬でも忘れたい人々による享楽の姿、非常に高価なものが惜しげも無く購入されていく様子、封鎖された街から逃亡することに熱中する人、ペストによって壊された日常を喜びをもって迎える犯罪人。神に全てを任せることを説く神父は病になっても医者にかかるべきではないと思想を深める。

 

●こうした人間模様の中でペストは淡々とその仕事をし続ける。主人公である医師もまた淡々と日々仕事をする。死者のとり扱いは徐々にぞんざいになる。ペストが終息する希望は失われ、街の人も次は自分の番かもと思いつつ、淡々と日々を送る。極限状況のもたらす絶望にさえ人々は慣れてしまうのだ。

 

●しかしある日突然にペストの勢いは失われる。そして大波は来た時のようにスッと引いていく。封鎖は解かれ電車が来て、離れ離れになった人との再会が祝われる。しかし街の人の喜びの中で、最後の引き波にさらわれてしまう人、別離の苦しみにいる人もいる。全てはもとどおりにはならないのだ。

 

 

●私はこれは「ペスト」について書いた本ではないと思った。むしろ災厄は何でもよく、それがもたらす極限状況が人々にどう影響するかの実験室を詳細に描いているように感じられた。そうした意味ではより壮大なラボラトリーと言っていいかもしれない。

 

●私が印象に残ったのは、こうした状況では日常では覆い隠すことができていたものが全て剥ぎ取られ、白日の下に露わになるということだ。極限状況では私たちは常日頃そうであったように「なる」。今この世界でも同じようなことが起きているのではないだろうか。

 

●もう一つ思ったのが、主人公リウーの淡々とした強さである。恐怖に自分を見失うこともなく、治療が難しく大量の人が死んでいく姿にも意味を見失うこともなく、今目の前にある自分にできることを淡々とやり続ける。私にはその姿が今を生きる私に大切なことを教えてくれているように思えた。

 

ペスト(新潮文庫)

ペスト(新潮文庫)

 

 

2020年

7月

22日

それでも私は「怖い」と言う

●今再び日本の多くの地域で新型コロナウィルスの感染者が増加している。4月ごろの感染者数より多くなる地域もあって、世論調査などを見ても多くの人が心配していることが感じ取れる。私自身も残念だが、毎年家族で行っていた温泉旅行をキャンセルせざるを得なかった。

 

●こうした状況において、職場や学校に行く必要のある人々の中で葛藤が強まっているように見えている。普段通り働いたり、学んだりしなければならないというプレッシャーと、感染したくない、愛する人に感染させたくないというプレッシャーの板挟みが起こっているように感じるのである。

 

●そして今私は、ウィルスが怖いという事実を認めること、怖さを感じて感染を避ける行動を取りたいと率直に言うことが難しくなっているように思う。端的に言うと「普通」の生活を危うくするような議論や意見を言いにくくする社会的な空気があるように感じるのである。

 

●まず私が恐ろしいなと思ったのは、第一波の際ウィルスの危険性を強く主張してくれた北海道大学の西浦教授が、発言を非難され、公安警察に守ってもらわなければならないほどだったと言われていたことだ。こうした「攻撃」のせいか、今危険について警鐘を鳴らしてくれる専門家の声が届いてこない。

 

●また私の住む大阪では知事が学校を一斉休校しないと宣言されている。つまりインフルエンザのように、ある程度の感染は仕方がないと考え、発生状況にあわせて学年単位や学校ごとに休校するに止めるのだ。そして今多くの学校では、分散登校もやめて、いつもの通り授業が行われている。

 

●他の組織に対しても同様の考え方がされていて、基本的に休業は求めない方向で行政は進んでいる。このゼロリスクを求めない「withコロナ」、「新しい日常」という考えを私は理解できるし、感染がある程度抑えられている状況では必要な考え方と言える。

 

●しかし感染が再拡大する中では、この方針は下手をすると「普通」に生活を続けることへの圧力となる。例えばエアロゾル感染が確認された以上、閉鎖空間である地下鉄に一定の危険性があることは明らかだ。しかし「普通」を求められると、満員電車が怖くて通勤できないとは言えなくなる。

 

●また学校に通う子どもたちの中には、三世代で暮らしている人、既往症を持つ人と暮らしている人もいるだろう。自分は感染してもリスクは少ないが、こうした家族に感染させてしまうかもしれない怖さは想像するに余りある。しかし「普通」であることを求められると、学校に行かない選択肢は取りにくい。

 

●しかもこのウィルスは初めて人の世界に出てきたものなので、私たちの知識は十分ではない。例えばなぜ日本などのアジアで欧米に比べ感染者や死亡者が少ないのかの理由は完全には分かっていない。仮説の段階である。またエアロゾル感染が起こると言うことすらもようやく明らかになったばかりだ。

 

●そしてある地域内で感染者が急増しエピセンター(震源地)化すると、エアロゾルが増え、空気感染のように広がるために、日本でもちょっと前のニューヨークや今のフロリダのような爆発的な感染が起こる可能性があると指摘する人もいる。今このウィルスに関する知見は日々刻々と更新されているのだ。

 

●さらにこのウィルスは人から人へと感染を繰り返す中で今まさに変異の最中にある。スペイン風邪のように強毒化する恐れも当然ある。こうした中では私には警鐘を鳴らすものも含め、ウィルスに関するあらゆる最新の研究や知見に開かれ、それらをベースに柔軟な対策を打っていくことが必要と思える。

 

●だから今、誰かが「普通」と言っていること、当然のように求めてくることを鵜呑みにするのはリスクが高いと感じている。そして私は今こそ自分の中に起きている「感染への怖さ」や「愛する人にうつしたくない」と言う想いから目を背けず、いつも以上に焦点を合わせていく必要があると感じている。

 

●そして周りがどれだけ「普通」を求めてきても、「それでも私は怖い」、「それでも私は愛する人を守りたい」と勇気を持って伝え、行動することが大切なのかなと感じている。私や愛する人が感染してしまった時、誰も私の代わりに責任をとってはくれない。これは取り返しのつかないことなのだから。

 

2020年

7月

17日

対立を煽る人への関わり方

●ふとした出会いで『危険人物をリーダーに選ばないためにできること』という本を読んだ。この本の著者ビル・エディは心理臨床を経験した後に弁護士となったが、数多くの現場で「対立を煽る危険なパーソナリティ」のために葛藤が起きていることを知り、そうした人への対処策を模索してきた。

 

●そして彼によればヒトラーからスターリン、トランプに至る危険なリーダーの共通の特性が「対立を煽るパーソナリティ」である。国のリーダーにこうした人々がついたことで、何千万もの人々が死に追いやられたと主張し、こうした人物をリーダーにしない方法を本に書いたのだ。

 

●対立を煽るパーソナリティは4つの特徴を持っている。それは標的とした相手を執拗に非難する、何にでも白黒をつける、攻撃的な感情を抑制できない、極端に否定的な態度をとることである。そしてこのパーソナリティはソシオパス(支配欲・欺瞞・良心の欠如)とナルシストの特性に支えられている。

 

●彼らは自分が他者の上に立ち、権力を握るためにまず危機を煽る。それは架空(つまり嘘)のことも多いが人々の不安につけ込むものを選んでいる。そして誰かが悪者でその危機を起こしていると攻撃する。その上で自分だけがそれを救えると訴え、権力を持つ地位につけるよう人々を説得する。

 

●例えばこんな感じだ。「ドイツの不況などの危機はユダヤ人の陰謀のせいである。既存の政府は陰でユダヤ人に操られている。エスタブリッシュではない私だけがこの危機を救える」。著者はこうした人を「いかさま王」と呼ぶ。こうした人は私たちの身近にもいて、彼らが引き起こす対立に巻き込もうとする。

 

●私が自分の不安や不満につけ込まれると「いかさま王」は、私の代わりに危機を解決してくれるヒーローに見える。熱狂的支持者になり「敵」を攻撃するようになる。自分で考える必要はなくなる。ただ「いかさま王」は状況が変化すれば自分を支持してくれた側近でさえも攻撃対象にし簡単に切り捨てる。

 

●「いかさま王」には多数の反対派がいる。しかしまとまることができない。まず「いかさま王」に対し感情的に反発する人々がいる。しかし「いかさま王」の支持者は攻撃されたと感じますます結束していく。また同じ反対派の中にもその攻撃性に幻滅して争いから距離をとる人々が出てくる。

 

●穏健派は「いかさま王」を信じないが、彼が権力を握るためなら何でもし、権力を握ればますます分断を煽ることを理解していない。だから政策が一致する部分があれば「いかさま王」を支援してしまう。また「いかさま王」は対立に際限なく精力や時間を注ぐ。穏健な人は辟易して権力を彼に委ねてしまう。

 

●「いかさま王」はこうして反対派を分断し、自分の支持者が少数派でも権力を掌握する。そして際限なく対立を煽り、人々を分断し続ける。ただ彼が力を注ぐのは真の問題の解決ではないので、人々の生活を良くする方向には働かない。むしろ無駄な対立にエネルギーを取られ、集団の力は衰退していく。

 

●私も確かに対立を煽るパーソナリティは危険だと感じる。今のアメリカを見ていると分断で力が削がれている上に、新型コロナウィルスの災いを増幅させているように見える。例えば感染予防のためのマスクが、分断のための道具に使われ、多くの人がマスクを拒否し感染の拡大を起こしてしまっている。

 

●ただ著者のようにこうしたパーソナリティを持つ人が決して変わらないとは思わない。難しいけれど体験から変わる可能性があると思っている。また全ての災いをこうしたパーソナリティを持つ人のせいにもしたくない。この人がもたらす災いを防ぐために私にできることがあるように思うからである。

 

●ポイントは一人一人が心から自分のことを大切にするかどうかにあるように思える。例えば今ここで起こっている不安や怒りにありのままに気づき自分のものとして受け入れるなら、対立を煽るリーダーに感情的に操られることはなくなる。自分が攻撃されても、必要以上に卑下することもない。

 

●事実を受け入れ自分で考えるなら、本当はそんな危機はないこと、それは協力によって解決できる問題であることに気づく。リーダーが悪者とする人々も、同じ人間として尊重することができる。心から自分を大切にする時、その人は対立を煽るリーダーが権力を握り、災いを招くことへの堤防となるのだ。

2020年

7月

10日

コロナの中で働く若者の葛藤

●新型コロナウィルスが再び蔓延を始めているが、単に数字が増えているというだけでなく、本当に身近に迫ってきているなと感じている。というのも私の子供は塾の先生をしているが、その塾の生徒が通う小学校で一年生の児童が新型コロナに感染したのだ。そして学校は消毒のため休校となっている。

 

●塾としても、同じ小学校に通う児童には自宅待機をお願いしたそうだ。ただ私の住む大阪では、コロナがある程度流行しても学校を閉鎖しないと知事が明言している。学校は消毒をして児童の様子を見つつ再開される方針であり、そうなると塾としてもそれらの児童を受け入れざるを得なくなってくる。

 

●感染者は重症化しにくい若い人に多いし、医療態勢も逼迫していないので4月とは状況が異なるとして、国や地方自治体は具体的な対策を打ち出していないように思う。確かに私の子供はまだ若いし、かかっても重症化するリスクが低いことは確かだ。むしろほとんど無症状で過ごす可能性の方が高い。

 

●そして学校が通常通り開かれている中では、例えかなり感染者が増えてリスクが高くなったとしても、塾としても通常通りの授業を続けざるを得ない。また経営的に見ても、リスクを恐れて閉鎖することは考えられない。こうして働く人は、仕事をいつもの通り続けることを要請される。

 

●しかしその働く若者には大切で守りたいと心から願う家族や知人・友人がいる。そしてその中には祖父母などの高齢な人、基礎疾患を持つ人もいるのだ。自分が知らないうちに感染し、無症状のまま例えば家庭に持ち帰り、祖父母を感染させ、重症化させてしまう可能性があるのだ。

 

●もし私が自分の子供だったら、こんな風に感じるに違いない。確かに生活するためのお金を稼ぐ仕事は大事だし、特に今の雇用環境で仕事があるのはありがたいと思う。また子ども達を教えることにも意味を感じる。しかしもし自分が大切な人々に感染させてしまったらどうしよう。それは嫌だ、と。

 

●私は今いくつかのことを感じている。まず親の立場から私はこうした葛藤に置かれている子供には「真に自分を大切にする」という観点から選び、行動して欲しいと思う。どの選択にもリスクはあるが、こうして選んだのであれば、それが生み出す結果は、私としても恐れず受け止めたい。

 

●そしてこうした葛藤は、私の子供一人のことではないだろうと思う。多くの若者に共通した葛藤のはずだ。しかし生活に余裕がない場合、つまり自分の収入で家族を養い、また生活に困窮しているケースでは仕事を辞める選択肢は取りにくいのではないだろうか。葛藤の中で働くしか仕方がないのだ。

 

●だから災厄が起きた時、放っておくと最も被害を受けるのは弱い人(この場合は生活に余裕がない人)なのだと感じる。統計的に見ればリスクの中で仕事を続けた人の何%かは感染し、身近な高齢者などにうつしてしまうからだ。もしそれで愛する人が死んでしまったら、この若者には傷が残るかもしれない。

 

●今考えてみると、4月〜5月の緊急事態宣言は個々人の心の中の葛藤を国が引き受けてくれた側面があるように感じている。しかしそれも限界なのだろう。この葛藤が個人に投げ返された今、弱い立場の人だけにリスクを押し付けずに、私たちはどのようにそれに対処することができるのだろうか。

2020年

7月

03日

災厄を最低限に抑えてくれる「堤防」のような人々

●先日NHKの「英雄たちの選択」という番組で、現代に至るまで岡山を守る堤防を築い津田永忠を取り上げていた。彼も未来に起こりうる災厄を防ごうとした人なのだなと感じる。そして彼の築いた堤を見ながら、洪水以外の災厄にもそれを防ぐ「堤防」に似たものがあるのではないだろうかと思った。

 

●災厄の中には津波や洪水の比喩で例えられるものがある。感染症や戦争はその代表例だ。恐らく溢れた時にコントロールがきかなく水のイメージから来るのだろう。ユングの自伝によると彼は第一次世界大戦を予見し、血に染まった水がアルプスから北海へ津波のように押し寄せるという夢を見るようになった。

 

●全体主義などの席巻も自由と尊厳を脅かす津波のように感じられただろう。カミュの「ペスト」はナチス占領下のヨーロッパで実際に起こった出来事の隠喩だといわれる。過酷な占領下では感染症の流行時と同じように、同胞同士の相互不信、刹那的な享楽への現実逃避が起きたのだ。

 

●こうした極限状況をもたらす災厄に対して「堤防」としての役割を果たしてくれるものは何だろうか。私にはそれは人であるように思える。それも心の一番奥深いところでありのままの自分に対し、卑下や蔑視、絶望をしないでいられる人、つまり自分を心から大切にできる人であるように思う。

 

●この新型コロナウィルスという災厄ではどうだろうか。この人は自分を大切にしているので、自分なんかどうなってもいいとは決して思わない。だから感染防止に必要な努力をするだろう。山中伸弥さんもいっていたが、3月中旬以降の日本人の多くがこの努力をした。

 

●またこの人は事実に向き合っても自分が脅かされることはない。だから事実や科学的知見を受け入れることができる。新型コロナウィルスをただの風邪扱いせずきちんと恐れ、社会的接触を減らさなければ流行が避けられないという予測も受け入れることができる。それが感染拡大への堤防となるのだ。

 

●同様にこの人は自分と異なる意見に相対しても自分が脅かされることはない。だから冷静に議論し、協力して最もよい対策を探ることができる。またこの人は外的な要素によって自分の価値が貶められることはないと考える。だからマスクをすることが「男らしさ」を失わせるなどと主張する必要がない。

 

●自分をありのままに受け入れ大切にする人は、社会的地位や配下、「敵」の存在などによって自分の価値を保つ必要がない。だから他者を支配することやリーダー争いなどにかまけることがない。社会を分断し敵を作り貶める党派争いの必要もない。だから災厄への対応に全精力を注ぐことができる。

 

●この人は他者もありのままに受け入れ大切にすることができる。だから感染症による死者をただの数字としてみたりはしない。人々の苦しみに共感し、その中で自分に今できることをする。また感染者や医療従事者を蔑視し、差別することがない。だから人々の協力関係を促進できる。

 

●信玄堤を築いた武田信玄は「人は城 人は石垣 人は堀」と言って堅固な城を築かなかったと言われる。未来の災厄においても同じことが言えると思う。つまりありのままの自分を心から大切にできる人々の存在が、いざという時に「堤防」のように働き、災厄を最低限に抑えてくれるのだ。

 

 

ユング自伝(1)(2) 2冊

ユング自伝(1)(2) 2冊

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2020年

6月

26日

新型コロナウィルスに対するリスクへの感度

●私はこの頃、新型コロナウィルスに対するリスクへの感度は一人一人違うなあと実感している。身近なところでは家族内での違いがある。4人家族の我が家では86歳になる母がもっとも大胆だ。あまり気にせず公共交通機関にも乗るし、外食もする。

 

●他の3人は母に感染させないように不要不急のリスクを避けた生活を続けている。だからリスク感度の低い母にがっかりしたりする。こうした違いは意外に根が深く、時に葛藤が起きるので我が家ではその都度家族会議を持っている。概ねうまくいっているが母からすれば、私たちは臆病に見えるようだ。

 

●リスクへの感度は一人一人違っている。「怖さ」という感情への対処は個人差が大きい。情報の差もある。私はコロナについての新たな知見を日々集めているので、その怖さとリスクを実感できるし、第二波があることも確実視している。母はそこまでは情報処理ができていない。

 

●また個人差だけでなく、家族構成やライフステージによっても変わってくる。高齢者や基礎疾患を持った人が家族にいる場合、妊娠中や小さい子供がいる家族ではリスクに対し敏感にならざるを得ない。身の回りの友人、知人を見ていても、高リスクの家族がいない人はより大胆に行動しているように見える。

 

●こうした中、怖いなと思うのは同調性の圧力である。もっと正直に言えば、私はこうしたリスク感度の差を無視して、同じであることを求める動きに違和感を感じている。例えば少し前まで、微熱や軽い咳、下痢など少しでも体調が悪ければ学校や職場を休むことが大切だと言われてきた。

 

●しかし今鼻風邪程度で休める雰囲気が再びなくなってきているように感じる。例えば授業で生徒が待っているのに先生として休めない、大切な仕事を放り出して会社を休めないという同調圧力があるように思える。この中でリスク感度の高い私などはもし他の人にコロナを感染させてしまったらと怖く感じる。

 

●ラッシュ時の満員電車での通勤・通学はもともと嫌なものだった。しかしコロナの脅威のある今、リスク感度の高い人は毎日真に怖い思いをしている。そこに共感がない組織が通勤・通学を当たり前に求めると、働く人、学生は道具のように扱われている感じを抱いて心が離れてしまう。

 

●逆にマスク着用、社会的距離などの「新しい生活様式」が押し付けられることにも違和感を感じる。私の友人が言っていたのだが、末期患者の看取りをしていると社会的距離があることで相手の言葉を聞き取れないことがある。またマスクをしていると、相手に大切な言葉を伝えることができないこともある。

 

●一般論としてよく日本は同調性の高い社会であると言われてきた。そこには良いところもあるのだろうと思う。しかしコロナへのリスク感度の違いには、そのベースに恐れという感情があり、本当に大切な人を守りたいという想いがある。だから同調圧力はその集団と個人の中に非常に大きな葛藤を生み出す。

 

●私とって大切なことはコロナ前の当たり前に戻ることではない。自分の中の恐れと大切な人を守りたいという想いに向き合い、その中でどのように人と関わり生活するかを自分で決めることだ。そしてこうした私を理解し、認め、支えてくれる人々や集団とより強固な関係を築いていきたいと思っている。

 

2020年

6月

26日

8割おじさんこと西浦博さんを巡って

●ここ1ヶ月ほど本のまとめなどをしていたので、「今の私」が感じていること、思っていることを言葉にすることがお留守になってしまっていた。何かを忘れている感じがないでもない。そこでしばらくは特にテーマを決めず、「この頃の私」が徒然に思うこと、感じることを書いてみたいと思う。

 

●まず思いつくのが昨日初めてツイッターというもので書き込みをしたことだ。それは新型コロナ対策で「8割おじさん」として有名になった西浦博さんに対し、ネットで非常に批判的な意見やコメントを見たためである。そこで私は西浦さんに感謝していることをどうしても伝えたいと思った。

 

●結果的に見れば彼が提唱した「8割の接触削減」は、日本における感染拡大防止には過大な要求だったかもしれない。しかしあの時点で彼の提唱は、未来に起きたかもしれない大災厄を防ぐ勇気ある行動だった感じている。日本に感染拡大を防ぐファクターXがなければ、実際に大災厄は起こり得たのだ。

 

●特に私がすごいなと思うのは、感染対策しなければ「42万人」が死亡する可能性があるという予測を、様々な人々からの反対を押し切って個人の資格で国民に伝えたことだ。今この予測が間違っていたと多くの人が批判するが、少なくとも私の行動変容を後押ししてくれた本当に勇気のある行動だと思う。

 

●しかし前に書いたように、起きなかった災厄を防いだことは誰も評価しない。それどころか国民に犠牲を強いたとして「叩かれる」可能性がある。これではこれから災厄が予想された時(第二波が来るのはほぼ確実だと言われているが)、それを防ごうとする人の勇気を挫くことになりはしまいかと心配になる。

 

●しかしこうした勇気こそ未来を生かすものだ。西浦さんは3月20日前後の連休前に、阪神間の往来を止めなければ三千人の患者が出ると試算した。厚労省の人が公表してはならないとした資料を大阪府知事の吉村さんは勇気を持って公表し、それが結果的に大阪の今の落ち着いた状況を作り出したと感じる。

 

●私には何もできないけれど、せめて一人の人間として、西浦さんの勇気と自己犠牲に敬意を示し、感謝したいと思った。この気持ちが届いてくれるといいなと思っている(ツイッターの操作がうまくできたかは不安だけれど)。そして私自身、たとえ反対・批判されても未来の災厄を防ぐと自分が信じられることを、勇気を持って行動できるようになりたいと思う。

2020年

6月

17日

未来を生かす人々4〜子どもの子どもの子どものために

●今世界には様々な価値観があふれ、人々の間に分断と衝突が見られる。社会は複雑化し、善意の行動が悪をもたらしてしまうこともある。情報操作が行われ何が真実なのかを判断することすら難しい。そして力を持つ人々がその力を誇示し押し付ける。こうした世界でこの小さな私にできることはあるだろうか。

 

●こうした私にとって「未来を生かす人々」のコンセプトは、大切な洞察を与えてくれるように思える(恐らくこの時代を生きる他の人々にとっても)。具体的にはこのコンセプトは人や世界をとらえる見方、物事を決める基準、行動するための勇気と責任を与えてくれるように思う。

 

●まず私は自分の行為が「未来を生かす」のか、そうでないかという観点で判断できるようになる。私が目の前の人に微笑みを持って接し、その人から生まれてくる「今ここ」を大切に関わるなら、私は未来を生かしている。その人をモノとして捉えた瞬間、私は未来を殺している。

 

●私の小さな一挙一動は、そのまま未来を生かすかどうかに関わっていく。「未来を生かす人々」のコンセプトがあることで、私は自分の行為の影響に気づき把握できるようになる。私は自分の責任に目覚める。そしてできるだけ未来を生かすために自分を育てることができるようになる。

 

●これは同時に他者や世界をとらえる見方を養うことでもある。私に「名、権力、金」を与えてくれる人や組織はありがたい。しかしその人や組織が「今の私たち」だけを考え、未来の人々が生きるためにマイナスの行為をするなら、どれほど私によくしてくれても私は共には歩めない。

 

●その人や組織が「名も権力も金も」求めず、未来の人々が生きるために重荷を背負おうとするなら、その人・組織がいかに小さく弱くても、私は共に微力を尽くしたいと思う。「未来を生かす人々」のコンセプトは、人や組織が行動するその一番のベースにあるのは何なのかを見抜く力を与えてくれる。

 

●また「未来を生かす人々」のコンセプトは、私が生きる意味と行為する勇気を与えてくれる。今の世界で小さく弱い人にできることはあまりない。病で苦しむ人、経済的苦境に立つ人、偏見に苦しむ人を目の前で見ても、何もできない。私は無力だ。

 

●しかしこんなに小さく弱い私でも、「未来を生かす人々」というコンセプトのもとでは、できることとその意味を見出せる。例えばこのコロナウィルスの蔓延の中で、「家にいる」という行為は小さなことだ。しかし自分と他者を未来の感染から守ることができる。医療従事者を守ることにもつながる。

 

●歳をとるに従い、私は自身が弱い無力な存在になりつつあることを実感する。私は物理的に人を助ける力はない。しかし笑顔で周りの人と関わることはできる。もっと歳をとると周りに世話ばかりかけるだろう。しかし安らかに死ぬことで、周りの人々が将来死を恐れて生きる必要がないことを示すことはできる。

 

●これらはいずれも小さい行為だ。しかしそれが未来を生きる人々に小さい影響しか与えないかと言えば、それはわからない。一つの行為はある人に影響を与え、それがまた別の行為を生み出し、別の人に影響を及ぼす。だから一つの笑顔が、回り回って一つの国を破滅から救うこともありえるのだ。

 

●前に触れた『一万年の旅路』では、「子どもの子どもの子ども」のためにという意思決定と行為の基準を、大切にした人々が描かれていた。文字を持たない彼らはそれを口承によって代々語り継いでいく。私には今またこの「未来を生かす人々」というコンセプトが必要な時代が来ているように感じている。

2020年

6月

12日

未来を生かす人々3〜ラボラトリートレーニングの意味

「未来に起こるかもしれない災厄を防ぐ行動を、今ここで自分の担う荷物として受けいれる人々」のことを思い巡らせている。そして私が従事してきたラボラトリーもこの「未来の災厄を防ぐ」という観点から捉え直すと、より深くその意味を理解できるように感じている。

 

●ラボラトリーには参加者全員で行うセッションと8名程度の小グループに分かれて行うグループセッションがある。このグループセッションではメンバーは数日変わらない。そして関わりが深まる中で、「今ここ」で感じたこと、思ったことを伝え、受け取りあう。

 

●この体験の中で自分の感じ方の特徴に気づき、相手に深く触れる感覚が生まれる時がある。自分について感じたことを他者にフィードバックしてもらうことで、自分についての捉え方、自己概念が変化する時もある。考え方や感じ方が違う他者だが、この瞬間に共にいてくれる「ありがたさ」を感じる時もある。

 

●ラボラトリーは時に人間関係トレーニングと呼ばれる。しかしこのような体験があったからといって、人間関係が特別上手になるわけでも、何か目に見えるプラスがあるわけでもない。自分の悪い癖も治るわけでもないし、相手にカチンときて喧嘩することもある。それでは何のためにラボラトリーはあるのか。

 

●それは人間関係がもたらす負の側面が生じた際に明らかになる。例えば人種や性別その他の属性で差別が起きた時がその典型である。またナチスの強制収用所では囚人は全部番号で呼ばれモノ・数字として扱われた。今なお組織の中で、人としてではなく機能として扱われることは珍しくない。

 

●実際リーダーの中には、メンバーに対し力を背景に命令で人を動かす以外の方法を知らない人がいる。一人ひとりが意見や気持ちを伝えることが破壊的に思えるのだ。そして自分に起きた怒りをぶちまけ、力を誇示して、恐怖を煽り、服従を迫る。パワハラなどはその帰結と言える。

 

●これらはすべて人間関係的な災厄と言っていいだろう。そしてラボラトリーでの体験はこうした災厄を防止・軽減する力を持つように思える。私は一人一人が「今ここ」を与えられ生きる存在だと実体験した。だからいくら他の人が人種差別を煽っても、その人を「人種」と言うラベルだけで見ることはない。

 

●同様にいくら成果を求められる場面でも、目の前の人をモノや機能という側面だけで捉えることはない。またラボラトリーでは一人一人に気持ちや思いがあること、それを大切にする中でグループが成長することを学べる。だからリーダーとして合意を大事にした組織運営ができるようになる。

 

●また私はラボラトリーの中で、自分の今ここで起きている気持ちに気づき、それを破壊的にではなく相手に伝えることを学んだ。だからその体験がない場合に起こり得た破滅的な結果、例えばパワハラや深刻な夫婦の危機などの災厄を未然に防止することができていると感じる。

 

●さらに私はラボラトリーの中で「今ここ」がいつも与えられていることを学んだ。だから失敗や至らなさから自分に絶望し、時に滅びてしまった方がいいと感じても、自暴自棄にならず「今ここ」の流れに委ねる中で自分を許すことができる。この体験には絶望を克服する力があるのだ。

 

●人間関係的災厄とは自己概念、人間、人間関係についてのある種の偏りがもたらす災厄と言える。そしてテクノロジーの進歩の中で人間関係的災厄がもたらす影響はますます大きくなるだろう。絶望し自暴自棄になった人が遺伝子を操作する生命科学のテクノロジーを持つ時、どんな災厄が起こりうるだろうか。

 

●ラボラトリーの体験は、私たちに何か特別のプラスをもたらすことはない。それは普通の人間として生き、関わることを可能にしてくれるだけだ。しかしそれは未来に起こりうる人間関係的災厄を防止してくれる。今この活動に従事することは「未来を生かす小さな人」としてあるあり方の一つかもしれない。

2020年

6月

08日

未来を生かす人々2〜小さい人であること

「未来に起こるかもしれない災厄を防ぐ行動を、今ここで自分(自分たち)の担う荷物として受けいれる人々」(=未来を生かす人々)は世界の救済や国家の大業という檜舞台だけではなく、市井の目立たない場所にもいるように思う。そしてその人の小さな行動が、大きな災厄を防ぐこともある。

 

●例えば目の前にいる人に笑顔を向けるという行為は小さなことだ。しかしその人を気持ちよくさせ、DVという災厄を防ぐかもしれない。人の話や気持ちをよく聴くというのも何気ない行為だが、聴いてもらった人は「受け入れられた」という信頼感を持つ。だからその人が自暴自棄になることを防ぐかもしれない。

 

●このように身近な人々の小さな、何気ない行為によって災厄は未然に防止されうる。しかしこうした場合、その人の行為によって災厄が防がれたことは、行為した本人にも相手にも、他の人にも見えないことが多い。だから誰にも知られず、感謝もされない。

 

●またこうした行為によって未来の災厄が確実に防止されるわけでもない。それなのに必要な労力やコスト、自己犠牲は「今」払う必要がある。さらにその行為の意味が理解できない人々からの中傷にさらされ、反対されることもある。未来を生かす人々には、疑い、不信頼、挫折、絶望がつきまとうのだ。

 

●しかし私には未来の災厄を防ぐ一人の人の小さな行為こそ、未来の人々を生かすための「梃子」だと感じられる。災厄は起きてしまうと多くの人に害悪を与え、それと戦い、克服するには膨大な労苦や大きな力が必要とされる。起こってからでは取り返しのつかないことも多い。

 

●一方指輪物語では小さい人フロドはたった数人の仲間で世界を救うことができた。疑いや絶望に打ち克ち、「災厄が起きる前」に行為したからである。私はよく夢想する。あのヒトラーがもし青年期に身近な人々に「受け入れられる」体験をしていたなら、世界はどう変わっただろうと。

 

●指輪物語の作者は、物語の中でエルフの賢人に「指輪所持者には力の強い人や戦士ではなく、小さい人、弱い人こそふさわしい」と言わせている。この新型コロナへの対応でも、感染した人を救えるのは戦う力を持った医療者だけである。しかし小さく弱い人は「家にいること」で感染拡大を防止できる。

 

●今の世界があるのは感謝もされず、名も知られず、自己犠牲によって災厄を防止してくれた幾多の「未来を生かす小さな人々」のおかげなのだと感じる。私には彼らがユングの言う「原型」を生きたのだと思える。その時代に必要が生じた時、私たちは人類の記憶に深く刻まれたこうした行為へと誘われる。

 

●今私たちの世界はコロナ感染症という災厄の中にある。そしてそれが困窮、格差、分断・差別、争いなどの新たな災厄をもたらしつつある。未来に起きるかもしれない災厄のリスクが高まる今、それらを未然に防止するために、「未来を生かす小さい人々」の一人になりたいと私は感じている。

2020年

6月

05日

未来を生かす人々1〜未来に起こるかもしれない災厄を防ぐ行動

●先日、歴史学者のファーガソンがこれからの社会を語る番組を見ていて、とても面白い考え方を提示していた。それは未来に悲惨な結果をもたらす災厄があるということはわかっているが、それがどのくらいの確率で起こるかわからない時、どのように対応するかという話だ。

 

●例えばこれからも今のような感染症が起きる確率はあるが、一方でそれは幸運にも起きないかもしれない。事前に対策するとコストがかかる。無駄になる可能性もある。たとえその災厄が実際に起き対策によって破滅を回避できたとしても、「起きなかった災厄」は人々には理解されないので感謝されない。

 

●ファーガソンはアメリカの元国務長官であるキッシンジャーを分析する中でこの考えを得たと言う。外交においてはその結果が確実でない事柄について災厄が最小限となる決定を下す必要があるが、それを支持・賞賛してくれることは少ない。彼はこの問題を「外交決定における推定の問題」と呼んだ。

 

●私はこの話に力強く惹きつけられるものを感じた。このテーマは外交に限るものではないからだ。むしろ未来の災厄を防ぐために、支持・賞賛を求めないで行動する人々すべてに関わると感じる。そして私にとっても生きる上で大切なものが含まれているように思える。

 

●実際このテーマは多くの物語のモチーフにもなっている。だから人類共通のものと言えるだろう。その一つが『指輪物語』だ。トールキンの描いたこの壮大な物語では、邪悪な力が詰まった「一つの指輪」が描かれる。この指輪が冥王サウロンに渡ってしまうと世界は悪に支配され巨大な災厄が来る。

 

●小さい人であるホビット族のフロドはたまたま指輪の所持者となり、仕方なしに仲間と共に指輪を捨てに行く。多くの労苦と英雄的行動によって指輪は破壊され世界は救われる。しかしフロド自身は指輪の魔力に侵され、取り返しのつかない傷を負う。そして彼の救世の行為を知っている者はほとんどいない。

 

西郷隆盛に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり」という言葉がある。この時代には身命を投げ出し、未来を生きる人々の災厄を防いだ、多くの無名の人々の物語があったに違いない。

 

●またインディアンの祖先を描いた『一万年の旅路』という物語がある。彼らは「子どもの子どもの子ども」が生きるためによりよい土地を探し、アジアから遥か北アメリカまで移動する。自分たちが今暮らせる土地を見つけても、増えた子孫には十分ではないと判断した時、彼らは移動することを選択した。

 

●こうした物語に共通するのは「未来に起こるかもしれない災厄を防ぐ行動を、今ここで自分の担う荷物として受けいれる人々」の存在である。彼らはいにしえに、まだ見ぬ未来の私たちが災厄にあうことを予見し、その苦しみに共感し、自己犠牲を払ってそれを防いでくれた。彼らは未来を生かす人々なのだ。

 

 

2020年

6月

02日

ながれと形7〜人間関係の中の流れ

●前回までに書いてきたように私にとって大切なことは、今ここに従って、私が私であること、新たな自分になることである。それは私の身を流れる気持ちや想い、感じなどの「今ここの実在の流れ」がより良く流れる方向へのパーソナリティの成長としても捉えることができた。

 

●ところでこのように今ここの促しを与えられ、生きているのは私だけではない。例え本人があまり意識していなくても、この世界に生きるすべての人には、今ここで想いや気持ち、感じが与えられている。そして私と同じようにその人自身になるように促され生きている。

 

●他者はまた、今ここに促されて私にかかわってくれる存在でもある。ラボラトリーの中で他の人に今ここで言いたいという想いが湧いて、私について感じたこと、思ったことを伝えてくれることがある。これによって私は自分でも気づかないクセや特長に気づくことができる。

 

●例えば前回否定的な気持ちを伝えられなかった私がいたことを書いた。この時も他の人が私を見ていて、「本当はその気持ちを伝えたいのではないか?」と聞いてくれ、私は初めてその気持ちに気づき、伝えることができた。それによって私はより私らしくなることができたのである。

 

●逆も同じだ。私が他の人に感じたことを「今ここ」で伝えることで、その人はよりその人らしくなっていくことが可能となる。このように「今ここ」を大切に生き関わる中で、私の中でも、相手の中でも、そしても、気持ちや想い、感じという流れがより良く流れるように変化していく。

2020年

5月

29日

ながれと形6〜私が私になること

●こうして変化する私を受け入れることは、別の視点から見ると私が私になるということでもある。私はいま、今ここで与えられる想いや気持ち、感じに目を向け、できるだけ気づくように努力し、受けいれ、必要ならば言葉にし、それに従って行動し、人や世界にかかわっていくことを大切にしている。

 

●ところでどのような時にどのような想いや気持ち、感じが起きてくるのか、私たちは一人ひとり違っている。新しい出来事や人と出会う時、私は少し怖じ気づくが、それを喜びと思える人もいる。同じ時、同じ人に出会っても、私には私の、あなたにはあなたの想いや気持ち、感じが起きてくる。

 

●そしてこのことが、私があなたとは違う私であることの証である。何かをなし、何かになるということは、「私である」ことを保証してくれない。それは他の誰かでもなし得るし、なりうるからである。今ここで与えられたものを大切にし、それに従って生きる時、初めて私は他の誰でもない私でありうる。

 

●同時に今ここで与えられたものを大切にし、それに従って生きる時、私は「新たな私」になることができる。私は長い間、他の人に対し否定的な感じや想いを抱いた時、それを伝えることを恐れてきた。相手を傷つけ、葛藤が起こることを恐れる私がいたのである。

 

●しかしそれが豊かな人とのかかわりを阻害していることに気づいた時、私には今ここで起きてきた自分の気持ちを伝えたいという強い想いが湧いてきた。そしてその想いに従った時、その人との間に深い信頼関係が生まれてきた。私は否定的なことを伝えるのを恐れる私を超えて「新たな私」になったのである。

 

●「ながれと形」について考える中で、今の私にとって大切なことは、私が私である、私が私になることであると感じている。それは私の身を流れる気持ちや想い、感じなどの「今ここの実在の流れ」がより良く流れるような変化を受け入れることである。

2020年

5月

26日

ながれと形5〜変化する私を受け入れること

●前回、ロジャースのパーソナリティ理論から人は「今ここの実在の流れ」が「より良く流れる」方向に成長していくことを見た。この理論は私の実体験にも通じるものがあるように思う。私は「私」を、今ここを与えられ刻一刻と変化しながら生きている存在としてとらえるよう成長してきたように思う。

 

●長い年月をかけて私はいろいろなものを身につけてきている。職業、地位、人間関係、価値観、自分についての概念や私が持つさまざまな特徴なども、私がこれまでに身につけてきたものだ。そして日常私は、こうして身につけてきたものと自分を、ある程度同一視して「私」をとらえている。

 

●しかし長年かけて築き上げ、慣れ親しんできた「私」を捨てることが求められる時がある。例えば自分では「優しい」と思っていたのに、他者に「厳しいですね」と言われる場合である。この言葉が私の腑に落ちると、私は自分を新たにとらえ直す必要に迫られる。「私には厳しい側面もあるのだ」と。

 

●できる私、物覚えの良い私、この職業の私、友人の多い私・・このような「私」はすべて今ここによって変化していく。こうした体験の中で、私はどんな「私」も、絶対的で永続し、私を完全に表現するものではないことに気づいた。それは相対的で、変化し、その時の私の一部を表すものに過ぎない。

 

●こうして身につけてきた「私」を自分ととらえてしまうと、変化が受けいれられなくなることがある。例えば今の職業と自分を同一視していると、それを失う時、私は揺るがされ恐怖を感じる。そして私は過去に築いてきた「私」にしがみつき、新たな私になることを拒否してしまう。

 

●私とは「今ここ」で与えられる私自身のことであり、それは常に生成し、変化し新しくなっている。その「今ここ」を生きることこそが、私にとってもっとも十全なことである。私にとって今ここを生きるということは、今ここを与えられ、変化する私を受けいれ大切にするということだ。

2020年

5月

22日

ながれと形4〜ロジャースのパーソナリティの理論

●前回この身体を流れるものとして「今ここの実在の流れ」があるのではないかと書いた。これは私一人の考えではないように思う。実際ロジャースもそのパーソナリティ理論で人間は気持ちや感じが「より良く流れる方向」へ変化・成長すると指摘している。それには次の7つの段階がある。

 

●第1段階では、そもそも自分について話したくない気持ちがある。変化が起こりにくい状況で、自分の感情や個人的意味づけに気づいていない。親密なコミュニケーションが危険だと思っている。自分自身の中に問題を認識していないし、知覚もしていない。また変ろうとする願望をもっていない。

 

●第2段階では、「私の生活にいつも混乱が起こっている」というように、「私」を主語にすることなく、他人事のように話す。感情は表出されたとしても自分の感情として認めない。体験の仕方は過去に束縛されている。自分で作った概念が変えられない事実のように考えている。

 

●第3段階では、「努力します。彼女に自分を愛してほしいから」というように客体としての自己についての表現がより自由に流動するようになる。ただし、自分の感情が受容されること(acceptance of feelings)はわずかで、過去の経験として語られる。経験の中に矛盾を認めることができるようになる。

 

●第4段階では感情がより自由にあふれ出てくる。過去に味わった“非現在的な”強い感情が述べられる。時には感情が現在のものとして語られることもある。問題について自分の責任を感じ、動揺する。感情のレベルでわずかながらでも人との関係をもとうとし、自ら危険をおかしてみることがある。

 

●第5段階では、感情は現在のものとして自由に表現され、生まれ出る感情に対して驚きと恐れがある。しかし喜びはない。自己の感情が自分のものだという気持ちをもち、“ほんとうの自分(real me)”でいたいという願望が増加する。自分で作った概念の再吟味がなされる。自分の中で自由な対話が起こる。

 

●第6段階では、固着化して、押しとどめていた感情が直接瞬時的に体験される。その感情は充分に流れ出し、その感情があるがまま受容されるようになる。そして、客体としての自己が消失する傾向にある。自分で作った概念や枠組みから解放される。

 

●第7段階では、新しい感情が瞬時性と豊富さをもって体験される。変化する感情を自分のものとして実感して受け入れることができ、自分の中で起こることに対して基本的な信頼をもつことができる。概念は暫定的に再形成されるが、それに固執しない。そして、新しい自分のあり方を効果的に選択する。

 

●こうしたパーソナリティの変化は、過去の体験や概念に固執し、気持ちや感じなどが流れない固い状態から、今ここでの気持ちや感じを受け入れ、自由に流れる状態への成長である。人はこのように気持ちや感じといった「今ここの実在の流れ」が「より良く流れる」方向に成長していく。

 

 

2020年

5月

19日

ながれと形3〜「今ここの実在の流れ」

●これまで「動的平衡」の考え方と『流れとかたち』から「私」について考えてきた。私は身体という形を持っている。この身体は分子の流れの動的平衡によって生まれる。そして形は「そこに流れるものをより良く流すデザインへと変化する」。だから動的平衡は何かをより良く流すために生じる形と言える。

 

●それでは私たちの身体は何を流すために形作られたのだろうか?『流れとかたち』の著者が言うように、人間など動物の形は確かに、質量をより良く移動させる方向に進化してきたことは間違いない。また情報やアイディアといったものをより良く流すデザインとも言えるだろう。しかしそれだけだろうか?

 

●一つ確かだと思えるのは、「私」とは私の身体だけではないと言うことだ。この身体はそこに流れるものと一体になって初めて「私」になる。だとするなら、私を私であらしめるもの、つまり私の中から湧いてくる気持ちや思い、感じ、直感、イメージなどは「私の身体を流れるもの」と言えるだろう。

 

●私が他の人の一言でインスパイアされ新しい何かを発見する時、私の中では何かが流れている。何かに怒りを覚えている時、私の中では何かが流れている。このコロナウィルスによって起こる社会の動きを見て何かをしたいという意志が湧いてくる時、私の中では何かが流れている。

 

●心理療法などで用いられるフォーカシングには体験過程という考え方がある。そこでは自分の身体には自分では意識していない流れがあるとする。そしてその流れに焦点を当てると、つまり刻一刻変化している身体の感じに焦点を当てると、その流れを意識化することができる。

 

●具体的には、今まさに生まれている身体の感じを感じ取れるようになる。そしてその感じにフォーカスして、一番近い言葉を探すと「重い」、「ワクワク」などのように気持ちや思い、感じ、直感、イメージなどを言語化できる。そしてそれがその感じに対応する私の動きを生み出す。これが「今ここの実在の流れ」と言っていいものだ。

 

●このブログで私は生きるベースとして、この「今ここの実在の流れ」を挙げてきた。そして「今ここ」は言葉で直接説明することはできないし、目で見ることもできない。しかしそれはこの身体の中でいつも流れている。それはいのちの流れと言ってもいいのではないだろうか。

2020年

5月

14日

ながれと形2〜『流れとかたち』

●「流れと形」についてもう一つ示唆を与えてくれると思うのが、エイドリアン・ベジャンとJ・ペター・ゼインが『流れとかたち』という本の中で提唱した「コンストラクタル法則」である。それは一言で言うと「すべては、より良く流れるかたちに進化する」と言う考え方だ。

 

●彼らは河川の流れや動物の身体構造、稲妻、毛細血管、脳の神経細胞、道路網など生物・無生物を問わず様々なデザインを分析した結果、こうした「かたち」がより良く流れるように進化したことを発見した。例えば河川であれば水が、道路網であれば自動車がより良く流れるかたちで進化する。

 

●彼らの言葉ではこうなる。「生物・無生物の別なく、動くものはすべて流動系である。流動系はみな、抵抗(摩擦など)に満ちた地表を通過するこの動きを促進するために、時とともに形と構造を生み出す。自然界で目にするデザインは偶然でなく、自然に自発的に現れ、時とともに流れを良くする」。

 

●彼らは「生きていることの意味」をこう定義する。「生命は動きであり、この動きのデザインをたえず変形すること」である。逆に死の状態とは熱力学における「環境との平衡状態」を意味し、そこでは中で動くものが何もない。彼らによれば、私を含めた生物もまたより良く流れる方向に進化してきた事になる。

 

●こう考えると、またもや「私」を何と捉えるかということが問題になってくる。私は身体という形・デザインを持っている。しかし『流れとかたち』の考え方からすれば、そこには流れるものがあるはずだ。この身体は、そこに流れるものがある。それは一体何なのだろうか?

 

 

 

 

2020年

5月

12日

ながれと形1〜動的平衡

●今私は「流れと形」について考えている。このブログでは、私が生きていくベースとしての「今ここ」について繰り返し書いているが、私にはこの「今ここ」が流れとして感じられている。だから「流れと形」を理解することが「今ここ」や「生きる」ということを理解するヒントになるように思うのだ。

 

●まず生物学者である福岡伸一さんの「動的平衡」と言う考え方を見てみよう。私の身体は一見変わらぬ姿・形をし、その存在は長期間保たれているように見える。しかし実際は体内では、組織が絶え間なく分解され、そこに食事で摂取した分子が素早く再合成されて、置き換わり続けている。

 

●人間の身体は一年くらいで、内臓や脳、骨も、分子レベルで置き換わるとされる。生命はこうして何かを取り入れ作ると同時に、自己を壊し排出する流れの中にある。だから「私が生きている」という事は、この流れが私の身体という形を生み出し続け、それが一定期間保たれている状態なのだ。

 

●この生命感は、私が「私」を何と捉えるかという自己概念を変容させるように思う。この考えでは「私」とは、この身体を構成する分子の集まりでもあるし、また分子による動的平衡の流れでもある。さらにはこの動的平衡をもたらすもの、つまり形を決定しそれを維持し続ける働きでもある。

 

●しかし私を構成している分子は、明日には他者や木々、他の生き物を構成するだろう。またそうした生命も全て、同じ動的平衡の流れの中でいのちが与えられている。そうであるなら「私」とは何なのか?この身体に限られたものなのか、その範囲を超えた動的平衡の流れそのものなのか?

 

●前に「十牛図」を読む中で、円の中に何も描かれていない第八図を、形を生み出し維持し、変化させ壊していく力として捉えた。実は十牛図では、この後、第九図で自然を描き、第十図で他者を描く。そしてそれらを「私」として捉えていく。動的平衡の考えと十牛図には通じるものがあるように感じる。

 

 

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

  • 作者:福岡 伸一
  • 発売日: 2009/02/17
  • メディア: 単行本
 

 

 

2020年

5月

08日

社会的接触と身体2

●今新型コロナウィルスの蔓延の中で「社会的距離」を取ることが必要とされているが、このことは私たちの身体や人間関係にも影響を与えるように思う。メルロ=ポンティは「知覚の現象学」において知覚や身体について論じたが、その中で彼は「関係は身体から相互に伸びる枝」であると述べている。

 

●私たちはただ頭で人と関わるのではなく、この身体を世界に浸して状況を感じ取り、人や世界と関わっている。つまり身体に与えられる「感じ」によって人や世界への志向性・動きが生じる。これが伸びる枝のイメージである。そしてその場に身体が一緒にあることで、関係としての枝が結び合っていく。

 

●私が関わっているラボラトリートレーニングでは、確かにこうして枝が結び合う身体感覚が感じ取れることがある。ラボラトリーでは4泊5日の長い時間、8人程度の小グループで、ずっと同じ場所で過ごしていく。そしてその場に身を浸して、「今ここ」で出てくる気持ちや感じ、思いを分かちあっていく。

 

●こうした時間を過ごす中で、ふと気づくと一人が体調不良で欠けただけで寂しく感じるようになる。一人の人の辛さ・痛さ・嬉しさなどに対して強い共感が生まれる。今ここで感じたことを伝え合う中で、メンバーは互いに成長していくが、一人の人が成長する姿に全員が大きな喜びと感動を覚える。

 

●面白いなと思うのは、こうして培われた関係は、時を超えて続くと言うことだ。何年も経ってから同じグループでご一緒した人と会っても、その時に生まれた関係は失われていない。「今ここ」で感じたことを本当に素直に分かち合える。こうした関係は、私たちが生き成長する力のベースになっているのだ。

 

●考えてみれば、コロナ以前からこうした身体性を伴う関係が失われつつあると指摘されてきた。子育てにおいては、子どもを「無菌状態」に置くと(外で遊ばせない、友達とケンカをさせないなど)、子供の人間関係の成長にマイナスになると言われてきた。また独居老人が生きる力を失う事例も報告されてきた。

 

●そして今新型コロナウィルスによって、社会的接触を避ける動きが加速している。それは感染リスクを避けるために必要なことである。しかしそこには私たちが生き成長する力のベースとしての関係性、つまり身体から枝が伸び結び合うような関係性を失うリスクがあることも忘れないでいたい。

 

 

 

 

2020年

5月

05日

社会的接触と身体1

●緊急事態宣言で家にいることが多いが、気分転換と運動不足解消のために毎日昼食後一時間ほど外に出てジョギングをしている。同じように過ごしている人が多いのだろう、近くの公園は結構な人出である。それで3〜5mの距離を保つために、人を避けて走ることを意識している。

 

●考えてみるとこの新型コロナウィルスが流行し始めてから、「人と近づくのを避ける」ことが私の習い性になってきているように思う。電車に乗るのを避けて自転車で通勤しているし、会議で集まっても1m以上は距離を取るようにしている。宅配便の人とさえ、できる限り近づかないようにしている。

 

●逆に満員電車で出勤をせざるを得ない人や、三密の職場環境にある人などからは不満の声が聞こえてくる。その人たちは感染リスクの高い、「望まない社会的接触」を強要されているように感じているのだ。このように社会的距離が取れないことは「リスク」であるとはっきりと認知され始めているのだ。

 

●このコロナは、人口の70%が免疫を持つようになるまで続くと言われている。またはっきりと「これで終わり」というものでもないので、感染症への警戒は長期に渡って続けられるだろう。そうするとこの「社会的接触」は社会にとって重要なキーワードになるように思える。

 

●例えば就職先を選ぶ時、テレワークの体制が整っている会社と満員電車での通勤が必要な会社だとどちらを選ぶだろうか。社会的距離を取れるオフィスを持つ会社と三密の環境しかない会社だとどうだろうか。多くの人が前者を選ぶようになるに違いない。

 

●今言われているエッセンシャルワーカー(スーパーのレジの人や宅配の人など)は社会的距離が取れない仕事といってもいい。こうした仕事に自ら就こうとする人は、よほど使命感を持つ人以外は少なくなるだろう。ロボットやAIなどはまずこうした仕事を代替するかもしれない。

 

●このことは学校でも同じだと思う。何十人も同じ教室に詰め込んで授業をする学校は、選ばれなくなるだろう。すでに起こっていることだが、先生たちは生徒間の社会的距離が取れるように授業を工夫し、身体接触やグループワーク、合唱なども避けられるようになるだろう。

 

●これは「社会的距離」が人の権利の一つとして認知され、マーケティングツールになり、そのためのロボット開発などが行われるといった製品開発コンセプトになることも意味している。また人の成長に関わる学習面でのキーワードになることを意味している。

2020年

5月

01日

「何故」の力、「何故なし」の力3

●前に「なぜ」「何のため」という問いが、既存の世界の前提や自分自身を新しくする力を持つと同時に人を断罪する力を持つことを書いた。特にこの問いが「生きること」に向くとそうした傾向が強まる。「生きる」ということに値するだけの「何のため」を持っていない自分に気づかされるからだ。

 

●こうした中で、私には「何故なし」という考え方が大いに救いになるように思えている。前に描いたことと重複するが触れておくと、「十牛図」の著者の上田閑照は西田哲学の考えを取り入れ、もともと「自己」というあり方が場所的であると指摘していた。

 

●例えば「父親としての自覚」が生まれるということは、自分をでて、家族という場に自分を見出すことから生まれる。このように場に連関して自分を捉えることは、自分がどのような世界に住んでいるかということであり、そこに「なぜ」「何のため」という意味が生まれてくる。

 

●ただ親子の問題はその底に人間の問題を含む。そうすると今度は一人の人間、死すべきものと死すべきものとの関わりという場から「自己」を見出す必要がでてくる。こうして次々に底の底まで探っていくと最後にあらゆる区分けや対立を超えた場、つまりすべての形を超えた場に至る。

 

●そこでは「なぜ」を問い続けた意味連関の最後の底が探られる。つまり「何故生きるのか?」の答えとしての「役に立つため」に対し、また「何故」を問い続けていく。こうした底まで至った時、私は「なぜ」を問う必要がなくなる。そこには区分けや対立を超えた「今ここ」の流れがあるだけだからだ。

 

●ここで私は旧約聖書にある「ヨブ記」を思い出す。一点の罪も犯さないヨブは、神に試みを与えられる。ヨブは自分の正しさを主張し、「なぜ」こうした仕打ちを与えられたのかを徹底的に問う。あらゆる答えに納得せずなお「何故」を問うヨブの面前に神は現れ、その「存在」を感じてヨブは口を閉じる。

 

●私もまた今ここに生成の流れが「ある」のを感じる。だから今ここに与えられた時を生き、そして最後には死んでいくことができる。「何故」という理由がなくても、「今ここ」の実在に身を委ね、そこから生まれる想いを大切にしてこの世界を過ごしていいのだということは私に大きな喜びと安心を与えてくれる。

 

●私は、この「今ここの実在の流れ」を感じその流れに従うことによって、自分への断罪や無意味さに飲み込まれることなく生きることができる。私は思うのだが、もしこの「今ここ」が感じられなければ、今の世界や自分を崩す可能性のある「何故」「何のため」は問うことができないように思える。

 

 

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

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  • 発売日: 1971/06/16
  • メディア: 文庫
 

 

 

2020年

4月

28日

新型コロナウィルスの生み出すもの〜国という単位の限界

●緊急事態宣言の中、家にいる時間を使ってこの新型コロナウィルスが、私に、私たちに、そして世界に何をもたらすかをみて、感じて、考えようとしている。その影響は思ったよりも多くの分野に及んでいて、これからの私の生き方にも関わっているように思えるからだ。

 

●さて今朝テレビで「コロナ後の世界」について東京大学の藤原帰一さんが話されていた。私には彼が国際政治に「動乱」が起きているという強い言葉を使われたこと、そしてこの新型ウィルスが世界的に流行しているにも関わらず、国際協調が進んでいないと指摘されたことが印象的に残った。

 

●確かに私はコロナウィルスが発生した時、SARSやエボラウィルスと同様、WHOが対策をリードしてくれるイメージを持っていた。つまり国際的なスペシャリストを集め、科学的見地からその性質を解明し、適切な検査手法を開発し、薬やワクチンなどについての知見を各国に提供してくれるものと思っていた。

 

●しかし実際には今、各国が個別に対策を実行している現状がある。あのEUですら国際協調体制がとれていない。それは恐らくこのウィルス対策が検査・医療体制などの保健衛生面だけでなく、ロックダウンや休業補償といった社会・経済戦略にも関わっているからだ。つまりこれは政治的課題なのだ。

 

●そしてこの対策の良し悪しは感染による死者数だけでなく、経済状況・失業者数にも表れてくる。実際、国民の信頼を勝ち取りウィルス対策に成功している国もあれば、残念ながら対策に失敗して多数の死者と失業者を出してしまっている国もある。それでもなお「国」単位で対策するしかない現状がある。

 

●私にはこのことに危険を感じている。極論すれば良いリーダーの下では私たちの命は守られるが、ウィルスをフェイクと断じ全く対策を取らないようなリーダーの下では、命は危険にさらされる。自分の国が他国の成功例や知見を無視した合理的でない対策をとっても、私には防ぐ手がないのだ。

 

●またウィルスはこれまで世界が築いてきた国際的な供給体制を遮断してしまったが、これが「国」という単位をさらに重要にしている。マスクの世界的不足を皮切りに検査キット、医療機器、薬など「国を守る物資」を外国に依存することは、危険であるという考えが生まれているように見える。

 

●私はこうした国単位の考えは私たちを危険にさらすように思う。次は食料を含めたより多くのものが「国を守る物資」に思えてくる。そして国産化が進み、分業の利益が失われる。例えばより良い薬を、よりスピーディにより安く手に入れることは難しくなる。結果的にわたしたちの命は危険にさらされるのだ。

 

2020年

4月

24日

新型コロナウィルスと阪神大震災2〜批判する心

●この頃新型コロナウィルスの問題をめぐって、自分がいつもよりも批判的になっているなと感じている。国・行政の対策や識者の意見に対し、批判したい気持ちが起こる時がある。インターネットを見ていても、厳しい批判・非難をしている人が多数おられるのでこれは私だけの現象ではないのだろう。

 

●そして再び阪神大震災を思い出しているのだが、あの当時も政府の支援の遅さを指摘する論調はあった。しかし、今ほどの批判はなかったように思う。むしろ市民による助け合いの方が注目され、95年はボランティア元年と呼ばれたほどだ。今も同じ「災害」と言っていい事態なのに、なぜこれほど批判が多いのだろう。

 

●自分を省みて一つ思うのは、いまの私は「心のケア」が必要なほど不安が大きいことがある。震災の時も不安はあったが、基本的には「起きてしまったこと」だった。今はこれからますます酷くなるのではないかという現在進行形の、先が見えない不安がある。

 

●そしてこうした不安には向ける対象がない。そして自分一人でその不安をそのまま抱えることも難しい。だから不安を怒りや批判に変えて誰かにぶつけたくなる。例えば私はPCR検査の少なさを批判していたが、そのベースには、それによって自分が守られなくなるという不安とそこからくる怒りがあったと思う。

 

●また私が批判をしてしまう原因のもう一つは、私が政府や行政、医療システムに依存心を持ちすぎているからだと思う。阪神大震災では多くの建物や道路が被害を受け、インフラや行政機能がストップまたはパンクし、被災者に支援が行き渡らなくなった。こうなると誰かを批判するだけでは生きていけない。

 

●こうした中で当時は市民が協力し、まずは被災者の救出、そして避難所の運営、物資の配送、そして心のケアなどを自ら行った。行政も自らの限界を隠さず、必要なところは市民の力に頼り、協働を行なった。つまり政府や行政という公助に依存するだけではなく、自助・共助によって難局を乗り越えたのだ。

 

●この新型コロナウィルスに対応していくための政府・行政の役割は確かに大きい。各国政府の感染症対策はずいぶん違うし、その良し悪しで死者数も変わってくると言われている。しかし同時にコロナウィルスへの対応は、政府や行政による公助だけではできないことも明確になってきたように感じている。

 

●このコロナウィルスが蔓延する中で、いま国や行政、システムが提供できるものは、医療面でも経済面でも心理面でも私たちを支えるには十分ではない。そこには限界があるのだ。しかしこうした公助やシステムの限界に気づくに連れ、私の中で根強かった依存心が、そして「批判する心」が小さくなっている。

 

●そして今阪神大震災の時と同じく、公と協働して私・私たちにもできることがあるように感じている。例えば医療システムが崩壊するかどうかは市民行動の変容にかかっている。つまり今また自助・共助が必要になっていると感じるのだ。それはまず「家にいること」である。

 

●そして家族の中で悔いのないようにコロナに対処するための共通認識と行動規範を作ることだ。私の力の及ぶ範囲で在宅勤務などを提案していくことであり、10万円の有益な寄付先を探すことであり、そして不安に思う隣の人の話を聞くことだ。私には何かを批判している暇はないように感じる。

2020年

4月

21日

「何故」の力、「何故なし」の力2

●この「なぜ」「何のため」という問いは、時に私を断罪し、無意味さを感じさせる力を持つように思う。若い時私は、どうしてもやりたい仕事を見出せなかった。「何のため」に働くかに答えを見出し、着実に歩みを続ける友人を見て自分はダメだなと感じさせられた。

 

●今新型コロナウィルスのために家にいる時間が長いが、医療者の奮闘などを見て、ふと何の役にも立たない自分がふがいなく思えてくることがある。今この時間を「何のため」に過ごしているかという問いに答えることのできない私、つまり何の役にも立たない私に軽い絶望を覚えるのだ。

 

●こうしたことは過去にもあった。銀行を辞めて今まで生きてきた世界から落ちこぼれてしまったように感じていた時、平日の昼間から家にいる自分を責める私がいた。この文章にしても今「何のために」を問うと、誰も読まない文章なのに書く意味はあるのかと感じられ、やめてしまおうかなと思う。

 

●そして私を断罪し無意味さを感じさせるのは、特にこの「何故、何のため」という問いが「生きる」ことに向けられる時であるように思う。私のなかに社会や人に役立つこと、認められることが必要であるという考えがあるので、そうでなく生きている自分をゆるせなくなる。

 

●無意識のうちに自分に絶望し、生きる意味がないと断罪する方向に向かってしまうのだ。そしてこの問いは自分にだけでなく他者にも向かう。そうすると相模原事件のように「生産性のない障害者は生きる価値がない」などと他者を断罪する方向に向かってしまう可能性がある。

2020年

4月

17日

「何故」の力、「何故なし」の力1

●「なぜ」「何のために」という問いには、鋭利な刃物のようなところがあるなと感じている。とても大切で役立つ部分と、人の生きる力を削いでしまうようなマイナスの部分が同居しているように思えるからだ。例えば「なぜ」そうなるかを考えさせれば、子どもの論理的思考を伸ばすことが可能となる。

 

●また私が何かに取り組む時も、「何のため」にそれをするのかを意識することが大切だ。進路を探る際も、「なぜ」その道に進みたいのかをできるだけ考えることは必要だろう。また組織においても「何のため」に活動するかのミッションがないと人を引き付けることはできない。

 

●しかし一方、「なぜ」が連発されると、うまく答えることができず腹が立ったり、苛立ったりすることも事実だ。自分が失敗した行動について何回も「なぜ」という問いを畳み掛けられると、うまく答えられなくなるばかりでなく、自分が責められているような気がしてくる。

 

●それはたぶんこの問いには、既存の世界の前提や自分自身を見直し、時には崩してしまって、新しくする力があるからだと思う。例えば教育指導要領では学校で人を育てる際の教育目標として、知識・技能、思考力・判断力、学びに向かう力などが言われている。

 

●しかしこれらの目標はすべて「何を」学ぶかについてのもので、「何のために」は問われていない。言葉は悪いが、こうした力は犯罪集団においても必要とされる。つまり「何のため」にこの力を身につけさせるのかを問うた時、初めて本当にどんな人を育てたいのかが明確になってくる。

 

●このように「なぜ」「何のため」は、日常問われることのない世界の既存の前提を掘り起こし、目の前に晒し、時にはそれを崩して生成を生み出す力を持つ。しかしだからこそ私はこの問いを封印すること覚えてきたようにも思う。例えば受験勉強中に、「何故」を問うと、勉強どころではなくなってしまうからだ。

2020年

4月

14日

『十牛図〜自己の現象学』(上田閑照)を読んで5

●もう一点、この第八図の解説で私に役立つと思えたのは、「何故なし」ということである。上田は西田哲学の考えを取り入れ、もともと「自己」というあり方が場所的であると指摘する。例えば「父親としての自覚」が生まれるということは、自分をでて、家族という場に自分を見出すことから生まれる。

 

●場に連関して自分を捉えることは、自分がどのような世界に住んでいるかということであり、そこに「なぜ」「何のため」という意味が生まれてくる。そして親子の問題はその場だけに終わらず、その底に人間の問題を含む。そうすると今度は一人の人間、死すべきものと死すべきものとの関わりという場から「自己」を見出す必要がでてくる。

 

●こうして次々に底の底まで探っていくと最後にあらゆる区分けや対立を超えた場、つまりすべての形を超えた場に至る。それは禅の世界や西田哲学では色々な述語で呼ばれているが、私にはそれが前述の、形を生み出し維持し、変化させ壊していく力・流れとしての「今ここ」であるように感じられている。

 

●そしてこの底の底では、家庭の中での自己の意味<社会の中での自己の意味<人間としての自己の意味の場というように、あらゆる意味連関そのものの意味、最後の意味が問われる。しかし上田によるとここは意味空間ではあるが、もはや「なぜ」「なんのため」と問うことのできない。

 

●あらゆる形を超えた場では、意味を言葉という形で表現することはできない。しかし意味がないということではない。むしろ「今ここ」は実在としてあり、それを実際に感じ取ることができる。この存在に触れ、そこに充足を感じた時、私はもはや「なんのため」を問う必要がなくなるのだ。

 

●行動において「何のためにそれをするのか」というミッションや使命が重要だという考え方がある。私もそれは否定しない。しかし「何のため」を本当に突き詰めて考えて行った時、私は形を超えた「今ここ」の実在の流れに触れることになる。そしてそこには「何故なし」が出てくるように私には感じられている。

2020年

4月

10日

『十牛図〜自己の現象学』(上田閑照)を読んで4

●この十牛図という本の中で私が大切だなと感じるのが、第八図人牛倶忘」を巡る著者上田閑照の考察である。前に触れた第六図「騎牛帰家」のあと、第七図では自己が真の自己と一体になり、牛の姿が人のうちへ消えてしまう「忘牛存人」へと続く。

 

●これは一つの完成形のように思えるが、十牛図はここで終わらない。円の中に何も描かれていない第八図へと進んでいく。この第八図についての著者の解説で私がおもしろいと感じたのは、「形」をめぐる議論である。牛は一つの「形あるもの」の姿だが、それは自己が真の自己と一体になることで消えてしまう。

 

●同時に「完成した自己」も「形あるもの」として永続することはない。今ここの実在の流れは生成を生み出し、あらゆる形あるものを変容させていく。例えば身体、言葉、自然、世界など形あるものは常に有限性の中にあり、無限性と出会い、なおその形を永続的に保つことはできない。

 

●しかし全て形あるものを変容させていく「今ここの流れ」は常に「ある」。形としては描くことができないが、その形を生み出し維持し、変化させ壊していく力として、形と共に常にそこに「ある」。私にはこの第八図の円相はこうした「今ここ」の性質を描いているように感じられている。

2020年

4月

08日

新型コロナウィルスと私3

●外出自粛が続く中、健康を保つため毎日のようにジョギングをしたり、公園を散歩したりしている。もうかれこれ2ヶ月あまりも続けているのだが、特に最近自然の放つ一瞬の美しさに惹きこまれる体験が増えている。風にそよぐ花の白さに、またふと見上げた空の蒼さにハッとなるのだ。

 

●こうしたことが起こるのは、私の中である種の切迫感が高まっているからだと思う。緊急事態宣言が出され、また大阪で新規感染者が53人も出て、ついに近くの喫茶店でも感染が起こった。新型コロナウィルスはますます身近に迫ってきている。

 

●そして今朝はウィルスが家に侵入しようとしている夢を見て、早くに起きてしまい、ふと考えた。この病は伝染病だから、家族の一人が感染したら隔離されてしまう。悪化して死ぬ時も、死んでからも会うことはできない。すると、もしかすると大切な妻や子ども、母に会えるのは今日が最後かもしれない・・。

 

●ラボラトリーでも数日間「今ここ」に集中することで、世界がキラキラと光り輝くように感じる体験が起こることがある。またドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」にも癌にかかって余命の限られた人が、自然の一瞬の輝きを感じるシーンがある。この危機の中で私にもそうしたことが起きているのだ。

 

●確かにこのウィルスは怖い。しかし考えてみると、いのちは常に切迫したものだ。何をしても、次の一瞬のいのちを保証することはできない。それを日頃は日常の様々なことによって忘れているが、今はこのウィルスによって目の前に突きつけられているのだ。

 

●そして今このブログで生きるベースを再確認してきて良かったと感じる。切迫した危機の中にある今の私に必要なことを教えてくれるからである。それは「今ここ」に生きること、つまり「今ここ」にある実在を感じ、その流れがもたらすものを信じ委ね、心安らかに今できることに集中することである。

2020年

4月

06日

仕事がもたらす偽の安心感

●前回新型コロナウィルスの蔓延の中で、私たちは思ったよりも大きなストレスにさらされているのではと書いた。私は今、外出をできるだけ控えているが、先週だけは仕事がたてこみ、ほぼ毎日出勤をした。ところが週の終わりになって、思いもよらず精神的に楽になっている自分に気づいたのである。

 

●なぜこうしたことが起きたのだろう。いくつか思い当たることがある。まず感じたのは、非常に本能的なことである。単純に家から出て他の場所に行くこと、家族以外の人と会い話をすることそのものが、家に閉じこもっていたのでは味わえない刺激を与えてくれ、私を活性化したように思う。

 

●第二に自分の有用感を感じられたことがある。新型コロナウィルスへの対策の話し合いで、危機感を伝えることができ、それによって自分や人を大切にできる方向に影響を与えることができた。この危機の中で自分にもできることがあったと言う喜びを感じたのである。

 

●そして多分最も大きな要因として感じられているのが、仕事をする中で「日常」に戻ることができたことだと思う。いつものメンバーと話をしていると、仕事上の問題に意識が向く。それはそれで大切であり、また深刻なものもあるので、コロナのことばかり考えてられなくなる。

 

●つまり家にいて時間があると、新型コロナウィルスの情報が入ってくる。そして各国の惨状を映像などで見ると、ストレスは嫌でも大きくなる。しかし仕事をしているとそんな時間はない。一言で言うと、仕事をしていると今が非常時であることを忘れることができるのだ。何やら日常の安心感が戻ってくる。

 

●しかしこの安心感は幻想であり危険だと感じている。今が非常時であることを忘れさせ、現実に起きていることから目を背けさせる。意思決定において、従来の延長線上で考えつい甘い対応を取ってしまう。私は改めて非常時であることをきちんと受け止め続けることの難しさを感じている。

2020年

4月

02日

『十牛図〜自己の現象学』(上田閑照)を読んで3

私が十牛図で好きなのは、第六図「騎牛帰家」である。第四図であれほど緊張感を持って引きあった手綱は手放され、牛と人は一体になっている。人は牛に歩みを任せ、道をそれることをいささかも恐れていない。牛を信じ、委ねきっている。そしてその状態を賛美するように音楽を奏でる。

 

●昨年末に検査入院した時、私はふとこの第六図のことを思い出して励まされ、力を得ることができたことがある。今私はベッドから動くこともできず、ただ呼吸しているだけだが、それでも「今ここ」は刻一刻と流れ、私を導いてくれる。私はその流れを心から信頼し、委ねることができる。

 

●おそらく入院し、点滴に繋がれているという特殊な状況だったので、日頃よりも自分の「身体」を感じやすくなっていたのだろう。私には「今ここ」の実在の流れに委ねることが、「牛にまたがり一体として動く感覚」に非常に近く感じられた。そのためこの図は私にとってとても慰めとなったのである。

 

●この図はまた私にとって、有限性(この身体)が無限性(この身体を超えたもの)に出会った時にどうしたら良いかを示唆してくれるものでもある。「今ここ」の実在の流れは生成を生み出すが、この生成には身体が変化していくこと、つまり死も含まれている。こうした死と生を超えたものに直面することは私にとっては非常な重荷になる。

 

●この重荷は私をこの世における安心や暖かさの中に止まらせてくれない。私は怖さや緊張、冷厳さ、ズンとした重さを感じる。それでも私はこの十字架を一人で背負うしかない。しかし仕方なくそれを背負った時、私は恐怖や苦しみを乗り越え、牛の背にまたがり、委ねることができる。

 

●日常において私はこの十字架を背負いきれず右往左往している。今もまた新型コロナウィルスという危機によって、この身体という有限性は脅かされ、私は心騒いでいる。しかしこうした危機だからこそ、牛にまたがり心を安らかにして、今できることに集中していたいと感じている。

2020年

3月

31日

新型コロナウィルスと阪神大震災

●この新型コロナウィルスの広がりのなかで、今阪神淡路大震災のことが思い出されている。なぜこのタイミングでと自問してみたのだが、それは恐らくあの震災で起きたことが、このウィルスによって起こっていることと似ている部分があり、今の私(私たち?)にとって大切であるからだと思う。

 

●思い返してみると、あの震災の中で広く使われるようになった言葉に、「トラウマ」「PTSD」「心のケア」がある。私もあの時、「心のケア」の活動に参加したが、近親者を失った被災者の心の傷は深いものがあった。また直接の被害者でなくても、例えば映像を見る中で心理的にしんどくなった方も多かった。

 

●こうしてあの時のことを思い返すと、今私(私たち)には「心のケア」が必要とされているように感じる。徐々に感染が広がる中、私は感染への恐怖に苛まれ、安らかさを失うことがある。家族が感染したらどうしようと気が気でない。真綿で首を絞められているような息苦しさを感じる。

 

●高齢者の致死率の高さが言われているが、身近に感染者が増える中で、高齢の母はどれほど怖いことだろう。母は初め、高を括っていたが、徐々にウィルスのもたらすものに直面せざるを得ず、日常の友人との付き合いも制限され、その結果軽いうつ状態が現れている。

 

●震災の時「自分だけが助かって」、「周りの人を助けられなかった」と自責の念を抱く人が多かった。このウィルスでは、無症状の若い人が知らないうちに高齢者にうつすリスクが言われている。もし私や息子がそうなり母が感染したら、その罪責感はどれほどのものとなるだろうか。

 

●日々コロナの報道がなされているが、各国で医療現場の厳しさや惨状が伝えられ、私は映像でショックを受けている。また自粛によって私も毎年行ってきた研修などが中止になっているが、これによって生活が脅かされている人たちもいるだろうと思う。今私(私たち)は自分が意識できるよりもよほど大きなストレスにさらされていているのだと感じている。

2020年

3月

27日

『十牛図〜自己の現象学』(上田閑照)を読んで2

●私が「今ここ」の性質をよく表現しているなと感じるのは、第四図で牛と人との間の綱がピンと張りつめた緊張感に満ちた場面である。人は決して牛を離すまいと、必死で綱を引っ張っている。人が牛を御そうとしているわけだが、しかし見方を変えると逆に牛に引っ張られているとも見える。

 

●心牛は自分の足跡、そして姿を見せ、自分を追いかけさせ、そして自分を追いかけるものが逃げないように、そして方向を導くように綱を引っ張る。私自身の体験でも、「今ここ」の実在は知らない間に姿を現し、水圧を感じさせて逃げられないようにし、そこにどう対応していくかを覚えさせる。

 

●私はいつの間にか「今ここ」の実在の流れから起きてくる感じや気持ち、思いを大切にして生きることを覚える。そしてこのことこそが私を、他の誰でもない私にしていく。つまり今ここを大切に生きることで「私が私になる」のである。この視点からすると、私は自分の力で「私になる」のではない。

 

●一方それも人が決して牛を離すまいと決意し、綱を引っ張るからこそとも言える。私には行者の知人がいて、いつもその方が修行をするのを見聞きして、それが「私になる」のに必要なのであれば、とても私には無理だと感じていた。しかしこの図を見て、これは視点をどこに持つかの問題なのだと気づいた。

 

●つまり人の視点から見れば、あくまで「行」が重要であり、修行を続けることが牛を御していくために不可欠のものと捉えられる。そこには「自力」が必要とされる。しかし逆の視点から見ると、牛に引っ張られる、つまり「今ここ」の促しという「他力」によって私になっていく。

 

●そして私は聞きおよぶような修行は決してできないし、「今ここ」でしたいとも思わない。だから「今ここ」に導かれるまま生きていきたいと感じている。ただそのためにこそ、「今ここ」を見失わないようにし、それがどこに向かおうとしているのかを感じ取ることは忘れないようにしたいと思う。

2020年

3月

25日

『十牛図〜自己の現象学』(上田閑照)を読んで1

●これまで書いてきたように「今ここに起きてくる実在」の流れにこそ、私が生きるベースを求める上での鍵があると感じられている。ところで映画「シンドラーのリスト」でも感じたことだが、私には様々な文学や映画において「今ここ」が描かれている作品がたくさんあるように思う。

 

●もちろん「今ここ」は名前をつけられるものではないし、直接さし示すことはできない。しかし例えばシンドラーの生き様を通じてそれが表現されうる。逆にいえば「今ここ」とは何か特別なものではなく、この私たちの日常の世界に満ち溢れているものと言えるのかもしれない。

 

●最近『十牛図〜自己の現象学』(上田閑照著)を読んだのだが、この「十牛図」がそうした「今ここ」の性質を上手く示してくれているように思う。「十牛図」とはとても古くからある禅の手引書で、求められている「真の自己」が自己実現の途上において牛の姿で表されているものと言われる。

 

●つまり自己が真の自己になる自覚的な経験が、野牛(真の自己=心牛と言われる)をつかまえて、飼い慣らしていく十の図に描かれている。この十の図はホームページなどで公開されている。例えば https://biz.trans-suite.jp/27101

(出典:Wikimedia Commons User:MichaelMaggs

 

●この十牛図はまず見失われた心牛を探し求める「尋牛」の図から始まる。「なくてはならぬ唯一のもの」を見失っていることに気づき、驚いて探し求め始めるが、どこに求むべきか、それは何かまだわからない状態である。自己でありながら自己を見失うという問題がここにはある。

 

●そして第二図は「見跡」、牛の足跡を見つける図だ。師や教えを聞いて真の自己についての見当がつく。しかしそれを頭でなく、身の上に実証していく必要がある。それが行である。そして行の中でその牛を我が身に実地にみる(第三図 見牛)。そして飼い慣らしていく(第四図 得牛)。

 

 

十牛図―自己の現象学 (ちくま学芸文庫)

十牛図―自己の現象学 (ちくま学芸文庫)

 

2020年

3月

23日

新型コロナウィルス危機と私2

●この一週間ほどの間に新型コロナウィルスがイタリア以外にも、イラン、スペイン、アメリカ、フランスなどに広まってきている。患者数の急増に伴って医療のキャパシティを超えてしまい、適切な治療を受けられない人も出てきていると報じられている。

 

●日本では一見感染者数が抑えられていて、事態はそれほど深刻でないように見える。実際、昨日NHKの番組を見ていて専門家集団が不眠不休でクラスターの把握につとめ、感染が爆発的に増えるのをコントロールしてくれている現状を知り、本当にありがたいと思った。

 

●しかし同時にその専門家の方が今、感染ルートがわからない感染者が徐々に増えつつあり、いつ爆発的感染が起きてもおかしくないギリギリの状況にあると警告をしている。そして一旦それが起きてしまうと、今世界各国で起こっているような医療崩壊が起こりかねない。

 

●また私がショックだったのはこのウィルスはもう封じ込めることはできないという専門家の見解である。例えばアメリカの研究機関は対策がある程度取られても少なくとも数百万人以上の人が罹患すると予測している。高齢者の致死率は10%を超えるから、いったい何人の人が亡くなることになるのだろうか。

 

●このようにクラスターの連鎖によっていつ爆発的感染が起きても不思議ではないこと、つまり日本は今時限爆弾を抱えているような現状にあることを、私は心から怖いと思う。自分に大きなストレスがかかっているのがわかる。これが起きてしまえば、日本でも数百万人の単位で感染することになるだろう。

 

●私の家族には高齢者、高血圧の者がいるが、今言われている致死率からすると全員生き残れる確率は75%しかない。またこうした疫病であるゆえに、病気になった途端隔離され見舞いもできず、死ぬときも一人で死ななければならない。イランで見られているように、家族を自分たちで埋葬できないかもしれない。

 

●こうした中で私に必要なのは、この事実から目を背け、恐怖に打ちひしがれることではないだろう。必要なのは心安らかに、今私ができることに集中することだ。具体的には感染速度を遅らせる時間稼ぎをするために、今専門家が勧告してくれていることが実行されるよう自分と他者に働きかけることである。

2020年

3月

19日

3年ぶりのTグループのメンバーとの出会い

 

●先日、3年前に南山大学人間関係研究センターの「Tグループ」という講座でご一緒したメンバーがオンラインで集まる場に参加した。私はスタッフという立場で参加していたにも関わらず、わざわざお声がけいただいたのも嬉しかったし、お一人お一人のお声を聞けたのも嬉しかった。

 

●話は多岐に及び、それぞれのこの3年の来し方を教えてもらったりしながら2時間あまりの時が過ぎていった。そして私はその会話の中で、気持ちや想いを正直に出して大丈夫な感じ、それを受け入れてもらえる安心感を感じていた。また何人かのメンバーもそれを表明された。

 

●これは恐らく3年前のグループで培ったベースがあるからだろう。思い起こしてみるとあの時、それぞれの方が今ここで起きる気持ちや想いを、感性を研ぎ澄まして感じ取り、言葉にして伝えあった感じが私にはある。そうした中で、それぞれが「今ここ」に「あるもの」の存在を感じとっていたように思える。

 

●これは私が感じることだが、2人以上の人が今ここに「あるもの」を感じそこに触れながら話をする時、とても大切な時であると感じる時がある。もちろん今ここでのやり取りは、体験からの学びによって互いの成長をもたらすのだが、そうした「何のために」を超えた厳かな充足感が生まれるのだ。

 

●これは決して言葉にはできない。ただこのグループではあるメンバーが最後に「他者なのか私なのか、過去なのか未来なのか」という独り言を言われた。この言葉だけではもちろん何も伝わらないが、その場にいて「今ここ」を感じている私には、それがその場に「あるもの」を指した言葉だと理解できた。

 

●それは私と他者の「あいだ」にあり、一人一人が「今ここ」に生き、関わった時に、その実在を感じ取れる。そして一緒に「今ここ」の実在に触れたこの体験は、その人を大きく変化させていくように思える。それは「何のために」を超えた、その人が本当にその人になっていく方向での変化だ。

 

●前述の3年前に「他者なのか私なのか、過去なのか未来なのか」という独り言を言われたメンバーから、その後、アートセラピーを学び実践していると聞いた。そしてこのアートとは人と人との「あいだ」にあるもので、それが3年前のグループで場を感じとったことに関係していることを教えてくれた。

 

●この場に参加して、私は何人かのメンバーが、私が感じていた「今ここ」の実在を共に感じてくれていたのだという確信を持てた。そしてこれからももし機会が与えられれば、一緒に「今ここ」に「あるもの」、その実在を共に感じられるような場を持てればと願っている。

2020年

3月

17日

新型コロナウィルス危機と私

●今新型コロナウィルスが世界で猛威を振るっている。ヨーロッパで感染者、死者ともに急増し、外出や移動の制限や国境封鎖、集会の禁止などの措置が取られている。まさに一ヶ月前には世界の誰もが想像できなかったような状況が起きている。

 

●中でもイタリアではあまりにも患者が急増したため、生き残る可能性の高い患者を優先して治療するトリアージが行われていると報じられている。余命が長いもの、治る確率の高いものに医療リソースを集中するのだ。そしてこのことはすなわち、余命の短い高齢者が見捨てられることを意味する。

 

●こうしたニュースに接すると、選択をしなければならない医療者はどんなに辛いだろうか、また見捨てられる患者の家族はどんな気持ちなのだろうと思ってしまう。そしてそこに住む人々、とりわけ高齢者や基礎疾患のある方はどんなに恐ろしいだろうと想像してしまう。

 

●また私が情報収集する限り、こうしたヨーロッパで起こっていることが、日本で起こらない保証は何もないように感じている。楽観的観測も伝えられているが、このウィルスが報じられている通りの性質を持つなら、いつかのタイミングで日本でも流行と呼べるものが起きざるを得ないように思う。

 

●こうした中、今私には色々な気持ち・感じ、反応が生じている。一つはこうした事実や知見を歪曲して軽視したい気持ちである。データを直視しないで根拠なく「大丈夫だ」と思いたくなる。多分これはあまりにストレスが高くなりすぎたため、脳が防御しようとするからだろうと思う。

 

●もう一つは、自分が揺さぶられる感じである。日頃しているラボラトリー、研修、勉強会などが全てキャンセルとなり、改めて自分が何者でもなく、何の役にも立たないように感じている部分がある。なんだかんだ言ってもそうした自己概念の部分で自分を保っていた私があるなと改めて感じている。

 

●さらには恐怖心やもどかしさである。私は80代後半の母と同居しているが、私自身が感染源にならないようにしたいと強く願っている。しかし当然そのリスクはゼロにできない。だからちょっと咳が出ただけで、大丈夫かと怖くなる。それなのに母が平気でリスクを冒すのを見て、もどかしく感じている。

 

●こうした中、いま改めて今年の初めに病の中で立てたねらいの言葉を思い出し、慰めを得ている。それは次のようなものだ。「見通しのつかない変化(来年があるかわからない)の中で、今ここを安らかに信頼することに力がある。そして今ここでできることに集中する」。

 

●こうした危機の中でも、私には「今ここ」の実在の流れが与えられている。そしてこれまでもそうだったように、私にはこの「今ここ」の流れに従い、委ねること以外に、生きるベースはない。このベースに立ち返って初めて、私は心安らかに、いま起きている現実に対処できると感じている。

2020年

3月

14日

『すばらしい新世界』(オルダス・ハクスリー)2

●もちろんこの本はユートピアではない。ハクスリーは世界統制官にこの社会が幸福と安定性を保つ代償として、芸術、科学、宗教、自由などをすべて犠牲にしていることを告白させている。そして私にはこの社会は、私が生きるベースとしている「今ここの実在の流れ」を覆い隠しているように見える。

 

●この社会は変化を極度に恐れ、「今ここ」に現実に「あるもの」を見ようとしない。ここの住民は一人で月を、海を眺めることをよくないことと考える。そこで生まれてくる「今ここ」の気持ちや感じを恐れているのだ。また人と関わる時も快いことが大切とされ、「今ここ」の気持ちや感じを大切にはしない。

 

●「今ここ」を大切にすると、関わりの中で自分と他者はそのあり方を変えられてしまう。そして最終的には社会の変化をもたらす生成を生み出す。だからこの安定と幸福を何より大切にする社会は、徹底して「今ここ」という実在が存在することを覆い隠し、人々がそこに生きることを妨げようとする。

 

●この社会において、人は生き死ぬベースとして条件付けとソーマ、快感などの感覚に頼っている。しかしそれは「今ここ」という実在を見ないようにする生き方である。だから、ふとした時に垣間見えてしまう現実にある恐れや不安、想いをなくすことはできない。それは私にとっては生きるベースにはならない。

 

●この物語は私に、極度の安定と幸福に拘泥することは、現実を見ないようにすることにつながり、「今ここ」の実在を覆い隠し、結局は人も社会も無意識的なより深い恐れや不安に取り憑かれてしまうことを教えてくれる。そしてそうした社会を保つためには、最終的には強制的圧力が必要となる。

 

●これからの時代、薬物による「生化学的な幸福」が社会に広がっていくことは避けられない流れかもしれない。私もそうした流れに逆らうことはできないだろう。しかし私はそれが私の生きるベースである「今ここ」の実在を覆い隠す働きを持つことを忘れないでいたい。

2020年

3月

12日

『すばらしい新世界』(オルダス・ハクスリー)1

●以前から『すばらしい新世界』を読みたいと思っていた。それは『ホモ・デウス』などを書いたユヴァル・ノア・ハラリが、未来社会を考えるヒントになる本として紹介していたからである。そして実際に読んでみて、私はこの本には「今ここ」とは何かについての大切なポイントが書かれていると感じている。

 

●ハラリは「幸福への鍵を見つけること」が21世紀に人類が取り組むプロジェクトの1つであるとし、薬物による「生化学的な幸福」がこれからの社会で広がっていく可能性があると考えている。そしてこの『すばらしい新世界』はまさにそうした社会が描かれている。

 

●ハクスリーは西暦2540年、いくつかの悲惨な戦争(自由主義的価値観がもたらした)の後に生まれた、安定と秩序・幸福を最大の価値としている社会を描いた。この時代、人間は壜を使って「生産」されていて、壜の中にいる時から成長過程すべてにおいて、社会に適応するように操作・教育されていく。

 

●人間は統治する人、働く人など階級に分けて生産され、その階級で幸福を感じるように徹底的に条件付けされる。またいつも皆と一緒にいること、楽しく気晴らしをすること、フリーセックスなど感覚的な快感を良いこととし、一人でいて感じ考えること、異性を自分だけのものと思うこと等を「悪徳」とする。

 

●それでも落ち込み、嫌な気分になる時は、副作用のない「ソーマ」を数グラム飲むだけで「幸福」な気分になる。衛生管理は完璧で老いも克服され、60歳でポックリと死ぬまで皆、若々しさが保たれている。死も恐れる必要のないものとして条件付けされる。この社会を統括する世界統制官は言う。

 

●「今の社会は安定している。みんなは幸福だ。欲しいものは手に入る。手に入らないものは欲しがらない。みんなは豊かだ。安全だ。病気にもならない。死を怖がらない。激しい感情も知らなければ老いも知らない。強い感情の対象となる妻も、子供も、恋人もいない。しっかり条件付けされているから望ましい行動以外は事実上取れない。何か問題が起きた時はソーマがある。」

 

 

 

 

2020年

3月

10日

シンドラーのリスト

  • 空き時間を利用して録画してあったスピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』を見た。シンドラーはナチスドイツの虐殺からユダヤ人を救った人として有名だが、映画では戦争を利用して成り上がる野心家として描かれている。これは以前にも見たことがあったが、今ふと見返してみたくなったのだ。

 

  • この映画に私が惹かれるのは、主人公シンドラーと彼に与えられる「今ここ」との関係が非常に繊細かつ明確に描かれているからだと思う。シンドラーは賄賂を使いナチスの許可を得て、軍需物資を作る工場の経営者として成功する。その際ユダヤ人の足元を見て資金を出させ、賃金の安いユダヤ人を雇い入れる。

 

  • また女性関係も派手で、社長室で昼間からしたいようにしている。そして最終的には大きなトランクいっぱいの宝を持って帰ることを夢見ている。彼は決して人を助けることを使命として感じるようないわゆる善人ではなく、むしろ道徳的には悪人と言っていいような人だ。

 

  • しかしナチスのユダヤ人迫害がエスカレートする中で、工場の従業員が殺され、また共に工場を立ち上げてきた番頭格のユダヤ人が収容所に送られようとする。その中で徐々に彼の中に「今ここ」が育ち始める。最初は、「工場のため」と言って、リスクを冒して番頭を救い出す。

 

  • その後ゲットーでのユダヤ人の虐殺を目撃したりして、彼の「今ここ」は大きく育ち始める。シンドラーはユダヤ人を救う行為を行うようになるが、そこにおいてもこの行為は彼には善行とは捉えられていない。彼はただそうせざるを得ない、他に仕様が無いものなのだ。

 

  • そして最終的にシンドラーは軍需工場という立場を利用してナチスを騙し、自らの破滅というリスクを冒して、何千人ものユダヤ人を虐殺から救う。その人々からの深い感謝を受けながら、しかし彼は「もっと救えたのに」と泣き叫ぶのだ。

 

  • 私はこのシンドラーに「今ここ」に変えられていく一人の人の姿を感じる。その人がどんな人かは関係なく、今ここはある時与えられる。初めはそれを意識できず、うまく関われない。しかし徐々にその力は大きくなり、その促しによってそうせざるを得なくなる。

 

  • そして最終的にはシンドラーの意志でそのことは行われる。今こことシンドラーの意志はここで完全に一致する。ただ本人にとってそのことは何ら誇るべきものを持たない。なぜならただ与えられたものに従っただけだからだ。そしてそれが多くの人を生かすことにつながるのだ。

     

    シンドラーのリスト(字幕版)

    シンドラーのリスト(字幕版)

    • 発売日: 2013/11/26
    • メディア: Prime Video
     

     

2020年

3月

06日

病の生み出す新しい私

●今新型肺炎への対処で、いろいろな勉強会やTグループが中止になり、ぽっかりと時間が空いている。そして今後残された時間をどのように過ごしていきたいのかを改めて探っている。こうしたことを考える上で、この3ヶ月くらいの病の経験から生み出された新たな私を理解することが大事だと感じている。

 

●これまで私はラボラトリーでは自分の身体に負担をかけることを厭わないことが大事と思っていた。例えば良いものを作るために夜遅くなることを受け入れてきた。しかし直近のラボラトリーではこうした思いを捨て、自分の体を大切にラブに臨み、それでも参加者は豊かな時間や学びを得たように感じる。

 

●また病を経た私は関わり方においても変化しているように感じる。ラボラトリーの勉強会に行くかどうかでも、これまでは他者の期待や評価を少し意識して、無理しても参加していた時があった。しかし今は、家族に新型肺炎をうつさないため行かない、と今ここで大事にしたいことを躊躇なく選択している。

 

●またある人からラボラトリーのことについてのメールが来た。これまでの私だったら「返事をしないのは失礼だ」と考えて何らかの応答をしたと思う。しかしその方のメールの言葉は私の中にブラックホールにように吸い込まれ、応答すべき言葉が一切湧いてこない。それで返事をしないという選択をしている。

 

●おそらく私は病を経て、なりふり構わなくなっているのだろう。本当に今ここから出てきているもの以外は捨て去るしかなくなっている。自分の身体に余裕がないので、真の今ここ以外の雑味の部分(他者や自分の評価、社会的な礼儀・・)を捨て去るしかない。これは病が生み出してくれている新しい自分だと思う。

2020年

3月

04日

新型コロナウィルスと今ここ

●新型コロナウィルスが日本において流行しはじめている。昨日は家の近くのビルでも患者が発生し、私にとっても他人事ではなくなっている。特に私は高リスク(致死率が20%をこえるといわれる)の80代後半の母親と同居しているので、万一にも私からうつさないように気をつけている。

 

●ところが昨日、母は地下鉄に乗って梅田まででて、日常通っている囲碁教室に行ってしまった。閉鎖空間の危険性をあれほど伝えたにもかかわらず、である。私は少しがっかりしたが、ふともしかすると今私たちには「正常化バイアス」が生じているのではないかと気づいた。

 

●災害時に脳は3つの段階を経ると言われている。第一段階は否認である。9.11テロが発生した時も、ビルにいた人たちは避難を先延ばしし、非常に鈍い行動をとったことが知られている。そこには現実に対する奇妙な無関心があり、いのちを守る行動ができなくなってしまったのだ。

 

●こうした事が起こる理由として「正常性バイアス」がある。何か起こるたびに反応していると精神的に疲れてしまうので、人間にはそのようなストレスを回避するために自然と脳が働き、心の平安を守る作用備わっている。これによって非常事態であるにもかかわらずその認識が妨げられてしまう。

 

●日々新型コロナウィルスがじわじわと広がっていること、しかも高齢者にとって危険であることが報道されている。こうした中で母が過度のストレスを避けるために、正常化バイアスという防御をしても不思議ではない。実際彼女は、高齢の囲碁友だちが、皆元気でぴんぴんしていたことをとても喜んでいた。

 

●こうした正常化バイアスは今、母一人ではなく多くの人に起こっているように感じられる。しかしこれが行き過ぎ、日常と同じ行動を皆がとると、感染リスクを増やし、新型コロナウィルスを早期に押え込む可能性をなくしてしまう。だから今こそ自分がそうした心理状態に陥っていることに気づき、対処する必要がある。

 

●災害心理学によると緊急時は感情(扁桃体)が理性に勝り、現実に起こっていることを受け容れられなくなることがある。つまり恐怖心が強くなりすぎて行動につながらなくなる。これが正常化バイアスにつながる。こうした時に一番有効なのが「今ここ」の呼吸を意識し、深くゆっくりと息を吸うことだ。

 

●呼吸は体神経と自律神経を橋渡しするので、感情を統制できるようになると言われている。その上で、もしかかってしまったら、とかこうしなければよかったとか、未来や過去に煩わされないことだ。つまりありのままを見て、起きていることを否認せず、今できることに集中することである。

2020年

3月

02日

今こことしての私

昔銀行員であることを辞めた時、名刺を渡せないことをショックに感じたことがある。私はその時、「・・銀行の博野」ということに価値を感じ、それが「私」であると信じていたのだと思う。私は自分が所属している組織、過去の経験、行動を認識し、「私」を銀行員、○○大学卒・・・などととらえていたのである。

 

つまり私を何かを持っている私、つまり「何者か」ととらえていた。しかし前述の「水圧を感じる体験」が、自分にも他の人にも日常的に生じているごく普通の体験であることがわかってきてから、その「私」のとらえ方はかわっていったように思う。自己の捉え方が変えられたのである。

 

この「水圧」の具体的な形としての気持ち、想い、体の感じは、私の意志とはかかわりのないところで今ここに生まれてくる。またある状況を打開するのに必要な「水圧」はいつも私に与えられるわけではない。それは他の誰かに与えられることもある。またいつ生じるか予測もつかないし、望む時に与えられるわけでもない。

 

こうした体験においては、自分のことを例えば「管理職」とか「研修のスタッフ」という風に、私がもっているものでとらえることは、ほとんど意味がない。むしろそれは自意識過剰をもたらし、例えば自分がグループをなんとかせねばといった間違った方向に私たちを導きかねない。

 

こうした自己概念は「今ここ」で「水圧」を感じ、従うことを阻害しかねない。こうして私は、何かを持っている私、「何者か」であることが自分であるとは考えないようになった。これは自己についての物語にすぎず、私そのものではない。それでは私とは一体何なのか。

 

考えてみると今ここの実在の流れ、具体的には、何かの気持ち、想い、体の感じは、私の意志を超え、私に与えられる。そしてその「水圧」が私や私たちを導き、関係やグループを成長させる。つまりそれを大切にすることが、自分も他者も大切にすることになる。

 

そうであるなら、その時々に「今ここ」で生まれてくるもの、例えば感じや気持ち、想いこそ、私ではないだろうか。つまり私とは、私についての物語や自己概念ではない。むしろそれを変容させる力を持つ「今ここ」こそ、真に実在するありのままの私だと捉えることができるだろう。

 

しかしこうした私は、自らの意志では生み出すことはできない。私とは「今ここ」の流れの中で刻一刻と与えられている存在であり、自分を超えたものによって生み出されている。私はこのように「自己」を徹底した受動性の中で理解するようになっている。

 

2020年

2月

28日

ラボラトリートレーニングと今ここ

こうした「今ここの実在の流れ」について私は、ラボラトリートレーニングからより深く学んだように思う。前述の銀行員時代に、私は今ここで与えられる「水圧」のようなものを感じ、電話相談のボランティアをしていたことがあるが、その時ラボラトリートレーニングに出会った。

 

しかしラボラトリートレーニングの体験を重ねるうちに、こうした「水圧を感じる体験」は決して私一人にあるものではなく、多くの人が感じている比較的ありふれたものであることがわかってきた。むしろそれはあまりにも当たり前の何気ないものなので、あまり注目されないことの方が多い。

 

例えばグループの中で、いまここでグループの誰かが「ふと感じて言いたくなったこと」を伝えてくれ、グループが思わぬ形で展開することがその典型である。本人はその「今ここの実在の流れ」による水圧を意識化していないが、実際にはその「水圧」に従うことで関係性やグループが大きく進展している。

 

ラボラトリートレーニングでは、人為的に権限関係や社会的ルールなどが全くない状態、つまり社会的真空状態を作り出す。そのため参加者はこれまでに培ってきたかかわり方のパターンでは対処することができないことが多い。つまり自己や世界の物語を再検討せざるを得ない状態に置かれる。

 

そこでフルに自分の中を探り、新たなかかわり方、反応の仕方を探ることが起きる。その中で、自分が「いまここ」で伝えたい、かかわりたいことへの感受性が高まっていく。ある時、私は「今ここの実在の流れ」の力を確かめるために、ラボラトリーの中で一つの実験を意識的に行った。

 

それはグループの中でそれぞれのメンバーについて「今ここ」で感じていることを、フォーカシングの方法を使って言葉にし、そして「水圧」を感じたら、つまり伝えたい気持ちが生まれたら、それを率直に相手に伝えるというものであった。そしてそれは驚くべき効果を上げ、グループを進展させたのである。

2020年

2月

24日

私一人の道を歩む

このようにいま私は生きるベースを求める上で、私や世界についての物語を変容させる「今ここに起きてくる実在」の流れが大切であると感じている。つまり今ここの流れこそが私の生きるベースになりうるのではないかという仮説を持っている。

 

考えてみると私は「今ここに起きてくる実在」の流れによって導かれてきたように思う。初めてそれに気づいたのは、最初についた仕事を辞めた時のことである。20代の頃私は銀行員をしていて、安定した収入を得ているエリートサラリーマンとしての自己概念を持っていた。

 

また当時銀行が経済の血液の役割を果たしていると思っていて、仕事自体には必ずしも違和感を持っていなかった。ただふとした時、私の中からこうした生き方をしていていいのだろうかという想いが湧くことがあり、それは時間が経つに連れ、ますます強いものになっていった。

 

それは水圧のようで常に私に何かを迫ってくる。しかしこうした体験は、簡単に人に言えるものでもないので、自分一人の胸に納めておいた。それで私はその「水圧を感じる体験」が、私一人に起こる異常なものなのではないか、さらにそれは何か危険性を秘めているのではないかと疑いを持っていた。

 

このように私は当時、そうした「今ここの実在の流れ」に対処する方法を知らなかった。だから私はこれまで私が作ってきた安定した世界を守ろうと、「今ここ」と葛藤を繰り広げ、心理的に疲れ果ててしまい、自分を傷つけたい気持ちが起こることもあった。

 

こうした中、父がガンにかかり、それをきっかけに私は銀行員を辞めることになった。これによってこれまで築いてきた私の自己の物語は崩れていくことになった。例えば偏差値教育の影響もあって、私には銀行員として生きることが社会的地位もあり、たくさんの人が通る広々とした道に見えていた。

 

だから銀行を辞めた時、優秀な友人たちがいる世界から一人落ちこぼれた感じを受けた。また銀行の時は病であっても出勤することが当たり前だったので、無職になって平日の昼間に家にいることに長い間罪悪感を感じた。与えられたものをこなすことが身についていて、誰からも課題や仕事を与えられない状況に慣れることができなかった。

 

しかしその中で私は徐々に私一人の道を歩みだした。フリーで仕事をし始めてしばらくすると、平日昼間に家にいることに対して罪悪感をひとかけらも覚えることもなくなった。課題や仕事を作るために企画し、自分から動くことの面白さも覚えた。

 

昔の自分を思い出す時、いかに自分がその当時作っていた自己についての物語に縛られていたかに気づかされる。今から考えればその罪悪感やエリート意識は、私がその当時属していた集団のもつ物語に同化し、そこから生まれていたものだったのだとわかる。

 

そして気づくと、「今ここ」と葛藤を繰り広げ、心理的に疲れ果ててしまっていた自分はどこにもなかった。そして銀行をやめるという選択に対し、身体はスッキリした感じ、間違っていない感じを持ち続けていた。私は私という物語を守ろうとして「今ここ」と葛藤することをやめ、それに従い私一人の道を歩むことを学んだのである。

2020年

2月

13日

 今ここと自己という物語の変容

さて私が何のために、何を大切にして、どのように生きていくのかのベース、「私が生きる知」を探求する上で、今ここにある実在に裏打ちされた言葉で語られた物語かどうかを見分けることが大切であることを考えてきた。私は実在のない恣意的な言葉で語られる物語に注意する必要がある。

 

ところでもう一つ注意が必要と思えるのが、こうした実在に裏打ちされた言葉で語られる物語は常に変化しうるということだ。新たな経験によって常に新たなフェルトセンスが今ここに生起し、その象徴化によって自己の物語、そして世界の物語は塗り替えられていく。このことは何を意味するだろうか。

 

一つはこの世界の中で私が「何のために」、「何を大切に」「どのように」生きるかのベースを求める過程には終わりというものがないということだ。新たな経験によって自己や世界の物語は変化するから、生きるベースもまた変化する。この物語には完成形はなく、常に経験に開かれている。

 

もし世界や自己についての物語が閉じられたもの、変化しないもの、つまりは究極のものと主張されたなら、その世界は非常に危険だということだ。私をその世界に閉じ込め、エージェント状態に貶める可能性を持つ。そしてその物語は今ここの実在に裏打ちされていないだろう。

 

逆に言えば常に変化することだけが変わらない。世界や自己の物語は、新たな経験の中で今ここで新たに起きてくる実在によって常に塗り替え続けられる。だから私には物語の中味と同様、「今ここに新たに起きてくる実在」の流れこそ生きるベースを求める上で鍵になると感じられている。

2020年

2月

08日

物語と「今ここ」

これまで書いてきたように物語は可塑的であり、悪意のある共同体によって悪用される危険を持つ。『ホモデウス』の中でハラリが述べたように、自己も含めた世界は全てフィクション(虚構)の物語であると捉える人もいる。それではこうした物語は全て捨て去るべきものなのだろうか。

 

本当に世界や自己という物語が全て、虚構に過ぎないのであれば、生には何の意味も、価値もなくなるだろう。歴史は編纂できず、どこに向けて歩みを進めることもできなくなる。私が何のために、何を大切にして、どのように生きていくのかのベース、つまり「私を生きる知」を学び問うのも絶望的となる。

 

ところで先日私は、生きるための知を理解するために「身体の知」ということが大切になることを書いた。つまり私には一つの経験の中で今ここに起きてくるフェルトセンスを身体の知を使って自己概念に取り入れるということが可能である。このことは何を意味するのであろうか。

 

それは物語には二種類あるということを示しているように思われる。経験の中で生まれるフェルトセンスは実際に今ここに存在している。私はその実在を感じることができる。言葉やイメージ(象徴)として象徴化する際も、その実在に触れて、「それは違う」、「そうそう」と区分けすることができる。

 

そしてその象徴化作用の中でその経験は受容され、自己概念は変容していく。これはつまり自己の物語が変容していくということだ。ところでここにおける自己の物語は、常に今ここに存在する実在に裏打ちされている。つまり誰かの恣意によっては語ることのできない言葉であり、物語なのだ。

 

一方私が起きる経験(フェルトセンス)を拒否し、今までの自己概念にしがみつく時、その私についての物語には何の土台もない。そこにあるのは実在に裏打ちされない空虚な言葉であり、物語である。それは悪意のある人によって恣意的に作られうる。そこに取り込まれると他者からマインドコントロールされる自己になってしまう。

 

世界についても同じだ。もしそれが空虚な言葉で語られるなら、それは全く虚構であり、ただの言葉に過ぎない。しかしもし私の中で今ここにあるという実在に裏打ちされた言葉で語られる物語であるのなら、それは虚構ではない。私にとってこの2つの違いを見分けることは、生きる上でとても大切なこととなる。

 

 

 

2020年

2月

02日

服従の心理

前述のように共同体の持つ世界や物語は可塑的である。それは絶対でもないし、過ちを含み、変化していくものでもある。一見こうした世界は物理的な現実に見えるが、それは暴力や罰、配分、規範などによって物語を補完して実体のあるものに見せているだけで、実際には物理的な現実ではない。

 

しかし一度ある物語が共同体に共有されたら、それは成員間の協力や社会の秩序を維持するためにとても役立つものとなる。そのため共同体は権威と強制力を使って物語を成員に教え込み、その物語を信じない人、規範に従わない人には罰をあたえる。

 

そして私はこの共同体で生きていく必要があるから、脅迫的に世界に適応しようとする。ミルグリムが行なった通称「アイヒマン実験」では、多くの人たちは、権威を持つとされる実験者の命令に従い、罪のない人に電撃を与えた。そして強い電撃を与えた人ほど自分の行為を正当化した。

 

『服従の心理』の中で彼は、これを「エージェント状態」と呼んでいる。私たちは世界に適応するため、上位者(実験者)に、「何のために」「何を大切に」を考えることを委ねてしまう。そしてそこで行った自分の行為が人として許せないものであるほど、世界とその物語を正当化しようとする心理が働く。

 

悪名高いナチスのアイヒマンはこの状態になって何百万ものユダヤ人虐殺を行ったと言われる。私が求めている物語は、こうした出来合いの物語を受け入れることで得られるものではない。それは「何のために」、「何を大切に」生きるかを人任せにせず、自分で感じ、考える中でしか得られない。

 

服従の心理 (河出文庫)

服従の心理 (河出文庫)

 

 

2020年

1月

30日

私と世界についての物語

私が何のために、何を大切にして、どのように生きていくのかのベース、「私が生きる知」は、私がこの世界とその中での私(またはその関わりの歴史的流れ)をどのように捉えるかに関わっている。だからこの「知」は、世界と私について、私がどのように「物語るか」と関わっていると言えるだろう。

 

それではどのような物語によって、私は他ならぬこの私がそのために生き、死んで良いと感じるようなベースを得られるだろうか。それはまず自分の生きる意味や存在意義を確かにしてくれる物語であるだろう。それは世界や他者に自分が貢献できる物語でもあるだろう。

 

しかしこうした物語には危険もある。それは共同体が与えてくれる物語を鵜呑みにしてしまう過ちに陥る可能性が出てくることだ。例えば私がナチス時代のドイツに生まれ、その世界観、ゲルマン民族だけが至上でありそのための世界建設のために戦う必要がある、を教えられ身につけたとする。

 

その私がナチス党員になり親衛隊に入れたとしたら、私は誇りに感じ、生きる意味や存在意義を見出しただろう。そして恐らくユダヤ人を迫害することを必要なことと感じ、命じられれば実行したかもしれない。しかし今この場で生きる私にとってはもちろんそうではない。

 

このように時代や場所を少し離れて眺めると、共同体の物語はあまりにも多様だ。ナチスの描く世界、キリスト教の描く世界、侍の世界、現代日本の国が描く世界・・。それぞれの世界はあまりにも違う。そしてそれは時に偏狭であり、外部の人に残虐でもある。私の求める物語はこうしたものではない。

2020年

1月

24日

身体の知恵

前回、これから私が何のために、何を大切にして、どのように生きていくのかのベース、つまり「私を生きる知」を学び問うためには、私が「私を生きる専門家」として、現実状況に向き合い、それを「省察」すること、つまり体験から学んで行くことが必要であると書いた。

 

ところでここで学び問う「知」は、もちろん大学入試で測られるような知ではないだろう。また科学的知見や技術的方法についての知でもない。それはこの私が本当にこれでいいのだと心から腑に落ちるように生き、そして死ぬことを可能にしてくれる「私についての知」である。

 

こうした知についてより理解を深めるには、フォーカシングを創始し『体験過程と意味の創造』という本を書いたジェンドリンの考え方が役立つように思う。彼は哲学者として自分のテーマを追求する過程で、心理学者のカール・ロジャースに弟子入りし、共同研究をすすめた。

 

ロジャースは、自分についての見方、捉え方である自己概念と経験の関係を追求した。そして、自己概念とあわない経験を排除してしまうのではなく、新しい経験を受け入れ、新しい自己を発見していく中で、自己概念と経験の一致が起こり、自己成長が促されると考えた。これが「経験の受容」の考え方である。

 

ところでジェンドリンによると、物事や問題・人に対し「どう感じる?」と問われた時、何かが感じられていてもそれが何だかわからない、よくわからないけど、もやもやしている、胸が重苦しいなどの「感じ」が起きることがあるという。はっきりしたイメージ、言葉、感情になる前の未分化な「感じ」である。

 

これをジェンドリンは「フェルトセンス」と呼んだ。これを無視してしまうと、経験の受容による自己成長は起こらない。ジェンドリンはこの未分化の「感じ」に注意を向け、それが言葉やイメージになっていく(象徴化される)ように丁寧につきあうことで、経験の受容が促進されると考えた。

 

具体的にはこのフェルトセンスは、(例えばある人とのかかわりにもやもやした違和感がある)現状の自分を示すとともに、自分がよりよくあるための変化の契機を含んでいる。(何がこんなにもやもやするの?何が必要なの?)そしてこれが象徴化され受容されることで、その変化が実現していく。

 

そしてこうして体験が言葉やイメージ(象徴)になっていくことで自己概念の中に取り入れられるプロセスが「気づき」である。これはまさに「私についての知」が生まれる瞬間と言える。このように彼は、私たちが受容を求められる経験について、頭でとらえるより前に身体は知っていると考える。

 

ところでフェルトセンスに丁寧に焦点を当て、経験が受容されると、身体的特徴として、必ず身体に何かがほぐれた、気持ちのいい感じが伴うとする。それは「そうそう!」「そうそれ!」と感じられるものであり、まさに「腑に落ちる」感じを伴うものなのだ。

 

このように私は、「私を生きる体験」から起きるフェルトセンスを大切にし、「腑に落ちる感じ」を頼りにすることで、これから私が何のために、何を大切にして、どのように生きていくのかのベース、つまり「私を生きる知」を学び問うことができる。これは頭だけではない、身体の知によって可能になるのだ。

 

 

2020年

1月

23日

体験から学ぶ「私を生きる知恵」

前に書いたように今の私には、これから何のために、何を大切にして、どのように生きていくのかのベース、つまり「私を生きる知」が必要になってきている。しかしこうした知は多分客観的、科学的な方法では得られないだろう。それは人間一般ではなく、この「私」が生きるための知だからだ。

 

それでは私はどのようにしてこうした「知」を学び問うことができるのだろうか。それにはまずドナルド・ショーンが『専門家の知恵』という本の中で述べた知恵を獲得する方法が参考になると思う。彼は科学的知識を技術に転用し、現実の問題を解決していく方法論を技術的合理性モデルと呼んだ。

 

この方法は医学や工学という分野で大成功をおさめた。その結果、科学に基づく技術を政治や社会といった分野にも使用することで問題解決が可能であるという考えが広まっていったとする。しかしこのモデルは、社会的な目標を達成し、問題を解決することはできなかった。

 

この現実の世界には、複雑性、不確実性、不安定さ、独自性、価値葛藤という現象がある。その現実の実践の中で、技術的合理性モデルには限界があったからである。そして「私」がこの現実の世界を生きる際にも、同じような現象に直面する。私は科学的・技術的方法では生きることはできない。

 

こうした中、ショーンは、実際に不確実な状況の中で有効に働いている様々な「専門家」を分析し、彼らが無意識ながらも実践のなかで、状況に対応するための「知」を生み出していることに着目した。その「知」の探求のプロセスが「行為の中の省察」である。

 

例えば技術的合理性のモデルでは、「なんのために」が問われることはない。与えられた目的のために「どのように」技術を適用するかだけが問われる。しかし社会にかかわる現実状況には価値葛藤が存在し、まず実践者は「専門家」として今の状況を分析し、それに枠組みを与える必要がでてくる。

 

つまり実践を行う人は、すでにある科学や技術などの一般的知識を活用しつつ、その上で行為の中で生じる体験を省察し、自分の向かいあう状況の中で「何のために」「何を大事に」「どのように」行為すればいいのかついて新たなフレームワーク、「知」を構成しながら実践していく。

 

もし私が「私を生きる知」を得たいなら、「私を生きる専門家」になる必要がある。つまりこの私を生きるという現実状況の中で、「省察」によって「何のために」「何を大事に」していくかのフレームワークを作り、その枠組みの中で、さらに「省察」することで「どのように」生きればいいのかを見いだしていく必要がある。

 

こうした観点から、私にとって真に意味のある生きるためのベースは、次のような方法論で生み出していけると考えられる。まず現実状況の中で私自身の生きてきた体験を「内省」することである。つまり体験をふりかえる中から「私が生きるための知」を見出すことである。

 

また先人たちが築き上げた哲学や思想、理論といった一般的知識や先人たちが自身の体験から抽出した「その人が生きた知」も役立つと考えられる。こうしたすでにある「知」と私自身の体験をつきあわせることで、「何のために」「何を大事に」生きればいいのかのフレームワークはよりブラッシュアップされるだろう。

 

 

2020年

1月

17日

生きていくためのベースについて

60歳を目前にして、今改めて自分が生きていくための指針・ベースについて学び問いたい気持ちが強くなっている。年齢的にも、身体的にも、死を意識せざるを得ない状況の中で、これから私が何のために、何を大切にして、どのように生きていくのかのベースを再確認したい気持ちが生まれているのだ。

 

このように私が再確認したい指針・ベースには、次のものが含まれている。

 ・何のために生きるのか(生きる使命・生きる意味・死の意味)

 ・生きる上で大切なものとは何なのか(価値観、行動指針)

 ・どのように生きるのか(生き方)

 

つまり私の求めているベースとは単なる生きる意味、価値観、生き方ではない。それらが密接に組み合わされた総体、つまり自分自身にこうしたベースを生きることが大切であることを確信させ、その大切にしていることを実現するために、いかに現実状況の中で生きていくかについて導いてくれるものである。

 

それは「人間どう生きるべきか」といった問いに答えを与えてくれる客観的な真理や科学的知識を得たいということではない。これは人間一般の話ではなく、この「私」が生きるための指針なのだ。かつてキルケゴールが「私がそのために生き、かつ死んで悔いないような実存的真理」と呼んだものに近いと思う。

 

このベースは、別の観点からすると「私自身が生きるための知の体系」と呼べる側面もあるかもしれない。それはまさに私がこの世界を生きていく時に様々な選択の指針となり、私を導いてくれるものである。それがあるがゆえにこの世という大海原を安心して渡っていけるようなものなのだ。

 

ところで人間は皆、自然に生まれ、生き、死んでいくのだから、こうした「私が生きるための知」がなくても困らないのではないか。いや、私は生きる上で大変な困難に直面すると思う。それはティリッヒが指摘したように、この世界には「生きる勇気」を奪う不安や脅かしがあるからだ。

 

例えば最近私はある慢性病にかかっていることがわかり、その検査の過程で万が一のこと、つまり死の存在に直面せざるを得なかった。「私を生きるための知」がなければ、自分が死によって無に帰するという恐怖とそれに伴う不安に対処することは難しいように感じる。

 

考えてみると病気でなくても死はいつ襲ってくるかわからない。死への恐怖やそれに伴う不安は、日常の中では巧みに「見ない」ようにできる。しかし決してなくなることはなく、時限爆弾のように人生に現れてくる。「私を生きるための知」というベースなしに、絶望や虚無に陥ることなく生きていくのは難しい。

 

また人生の中で、例えば一人で寂しく老いて死んでいくような運命が待ち受けているかもしれないという不安は拭えない。こうした不安は無力感を生む。突き詰めて考えた時、この世界には本当に意味があるのかという問いも生じてくる。これに答えられないと空虚さが人生を満たしてしまう。

 

さらにこの世界で自分が悪しきものと感じられることもある。それは罪責という形で私を脅かす。だから私はこうした不安や脅かしの中であってもなお、絶望や無力感、虚無に陥らず、自暴自棄にもならないで人生を送るための、生きる勇気を与えてくれるベースが必要と感じている。

2020年

1月

15日

自分について解釈することと今ここをいきること

昨日の夜中に目が覚めて、自分の来し方をふと考える時間があった。いろいろなことを思い出しながら、自分って真面目すぎてつまらないなと感じたり、自分の過去の人との関わり方が本当に良かったのかと考えさせられた。そしてやるせないような気持ちが生まれ、自分に否定的な感じが生まれてきた。

 

こうした「自分って真面目すぎてつまらない」「自分の関わり方は誤っているのでは」などという解釈や評価は常に過去の自分に向けられる。そして私自身が何か失敗者として決定づけられたように私自身に思わせる。例えば「真面目すぎてつまらない人」という風に私を何かの枠(檻)に閉じ込めてしまおうとする。

 

しかし今朝起きてふとした瞬間、「それでも私には今ここが与えられている」という感じが起きてきた。そしてそのことが、私に希望の光として差し込んできた。それはこのような事だ。つまり過去のある関わりを今振り返った時、「自分の関わり方は誤っていたのでは」と感じることは確かにあった。

 

しかし私はそれを機械的に繰り返す存在ではない。同じような状況が起きた時、私は新たに与えられる「今ここ」の気持ちや想い、感じを頼りにして新たにその人や状況と関わることができる。だから私は「関わり方の下手な人」ということに未来永劫決定づけられることはないのだということだ。

 

しかも「自分の関わり方は誤っていたのでは」と感じた過去の出来事においても、私は「今ここ」の気持ちや想い、感じをできるだけ大切にして関わってきた。その時は、そこには他の選択肢はなかったのだ。だからこんな風に自分を否定的に感じ、評価する必要はどこにもない。

 

今感じているのは、まず第一に自分が自分を解釈、評価する、その仕方は時に恣意的であり、不完全なものだということだ。しかし、生きている中で自分を解釈、評価することは避けられない。ただその時でも、私はそれによってどんな枠にも閉じ込められはしない、人生の失敗者などと決定づけられはしないことを忘れないでいたい。

 

 

今ここを生きるということは、こうした過去の解釈や評価によって自分を自分で作った檻の中に閉じ込めないことだ。今ここはまさに新しい時として与えられる。この今の私は新たな「今ここ」に応答して、新たな私として生きることができる。

2020年

1月

11日

今ここに生きることと平安について

昨日、消化器内科の受診があった。やはり膵臓の嚢胞病変であり、大きいもので15ミリくらいあるとのことだった。癌マーカーの検査をし、またCTを取ることが決まったが、医者の話ではガンは疑っておらず、嚢胞を一年に一度くらい経過観察するような感じで説明された。

 

前回検査の結果を自分で調べた結果、膵臓の嚢胞病変があるとわかってから、私なりに色々と覚悟をしてきた。来年があるかどうかわからない中で、どんな時が与えられても平安でいることをねらいにもした。

 

しかし昨日病院から帰ってから、いろいろな言葉にはつくせない気持ちや感じた、想いが奔流のように湧いてきて、平静でいることが難しい状況が生まれた。また妻に少し当たってしまった感じにもなった。

 

まず思ったのは、もし医者から癌が疑われ、来年が迎えられるかどうか疑わしいのであれば、こうしたものは湧いてこなかっただろうということだ。これは「ガンは疑っていない。年に一度経過観察をする」という言葉、つまり来年がある可能性が高いという認識から生まれてきたものだ。

 

それはただ良かったという安心ではない。うまく言い表せないが、この身体の奥深くから湧いてくる、生きたいという根源的な欲求のようなものであり、生も死も今ここで同じに受け入れる万物斉同の考えに対し、それは嫌だと叫び声を上げているような感じだった。

 

その感じは他の人の下の世話をしている時のような生々しさ、ドロドロしたものを含んでいた。いのちをこの身に持つ身体が、それそのものの存在を主張して、自己の存続に執着しているように感じられた。これが「来年があるかもしれない」という認識の中で、まさに溢れ出てきたのだ。

 

さらに身体を脅かす危険の中でも、「今ここ」を信頼し平安でいたいと努力することが、こうした生々しさやドロドロした感じに蓋をする作用となっていたようにも感じる。恐れや根源的欲求を含んだ生々しさやドロドロした感じが、平静の心を失わせることを私は嫌がっていたのだなと感じる。

 

しかし今思うと、こうした中でも私は一番奥底で「今ここ」を信頼していたと思う。また身体が自己の存続を求めて生々しい叫び声を上げることは、私の平静さを失わせることになるかもしれないが、いのちの一番深い真実に近い、とても大切なものであるように感じる。

 

私のしたいことはこうした奔流のような気持ち、想いに蓋をして平静を保つことではないだろう。むしろこうした言葉にならない気持ちや感じの洪水の中で、それも与えられた大切な時であると捉え、でもそのさらに底流にある「今ここ」のいのちの流れを感じ取り、そこに信頼して、もっとも奥の部分で平安の中にいることだと思う。

2020年

1月

10日

今ここを生きるということ

最近、今ここを生きるということの大切さを痛感しています。

昨年12月に検査入院をしたのですが、先を思い煩ったり、過去を後悔したりすると心が乱れ、穏やかな気持ちでいられなくなります。どんな時が与えられても、平安を保つには、「今ここ」を信頼すること、今ここでできることに集中することが大事だなと感じています。

 

今年はこのブログで「今ここを生きること」について書いていきたいと思っています。

2015年

7月

06日

老年期

エリクソンの「老年期」を読んでいます。CommentsAdd Star

今年は4月くらいからエリク・エリクソンを読み始めました。ライフサイクルやアイデンティティに関するさまざまな彼の考えをおってきましたが、この本は彼自身が80代になったときに書かれた、人生の最後の時期の「生き方」に関する本です。


彼がまだ若い時に始めた研究の際に、対象となった若い親たちが年を取り、老人となったのを詳細なインタビューで調査しています。


この年代になった時、老人が死に直面しつつ、これまでの自分の生き方を改めて再吟味し、残された時間に向かう様子が克明に記録されており、私自身、こうした時期に向かう準備を今からしておかねばならないと強く感じています。

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2015年

6月

25日

「青年ルター」

いまエリクソンの青年ルターを読んでいます。CommentsAdd Star

青年ルター〈1〉

青年ルター〈1〉


エリクソンの考え方の重要なものの1つに、個人がその深い内面的葛藤を克服するための闘いが、その時代に共通する矛盾や葛藤を乗り越えるエネルギーとなることがあります。これを体現するのが、歴史を動かすアイデンティティを提示する偉人たちです。エリクソンはその例としてガンジー、ルターを取り上げ、その前半生を分析する本を書いたのです。


私が感銘を受けたのは、一人ひとりの内面と歴史の動きが連動しているという指摘であり、しかもあたかも内面的な弱さととらえられがちな葛藤の存在、しかもそれを深く感じ取り生きている人、つまり今の社会にそのまま適応できにくい人が、はじめて社会を変革する新たなアイデンティティを提示することができるということでした。


しかしこれらの本をみると、総じてこうした偉人には、表面的な意味での心の安心、知足というものはないようで、私だったら嫌かなとも思います。でも最近こうした葛藤や矛盾があっても、それが起きるままに起きることを受け入れることが「心の平和」なのかもしれないと感じてもいます。

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2015年

5月

28日

死を見つめる心

いま岸本英夫さんの『死を見つめる心』を読んでいます。Add Star

死を見つめる心 (講談社文庫)

死を見つめる心 (講談社文庫)


これは随分前の本ですが、宗教学者だった岸本さんがガンにかかり10年間の闘病の中で、死と向き合いながら書かれた本です。人生の午後を迎え、自分の死について目をそらすことのできない年になっている私にとって大切なことが書かれていました。


まず岸本さんは私のような立場の者と、病気等で余命が限定されてしまった状態では大きな違いがあると言います。それが「生命への飢餓感」です。死に向かってはいるがまだ余裕のある状態とは異なり、余命がはっきりと限られると、「空腹」と全く同じような命への飢餓感が猛然と湧いてくると記されています。空腹に耐えることが苦しい様に、生命の飢餓に耐えることも苦しい。これは覚悟が必要だなあと感じます。


また岸本さんは、死を「大きな別れ」ととらえる見方を提示しています。引っ越し、転職などいろいろな別れがある時、私たちは相当の準備をします。しかし死という大きな別れに際して私たちは十分な準備をしないことが多い。それでは「よい別れ」ができないというのです。


この準備の一つが、自分がそれによって死ぬことができる「生死観」を持つことです。岸本さんは宗教学者の立場から4つの生死観の類型をあげています。


1、肉体的生命の存続を希求するもの 例 不老長寿、ミイラ

2、死後における生命の永続を信じるもの 例 霊魂不滅 死後の生命 輪廻

3、自己の生命を、それに代わる限りなき命に託するもの 例 経済 会社 子孫など

4、現実の生活の中に永遠の生命を感得するもの 例 時間を超えた永遠感 禅


自分がそれで死ねると確信できる生死感を持っているのかどうか、今のうちに準備しておかねばならないと感じています。

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2015年

5月

04日

ピアジェの『知能の心理学』

いまピアジェの『知能の心理学』を読んでいます。


これは人間の成長を取り扱うラボラトリーにおいても基本図書の一つだと感じます。

とりわけ私が感動したのは、ピアジェが人間の発達の最終段階で挙げている形式的操作、つまり論理の発生が社会的協働関係とかかわっているという指摘でした。


その前の段階である知覚も感覚運動的知能も、直感的知能も「自己中心化」の傾向を持ちます。これは自分の身体を基準に物事をとらえるため、他者の視点からみるということが制約されるためです。このためこの段階の知能は、一方通行的で、自分の身体に固定化されたものになります。


一方形式的操作、論理においては、自己中心を脱却し、完全に可逆的で可変的になります。これは言い換えれば自分という視点を完全に離れ、他者の視点と自己の視点を等価でなものとらえないとできないのです。


ところでこうした形式的操作は言語や、数字といった表象を基盤としていますが、これは個人的に作られるものではありません。社会、つまり共同体のものなのです。そしてこの共同体が対等な社会的協働関係を作っている時、自己と他者の視点の等価性、可逆性が学ばれるのです。


社会のあり方と人間の発達が関係していることがこれほど明瞭に語られる理論に驚きを感じています。

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2015年

4月

21日

『ガンディーの真理』とアイデンティティ

いまエリック・エリクソンの『ガンディーの真理』を読んでいます。CommentsAdd Star

エリクソンと言えば「アイデンティティ」の概念が有名ですが、この言葉は通常私たちが理解しているよりも深い意味を持っています。


例えばこの『ガンディーの真理』は、ガンディーが自らのアイデンティティを確立していくプロセスが、イギリスの植民地としての支配を受ける中で衰微し喪失されていったインドのアイデンティティを取り戻すプロセスとして描かれています。


つまりアイデンティティとは、心理的に自分を支える中核的なものであるばかりでなく、同時にコミュニティや社会の中核的価値を表すものであり、そしてそれは歴史的なものでもあります。


ところでこうした歴史的アイデンティティが衰微しているかどうかを測るものとしてエリクソンは次のような指摘をしています。それは「子どもが、自分たちの未来について親が信念を欠いていることを知覚」しているかどうかです。


例えばイギリス製の綿布を強制的に消費させられていたインドでは、手織りの綿工業が衰退し、多くの民衆が職と誇りを失ったと言われています。法律や裁判もすべて英国式であり自分たちで何も決められず、変化させられない。こうした時、子どもを育てる親は、子どもの将来に信念を持つことは難しいでしょう。唯一未来への希望が持てるのは、上から押し付けられたアイデンティティ(英国の認めるインド人の役割)を受け入れる時だけなのです。


こうした時、ガンディーは手回しの「糸車」を復活させ普及する活動に取り組みました。それは単に反機械文明の活動ではなく、まず自らのアイデンティティの象徴であり、同時にインドの民衆が自らのアイデンティティを回復する上での象徴となりうるものであったのです。これは彼の考える「自治」の象徴なのです。


これを読んで私は、今の私たちの時代、そして社会のアイデンティティは衰微を始めているのだろうかと自問せざるを得ませんでした。なぜなら私はいま子どもの将来に信念を持つことは難しいと感じているからです。


植民地でないにもかかわらず、いまここで違和感を感じている原発が動いたとき、その作る電気を消費することを拒否する自由がないと感じています。異常気象が温暖化のせいと思っても、それを変化させることができない。そこに私は絶望を感じます。

その中で子どもたちはよい職業に就くために(希望を失わないために)よい大学、よい高校に入るための競争から逃れることができない、つまり与えられたアイデンティティを身につけるしかない状況にあります。


今求められているものは、私たちが心理的・社会的に重要であると感じることができ、そして子どもにもそうなってほしいと信念を持って思えるような歴史を包み込むアイデンティティなのではないかと感じています。

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